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                           かけはし2006.2.27号

社会変革のための民主的、複数主義的、人間的な枠組と戦略にむけて(3)

ピエール・ルッセ

第2章 橋渡し―再評価の過程

3.女性の運動とエコロジー運動からの教訓

 再評価はまた、組織が新しい分野あるいは新しい形態の闘争の発展に直面したときにも行われた。私の世代にとって、一九七〇年代に、 特に女性の運動とエコロジー運動でそのことが求められた。
 われわれのごく少数のメンバーが、エコロジー運動の出現に最初から関わっていた。われわれのかなりの数の女性メンバーが、女性の闘争の新しい波に、あらゆるレベルで-政治闘争でも理論構築の面でも――非常に積極的に参加していた。
 それにもかかわらず、(男主導の)組織そのものは、これらの新しい発展に当初から有機的な構成要素として参加するのではなく、それに対応することを迫られた。これらの課題をより積極的に組み込んでいくためには長い時間と多くの混乱を経なければならなかったし、その成功の度合いは不均等である。
 女性の運動とエコロジー運動の両方から、われわれは階級社会と家父長制の関係、生産様式と人間社会と環境の間の関係について新たに考えることを求められた。

4.予測に基づいた政治は可能か


 誤りが繰り返される場合に、再評価が行われるべきだし、時には実際に再評価が行われている。われわれの間では、「予測」の問題をめぐってがそれが行われた。われわれは予測をもとに政治方針を立てることを何度も繰り返し、何度も失敗してきた。その最も良く知られた例は、前の世代が関わっている「第三次世界戦争」という予測である。これは朝鮮戦争の時期のことであり、このような予測が問題外だったわけでは全くない。
 問題は、非常に具体的で重大な政治的決定がこの予測に基づいて行なわれたことであり、また、第三次世界戦争がもはや現実の日程に上っていないことが明らかになった後も長期にわたってそのような政治方針が保持された。たということである。前に述べたように、私の世代も間違った予想を立てた。とくに一九七〇年代半ばのヨーロッパにおける階級闘争の激化に関する予想がそれである。
 情勢の発展には非常に多くの要因が関係しているので、予測するのは難しい。それだけでなく、中期的あるいは長期的な予測は不可能である。なぜなら、将来の発展は現在進行中の闘争の結果によって変わるし、現在の闘争の結果は、当然のこととして、あらかじめ知ることはできないからである(それは闘争によって決まる)。私たちは、さまざまな可能性に対して心準備しておくために、将来の発展について自由に話し合うことができる。しかし、現実の情勢ではなく推測をもとに具体的な政治方針を決定するところまでそれを進めてはならない。
 われわれは一九八〇年代に、「予測」を「意識的経験主義」に置き換えてきた。「経験主義」でなければならないのは、新しく現れている動向や、新しく現れている可能性をできる限り早く感じ、組織が変化にすばやく対応し、それを最大限に活用できるようにするためである。
 「意識的」でなければならないのは、社会的現実を「読解する」ために綱領や理論が強く要求されるからである。これは綱領や理論が重要でないと主張しているのではなく、政治方針が実際の、常に変化する現実を根拠とすること、また、知識そのものが経験的に得られるものであることを強調しているのである。

5.複数主義についてのより深い理解

 これまでに述べてきた問題の大部分は、われわれの「原罪」のために、われわれが(比較的)弱かった分野に関連している。私が特に興味深いと思ったのは、われわれが(比較的)強かった分野についても、われわれの考え方を再評価しなければならなかったということである。複数主義の問題がそれである。
 一九七〇年代に、われわれは他の多くの潮流と違って、マルクス主義者の運動や労働運動の複数主義的な性格を常に認識していた。この問題に関するわれわれの綱領は、マルクス主義の古典や、二十世紀初頭のヨーロッパの社会運動、ボリシェヴィズム、左翼反対派の反スターリン主義の闘争から借りてきたものである。
 参照するべき文献はたくさんあった。マルクス、エンゲルス、ローザ・ルクセンブルグ、レーニン、トロツキー、その他のボリシェヴィキの思想家たち、チェ・ゲバラ等の「古典」が共通財産として存在し、しばしば引用され、われわれの本棚に並べられていた。また、ほかにもグラムシからルカーチまで、ホセ・マルティからサンディニスタまで広範な文献があった。毛沢東やレズアンの著作を読んでいたのも私だけではなかった。
 このように、われわれは複数の労働者政党が存在しうる(また、実際に存在してきた)こと、そしてマルクス主義の思想にはダイナミックな多様性があることを常に意識していた。われわれはまた、われわれの組織の内部での民主主義的スペースを重視してきた。テンデンシー(潮流)や分派の権利を含めてである。これはわれわれの組織の優れた点の一つだった。
 しかし、ある時、エルサルバドルにおける革命的組織間の統一戦線の経験を前にして、われわれはこれまで「複数の労働者政党と単一の革命党」という公式(前の世代から継承した考え方)を繰り返し使ってきたことに気付いた。そのとき初めて、われわれは複数主義の概念をさらに拡張して、複数の革命党が存在しうる(また、実際に存在してきた)と主張するようになった。

6.われわれの国際的な展望の重要な変更


 複数主義についてのわれわれの理解の深まりは、より一般的なわれわれの展望の修正に対応している。われわれは前の世代から、国際社会主義運動の概略的な見方を継承してきた。それは三つの極を中心に編成されており、そのうちの二つが改良主義(社会民主主義とスターリニズム)で、三番目が「革命的マルクス主義」(それは基本的にはわれわれ自身を意味していた)であるという見方である。
 この三つの極の間に、さまざまなタイプの「中間主義」が揺れ動いている。歴史的経験の助けによって、独立的な中間主義潮流と社会民主主義およびスターリニスト党の中の左派がラディカル化し、われわれの綱領の正しさを「発見」し、われわれの隊列に加わるだろう。
 もちろんこれは一九五〇年代の遺産を過度に単純化した記述になっているが、私はこの記述が何か基本的に正しいことに触れていると考えている。多くの同志たちはこのような歴史的な図式をあまり快く思わなかった。ここで言う「三つの極」のうちの二つは物理的に非常に強力であり、強力な吸引力を持っていた。革命的マルクス主義の吸引力は基本的には「綱領的」なものだった。それは前二者と同じ平面の中では作用しなかった。「中間主義」という概念は、ある種の状況の中では非常に有益だった。しかし、それはあまりに広い範囲に及んで-たとえばベトナム共産党のような、自身の闘争の中で非常に一貫した立場を堅持していたような党にまで-適用されると、意味を失った。
 当時、革命運動の複数性は十分に認識されていなかったか、あるいは1つの過渡的な段階として考えられていた。まさにこの点で、われわれの展望が変更された。革命の経験は非常に複合的である。あまりに複合的であるため、特定の綱領の「正しさ」が明らかに証明されるようなことはない。
 今では、革命運動の複数性は持続的な現実であり、やむをえない選択としてではなく、肯定的に取り上げられるべきであると考えられるようになった。そのことはわれわれが革命勢力の統一のために闘うべきでないということを意味しない。それが意味することは、われわれがラディカルな党派間の関係、あるいは一つの統一した政党の機能について考えるときに、この問題を十分に考慮に入れるべきだということである。

7.「開かれた歴史」という考え方

 われわれの歴史観も変化した。われわれは前の世代から(そしてマルクスから!)、歴史の「直線的な発展」という考え方や、社会民主主義とスターリニズムに共通するこの問題についての支配的な言説に対する批判を学んできた。
 しかし、われわれは歴史の複線的な性格は過去における事実であると考えていたフシがある(そのようにはっきりと言ったわけではないが)と私は感じている。生産様式をめぐる議論の中で示されたように、人間社会はいくつかの異なる発展過程をたどってきたのであり、ヨーロッパの発展過程が普遍的であるわけではない。しかし、帝国主義と資本主義世界市場の統一は新しい時代を開いたのではないか?
 一九八〇年代に、われわれは生産様式をめぐる討論をさらに進めた。われわれは「開かれた歴史」という概念を取り入れた。そこでは将来は決定されておらず、危機の時期に「歴史的十字路」がいくつかの(限られた数の)可能性に道を開く。強い制約が存在するが(社会経済的制約や環境の制約など)、どの可能性が現実となるかを決定する上で、社会的闘争が独自の役割を果たす。革命組織は抽象的な「歴史的必然性」ではなく、そのような可能性に着目しなければならない。
 歴史観と関連し、ジェンダーやエコロジーの考え方も援用して、われわれは「進歩」という伝統的概念、あるいは資本主義的生産関係と権力によって押し付けられた価値観への批判も取り入れた。(つづく)


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