| 狭山再審を求める東京集会に300人 かけはし2006.2.20号 |
石川さんが第三次再
審に向け決意表明
二月六日、豊島公会堂で「狭山事件の再審を求める東京集会」が狭山東京実行委員会の主催で開催され、三百人が参加した。
遠藤幹夫実行委員会議長の主催者あいさつの後、石川一雄さんが登壇し第三次再審に向けて決意表明した。
「私は六十七歳だが健康管理を徹底的に行っており、精神的には三十〜四十代だ。人生は長い、がんばれる。第三次再審の扉をぜひ開きたい。第二次再審で今度は再審を決定すると思っていた。しかし、高検の検事を最高裁の判事に送り込んだあたりで、これはダメになるかもしれないとも思った」。
「二次再審では理詰めで司法を追いつめた。今度は裁判所が逃げられないような証拠を出さなければならない。三次再審に向けて弁護士が十人増えた。この前新しい弁護士を入れて会議を行い議論になった。それは良いことだ。五月には再審を申請するだろう。今度は棄却できないものを出せるだろう。私は無実だから、事実調べを始めれば必ず真実は見えてくる。今後とも皆さんの力をかりて、私が元気なうちにこの三次で終わらせたい」。
「推論」を持ち出
し有罪を維持
次に、関久事務局長が基調報告を行った。
「棄却決定で特に不当であり、かつ驚くべきことは、確定判決はもちろん、これまで検察官さえ主張したことのない『論点』を持ち出して、棄却の理由としていることだ」。
「『有罪認定の決め手となった物証・万年筆』について、弁護団は、これが『でっちあげの証拠』であることを疑わしめる多数の鑑定を提出していた。『脅迫状に万年筆が使われている。確定判決によれば石川さんは犯行前に被害者の万年筆を持っていないから、脅迫状は石川さんが書いたものではない』という齋藤鑑定などです」。
「ところが最高裁は今回の決定で、『石川さんが犯行前に(被害者の物ではない)万年筆を持っていた可能性も否定できない。よって脅迫状に万年筆が使われていたとしても、そのことをもって石川さんが脅迫状を書かなかったとは証明できない』という趣旨の『推論』を持ち出し有罪認定を維持した」。
そして関さんは、一度も事実調べを行わず、証拠開示にも応じていないと検察・裁判所の対応を厳しく批判した。最後に、「実行委員会として第三次再審闘争にむけて全力を発揮し、完全勝利を勝ち取ろう」と提起した。
次に中山武敏さん(狭山弁護団主任弁護人)が「再審の一次・二次で出来なかった事実調べを行わせることができるかどうかが、三次再審の最大のポイントだ。最高裁の白鳥決定の『再審を開始するか否かは、@新旧証拠を総合的に評価し判断するA疑わしときは被告人の利益に』という立場に立たせることができかどうかにかかっている。弁護団を増員して全力で取り組む」と講演した。
続いて、組坂繁之部落解放同盟中央執行委員長が部落差別が狭山事件を作り出した、と述べて他の冤罪事件を紹介しながら、いかに石川一雄さんが無実であるかを分かりやすく講演した。
講演の最後に組坂委員長は「いくら石川さんが元気だとは言ってもすでに三十一年七カ月の獄中生活を経た今六十七歳だ。三次再審は三〜五年かかるだろう。新たな署名運動の開始、証拠開示をせまるために国連・人権委員会への働きかけを強めて、絶対に狭山闘争に勝利する。狭山闘争の勝利なくして、部落完全解放はありえない」としめくくった。
東京同宗連、部落解放墨田区民共闘からの活動報告、集会決議・スローガンの採択の後、団結がんばろうを行い、狭山闘争の勝利を誓いあった。 (M)
「北方領土の日」反対集会
アイヌ問題で扶桑社から謝罪を勝ち取る
二月七日、東京・飯田橋の東京しごとセンターで「『北方領土の日』反対!アイヌ民族連帯!関東集会」が開催された。
最初に主催者が基調を提起した。
「二月七日の『北方領土の日』はアイヌ民族をはじめとする北方諸民族の権利をないがしろにして、日本全国津々浦々で排外主義を煽りたてる日となってきた。昨年十一月にはプーチンの来日に際して、私たちはチェチェン民族へのロシアの虐殺に抗議する人びととともに、アイヌ民族を無視した『領土交渉』に反対する集会・デモを行った。日ロ首脳会談では『領土交渉』は進展しなかった。私たちは日ロ平和条約の締結には反対しないが、それがアイヌ民族の自決権、自治権を踏みにじった『領土』の取り決めならば、まったくナンセンスだ」。
つづいてゲストとして来ていただいた「アイヌ民族と連帯し、扶桑社教科書を批判する会」共同代表の塚田タカヤさんの報告と歌が行われた。
扶桑社版「新訂版 新しい公民教科書」教科書と市販本の同書は、「アイヌの人々」というキャプションで、川村シンリツエオリパックアイヌさんと旭川チカップニアイヌ民族文化保存会の人びとが写っている写真を掲載した。しかしこの写真は本人たちに事前の了解を取ることなく無断で掲載したものであり、しかもその写真下の説明文で「一九九七年にアイヌ文化振興法が制定され、アイヌの伝統文化を保護・普及しようとしている」と、あたかもそれが川村さんたちの主張であるかのように記述したのである。
これに対して、川村さんたちは扶桑社との何回かの話し合いを持った上で、ついに同社からの謝罪を勝ち取り(05年12月19日)、また市販本『新訂版 新しい公民教科書』の第1刷の返本分に関して断裁し、再出荷しないこと、第1刷分の残部の回収を12月22日までに行い、回収本についても断裁し再出荷を行わないという「和解書」を取り交わした。これは大きな成果である。
次にレラの会会長の長谷川修さんが報告した。長谷川さんは「皇族を人質に取って、アイヌ民族への謝罪を求めた」という「初夢」を語り、明治初年からの「北海道開拓」の歴史の中で、天皇の数々の「勅」が果たしてきた役割を指摘した。そして「天皇・皇族の問題が解決されない限り、アイヌ民族の権利は回復されない」と訴えた。
最後に、命どぅ宝ネットワーク・太田武二さんの「琉球独立に向けて」というアピール、アイヌ民族共有財産裁判の現状、「北大人骨事件」真相究明に向けたアピールを受けて、質疑討論を行った。 (K) 書評
樋口篤三著 同時代社刊 1900円
『靖国神社に異議あり』
小泉政権を討つ絶好の課題
自らの体験と肉親への愛情が
アジア民衆を思う心の原点
二〇〇一年に首相に就任して以来、小泉は侵略戦争を賛美する神社・靖国神社に毎年参拝している。小泉は「戦死した人びとを追悼し、二度と戦争を起こさないという気持ちを込めて靖国にお参りする」という詭弁を繰り返し弄び、「中国や韓国が靖国を批判することが分からない。日本人が靖国参拝に反対することも分からない」と居直って、アジアの人びとの心を挑発的に逆撫でし、踏みにじっている。麻生外相にいたっては、ついに「兵士たちは天皇陛下万歳と叫んで死んだのだから、天皇陛下が靖国神社にお参りするべきだ」との妄言をなんのてらいもなく語る始末だ。
この靖国神社に付随する遊就館には、「終戦の詔勅」から三日後の八月十八日、侵攻したソ連軍を迎え撃った北千島・占守(しゅむしゅ)島での日本軍の闘いをほめたたえるリーフレットが置かれている。本書の著者・樋口篤三さんの二歳上の兄は、「ポツダム宣言受諾」を知ることもなく占守島の闘いで戦死した。
太平洋戦争で亡く
なった3人の兄
樋口篤三さんは太平洋戦争の末期に土浦海軍航空隊に志願兵として入り、「天皇のために戦い、死ぬ」ことを決意していた。樋口さんの兄三人は、太平洋戦争で戦死し、いずれも「靖国」の「神」となっている。樋口家の三男・純三は一九四四年に中国戦線で、四男・慶治は一九四四年にサイパン戦で、そして五男・栄助は、先述したように一九四五年八月十八日に占守島で戦死したのである。三人の兄が戦って死んだ相手は中国、アメリカ、ソ連とそれぞれ違う。ここに侵略戦争での戦死の無残な縮図を見ることができる。
戦後すぐ、軍国少年から価値観の大転換を果たし、日本共産党に入党して以来六十年にわたって革命運動に献身してきた樋口さんは、二〇〇一年に食道ガンを患って以後、三回にわたる大手術を繰り返したが、不屈の精神力で健康を回復し、現在も闘いの一線に立っている。今年、一月十四日には喜寿の祝いを兼ねた本書の出版記念会が行われ、百五十人もの人びとの前で、以前といささかも変わらぬ「樋口節」を披露した。
本書は、樋口さんが二〇〇四年の三回の入退院で強制された「人生の休養」期に、戦死した三人の兄について記し、私家版として発行した『恒久平和の礎に――土中の骨、海中の白骨への鎮魂歌』(本書では「第二部 靖国神社に合祀された三人の兄」)をもとに、「第一部 靖国神社――国家・陸海軍による虚構の大装置」、「第三部 アジアの中の日本――問われる歴史認識」を新たに書き加えて、戦後六〇年の昨年八月に出版されたものだ。
仲のよかった兄
たちへの追悼
本書の主題は、仲の良かった三人の兄への痛恨の思いがこもった追悼であり、兄たちを殺した天皇制日本帝国主義による侵略戦争への歴史的反省であり、そしてこの侵略戦争の責任を居直るばかりか、それを正当化し、A級戦犯を「神」として崇め、新たな「戦争への道」に突き進む装置となっている靖国神社とそこに参拝を繰り返す小泉ら、日本の支配階級への告発である。
本書が何よりも心を打つのは、樋口さんの「靖国」への批判・告発が、自らの体験に根ざしたものであり、「神」とされた肉親への愛情に裏打ちされたものだからだ。そして三人の兄たちの非業の運命と重ね合わせる形で、日本帝国主義の侵略戦争によって殺された幾千万のアジアの民衆に対する思いが貫かれているからである。
私が以前、歴史学者・藤原彰氏の『餓死した英霊たち』(青木書店刊)の書評を書いた時(本紙01年9月10日号掲載)、すぐに樋口さんがわざわざ新時代社に電話をかけてきて「あれは良かった」と言ってくれたことを思い出す。藤原氏は陸軍士官学校出の職業軍人として中国戦線を転戦し、樋口さんの兄・純三氏が戦死した「大陸打通作戦」で負傷した経験を持っている。藤原氏も、太平洋戦争の敗戦後その価値観を根本的に転換し、東大に入学して日本共産党に入党し、学生運動に邁進するという樋口さんと同じような歩みを辿った。
「そうなんだ。『名誉の戦死』というが、戦場で死んだ兵隊たちの大半は、補給もないままに敗走して餓死したというのが事実だ。突撃して玉砕したのは一部だ。小泉などはそういうことが分かっていない」。電話で語るその時の樋口さんの言葉は、実感がこもっていた。私は、当時樋口さんの三人のお兄さんたちの戦死については知らなかったが、樋口さんの、藤原氏の著書への実感にもとづく共感は、本書の中にも随所に表現されていると感じる。
モラルの問題は
今後とも討論を
本書の第三部で、樋口さんは明治維新以来の日本人のアジア認識を総括し、日本・朝鮮・中国の民衆がともに進むべきことを強調している。その中で樋口さんは西郷隆盛の「王道のアジア主義」を評価しているが、それは儒教の「東洋的道徳・仁義」への樋口さんの傾倒とも重なり合うものである。こうした観点から、樋口さんは中国共産党の紅軍―人民解放軍のモラルを全面的に賞賛している。それは革命運動内部の特権主義や官僚主義に対する樋口さんの厳しい批判を背景にしている。
「アジア革命と社会主義」を若い時からの政治的バックボーンにしてきた私にとって、日本近代における「アジア主義」の矛盾に満ちた展開には、大いに関心をそそられる。しかし西郷隆盛の思想の歴史的意味については、私は勉強不足もあって、あえてそれに疑問を投げかけるだけの素養もないのだが、中国共産党の「モラル的高潔さ」とそれを支えた孔子・孟子以来の儒教道徳の意義を強調するのは、かなり違うのではないか。
樋口さんは述べる。「中国の三〇〇〇年におよぶ長い歴史の中で、最良の思想、政治、軍事と道徳を学び継承し、今に生かし発展させるというのは、毛沢東や劉少奇が幾たびか明言してきたことである。……『政治と道徳』も、孔子孟子等によく出てくる『尭・舜の政治』道徳国家・道徳政治を理想としてきたことがくり返しでてくる」。
毛沢東がそれほどモラリスト的に自己を律する人だったかについては私と意見が異なるし、革命家のモラルの問題については、中国共産党をそのように持ち上げるつもりもない。私は革命運動における「モラル」に関してその重要性を認識することにやぶさかではないが、それを「儒教道徳」と結びつけることにはどうしても納得できない。この点では、私はやはりトロツキーの「彼らの道徳とわれわれの道徳」に固執するのだ。
いろいろ失礼を言ってすみません。最後に書いた注文や疑問は、これからももっと討論しましょう。(平井純一)
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