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欧州反資本主義左翼会議の宣言              かけはし2006.1.30号

EU 06年5月パリでEACLフォーラム

憲法条約の拒否は新自由主義政策に対する民衆の批判

 二〇〇五年十一月二十六日、二十七日にロンドンで欧州反資本主義左翼(EACL)会議が開催された。同会議は、フランスとオランダでの欧州憲法反対票の勝利が作りだした情勢を詳しく検討し、欧州レベルで登場すべき活動的でラディカルなオルタナティブの必要性を繰り返し確認した。したがって同会議は、とりわけ欧州ラディカル左翼のフォーラムとしての広範なセミナーを二〇〇六年五月に主催することを提案し、自らの活動と存在の可視性を高めることを決定した。

「要塞ヨーロッパ」反対

(1)欧州憲法に関するフランスとオランダでの国民投票の結果は、欧州連合の新自由主義的構想に大きな打撃を与えた。EU憲法案は死んだも同然となり、EUそれ自身はいまや正統性の危機に陥っている。
 欧州憲法条約は、中道右派、中道左派双方の欧州諸国政府が支持した新自由主義的諸課題をまとめたものであった。それは、企業と株主たちの利益のために一九五〇年代以来EUが建設されてきた反民主主義的あり方から発したものである。結果として、憲法条約に対する民衆の拒否は、一国的、欧州的な双方のレベルにおける新自由主義的な課題に対する民衆の拒否を意味している。しかしわれわれは、自由市場政策を実施する流れは、EU、米国、そして中国の資本の間の競争によって先鋭化するだろうことも認識していた。
 そこで、ドイツ、イギリスなどの諸国政府が退職年齢を六十七歳まで引き上げる提案をし、福祉、医療、教育への攻撃をする中で、さらなる民営化政策と年金への攻撃がなされていることをわれわれは見ている。これはさらに、最近のベルギー、フランス、イタリアのストライキ、またイタリアでの学生たちの抗議と占拠行動に示されるような抵抗運動を燃え上がらせている。
(2)ラディカル左翼は選挙で成功し続けている。最近ではデンマークとイングランドで、そしてなによりもドイツ連邦議会選挙での左翼党の勝利にそれが示された。この勝利は、ドイツ左翼の統一したキャンペーンの結果である。第二次世界大戦以後初めて、左翼のほとんどすべての広範な連合が、新たな左翼党を支持した。新自由主義諸政策に反対する議会内と議会外の闘争を調整するために、左翼党と社会運動との対話が始まった。
 ドイツの新政権が、すでに社会制度への厳しく痛みの多い切り下げを発表しているため、これは緊急の任務となっている。ドイツの左翼勢力は、新しい新自由主義政権の政策と脅しに反対するキャンペーンを三月一日の共同行動デーから開始する準備を進めている。彼らは、ドイツにおける二〇〇七年のG8サミットに反対する抗議行動のための広範な連合を準備し、欧州規模での動員を呼びかけている。
 欧州反資本主義左翼は、最も強力で重要な欧州の社会民主主義政党(訳注:ドイツ社民党のこと)の分裂がきわめて重大な出来事であり、社会民主主義のさらなる危機の発展と、左翼オルタナティブの建設のさらなる前進を刻印するものであることに留意する。
(3)EUの権力中心は、自らの新自由主義政策を推進し、労働者階級の以前の世代が勝ち取った社会的成果を解体することを決意している。われわれが直面している攻撃の一つは、年金問題であり、退職年齢引き上げの企図である。この民衆的階級とビッグビジネスとの対決にとって、根本的な重要性を持っているのはサービスについての指令(ボルケシュタイン指令としても知られている)であり、その主要目的は賃金を引き下げ、EU諸国家全体の労働の権利を切り下げることである。
 われわれは、東欧の労働者を西欧の労働者に対抗させようとする分割支配の政策を拒否する。われわれは、欧州において最悪の労働条件を受け入れるよう求められる「底辺への競争」を拒否する。われわれは、WTO/GATS協定(サービス貿易一般協定)、ならびに二〇〇〇年のEU評議会で合意され二〇〇五年に改訂された新自由主義的EUのためのリスボン戦略から発するこの指令に注意する。あらゆる国の労働者は、その出身にかかわらず、その国の市民として同一の権利と賃金を付与される。
 われわれは、この大陸全体のすべての人びとが生活賃金に基づく仕事を確保する目的で、全欧州の労働運動が政策と行動を調整するよう論議するだろう。団結したわれわれは、すべての人びとのために成果を得ることができる。分裂したわれわれは、「底辺への競争」の中で争うことになる。欧州反資本主義左翼(EACL)会議に参加した組織、政党、運動は、欧州議会がサービス指令/ボルケシュタイン指令を討議するために会合を開く時、この措置に反対するために二〇〇六年の初めに計画されている行動に積極的に参加し、それを推進するだろう。

(4)新自由主義政策と社会的諸権利への攻撃がもたらす結果は、失業と貧困の増大ならびに、とりわけ青年と女性労働者の間での不安定な貧困賃金の増加である。青年に対する警察の人種差別や挑発的行動とならんで、この貧困と希望のない状況が、今月フランスで郊外地域で爆発した暴動の背景にあるものだった。
 フランス政府と政治体制の唯一の回答は、一九五五年のアルジェリア人民に対する植民地戦争の期間に可決された法律にもとづいた非常事態の施行をふくむいっそうの弾圧だった。この法律は、市民的自由の停止と、夜間外出禁止令を強制してデモと集会を禁止する権利を警察と知事に与えるものである。

(5)貧しい人びとと移民に対する戦争は、社会的諸問題に対する回答にはなりえない。ここ数カ月、われわれはセウタとメリリャ(いずれもアフリカ北西端のスベイン領土)での衝突、ランペドゥーサ(地中海にあるイタリア領の島)、シチリア、マルタでの難民の拘禁という形で、欧州の地中海境界地帯でのいっそうの軍事化を見てきた。われわれはリビヤの拘留センターに難民を追放する政策を拒否する。ほとんどのEU諸国では、二〇〇一年九月十一日以後、「テロとの戦争」を口実に使った市民的自由に反する新たな措置が成立した。
 ここ数カ月、EU諸国でのわれわれの権利を制限する法律の無分別な可決や、CIAの拷問と東欧での非合法の拘禁センターの創設が支持されるのを見てきた。アメリカはEU内の空港を使って、飛行機でこれらのセンターや、さらにバグラム(アフガニスタンの都市)とグアンタナモのセンターに捕虜を移送しているのである。
 われわれはいわゆる「文明間の戦争」や、この政策の背後にある「イスラム嫌悪症」を拒否する。われわれは戦争と人種差別に対するわれわれの反対、人権を擁護するわれわれの責任と「要塞ヨーロッパ」へのわれわれの拒否を新たなものにする。

(6)欧州反資本主義左翼は、戦争ならびにイラクとアフガニスタンの占領に反対する運動の不可分の一部である。われわれは再び、こうした占領を終わらせ、帝国主義に抵抗するためのわれわれの関与を新たなものにする。
 とりわけわれわれは、NATOの傘の下でのアフガニスタン占領におけるEU諸国の役割の拡大に反対する。われわれは再び、NATOやそれと同様のあらゆる軍事同盟を廃棄するわれわれの決意を再確認する。

(7)グローバル・ジャスティス運動は、新しいグローバルな抵抗運動の推進力である。そうであるがゆえに、欧州反資本主義左翼の参加者であるわれわれは、間近に迫ったマリとベネズエラでの世界社会フォーラムに参加する。われわれは、アフリカとラテンアメリカでの運動や新しい左翼との連携をともに発展させようとする。
 われわれはとりわけ、民営化と天然資源の略奪に抵抗し、民衆の利益のための国有化を求めるボリビア人民の成功、ベネズエラで発展する革命、そしてブラジルでの新しい左翼の台頭に敬意を込めたあいさつを送る。われわれはアテネで開催される来るべき欧州社会フォーラムにも参加し、そこでのわれわれの行動を調整していくだろう。
 われわれは、われわれの諸権利、労働・生活条件、われわれの未来への攻撃に抵抗するだけではなく、戦争ではなく平和、競争ではなく連帯、抑圧ではなく平等、搾取ではなく公正に立脚したオルタナティブ社会の発展に責任を持っている。われわれが来年、フランス国民投票一周年にあたってパリに結集し、社会的公正の欧州を創造するための討論を行うことを提案しているのはそのためである。それは搾取され、抑圧された人びとの最大限の参加と関与を促すように企画されたセミナーとなるだろう。
 ロンドン、二〇〇五年十一月二十八日

 左翼ブロック(ポルトガル)、ドイツ共産党(ドイツ)、エスパシオ・オルタナティボ(スペイン)、統一左翼・オルタナティバ(カタルーニャ)、革命的共産主義者同盟(フランス)、赤と緑の同盟(デンマーク)、リスペクト(イングランド、ウェールズ)、スコットランド社会党(スコットランド)、社会党(イングランド、ウェールズ)、社会主義労働者党(イングランド、ウェールズ)、ソリダリテS(スイス)
 (「インターナショナルビューポイント」電子版06年1月号)



シャロンなきシャロンプラン
平和の可能性を拒否しつづけた35年

ミシェル・ワルシャウスキー


パレスチナとの
交渉再開を拒否

 地域や海外のメディアを読むと、イスラエル首相アリエル・シャロンを政治生活の外に追いやった脳卒中について、十年前に彼の友人であり前任者イツハク・ラビンの生命を終わらせた二発の銃弾とほとんど同じ影響をもたらす、という感覚がもたらされる。すなわち平和プロセスの死である。
 ラビンの暗殺は、オスロ・プロセスを終わらせた。アリエル・シャロンを襲った発作は、イスラエル―パレスチナ間の平和に向けたイスラエル側の前進という流れを終わらせるかもしれないという話を、われわれは聞かされる。それはイスラエルのガザ地峡からの転進と、幾つかの小さな入植地の解体によって始まった動きである。何人かのパレスチナ政府当局者さえもが、アリエル・シャロンなき政治的未来について憂慮を表明している。
 このしっかりと根づいた評価は、真実に近づくものではない。シャロンは最後の数年間をとっても決して「平和の人」と言われるような存在ではなかった。シャロンは、この紛争の世紀を終わらせることができる「公正な妥協」はもちろんのこと、パレスチナ指導部との交渉を決して再開しようともしなかったのである。
 まったく逆だ。この三十五年間におよぶシャロンの数多くの演説やインタビューを虚心坦懐に評価するなら、とりわけ彼が首相になった二〇〇一年以後のそれを見るなら、きわめて首尾一貫した政治的ビジョンが明らかになる。それはイスラエルとアラブとの平和の可能性そのものを明白に拒絶しているのである。事実、シャロンは、ダビッド・ベングリオン(イスラエルの初代首相)を除けば、グローバルで長期的な国家プロジェクトである歴史的・政治的ビジョンを受け入れた唯一のイスラエルの指導者であった。それは四つの点にに要約できる。
b一九四八年の戦争は終わっておらず、イスラエルの国境線は少なくとも向こう五十年にわたって固定されるべきではない。
b向こう五十年にわたって、イスラエルが優先的になすべきことは、永続的な入植努力を通じて地中海からヨルダン川までのユダヤ人の連続したつながりを創出することである。
bイスラエルの人口統計上でのユダヤ人的性格を維持するために、追放を通じてパレスチナ人をイスラエル国家から排除されることが合意されるべきであり(「ヨルダンはパレスチナ人国家である」)、あるいは「インディアン居留地」的な「カントン」[分割された小地域]にパレスチナ人を封じ込め、もし彼らが望むなら、それに「パレスチナ国家」というラベルを貼ってもよい。
b少なくとも向こう五十年間にわたってイスラエルとの間で和平を実現するアラブ人はいないだろう。われわれがパートナーを持っておらず、これから持つこともない以上、この「パレスチナ国家」の創設、その国境線と諸権利の設定は、イスラエル政府によって一方的に決定されることになるだろう。

混乱と分散化の
政治と選挙情勢

 イスラエルの「ガザ地峡からの一方的転進」は、この長期的戦略プランの最初のステップとして想定された。シャロンは次の選挙の後で、さらなる一方的イニシアティブを取るつもりだった。パレスチナ人が密集している地域からの撤退とともに、断固たる入植の促進である。
 事実、シャロンは一つのプランを持っていた。しかしそれを「平和プラン」と言うのは愚かなことである。それはパレスチナ人に一方的に強制されるイスラエルのプランだと考えられる。シャロン時代の終わりにあたって、このプランがイスラエルの戦略的枠組みを代表し続けるものになりうるのか問うのは正しいことである。
 シャロンのイスラエル政治からの退場は、決してなんらかの新たな平和プロセスの終焉ではない。現在の政治情勢の下ではそうしたことを意味しない。ダビッド・ベングリオンの時代以来、イスラエルの政治が一人の人物によってこれほど独占され、圧倒的多数の得票を得ることなどなかった(エフド・バラクの悲劇的な失敗の後では)。
 シャロンは自らの党、リクードを離れ、そのわずか数週間後に、リクードと労働党を合わせたよりも多くの票を獲得できると予想されてきた党、カディマを設立することのできるただ一人の指導者だった。イスラエルの多くの人びとにとって、シャロンは、安全保障と彼らが「一方的平和イニシアティブ」と信じ込んでいるものに基づいた新たな合意を体現する男だった。カディマの問題は、それがワンマン政党であり、アリエル・シャロンに、そしてアリエル・シャロンだけに彼の政策を実施する手段を与える構造になっていることである。カディマにはどのような機構もなく、綱領もなく、シャロンぬきではシオニズムの右派から左派までのイスラエル政治の脱落者を寄せ集めたもの以上にはならない。
 三月末に予定されている次期選挙のタイミングを考えれば、カディマの指導部が政治的外観を整え、指導部集団がイスラエルの有権者に対して、シャロンぬきでもシャロンの政策を実行する能力を持つと確信させる時間はほとんどない。カディマの一部の指導者は、すでに自分が離脱したさまざまな政党への復帰を秘密で交渉している。それはベンジャミン・ネタニヤフ(リクード)やアミル・ペレツ(労働党)にとっては都合のよいことである。しかしペレツもネタニヤフも、次期選挙でシャロンを支持するつもりだった有権者大衆を再獲得するために自らの政綱を作りなおさなければならないだろう。それは容易な課題ではない。
 要するにイスラエルの政治は、かつてないような混乱の中にあり、だれも選挙翌日の情勢がどうなるか、政党連合がどのようなものになるのか、そしてだれがどの政党に属することになるのかさえ、敢えて予測しようとはしない。
 パレスチナ民衆は、こうしたごたごたを喜ぶべきなのだろうか。必ずしもそうではない。パレスチナ人のあるスポークスパースンが数日前に述べたように「イスラエルの首相は、次になにをなすべきか分からないときにはいつでも、パレスチナ人への弾圧を強めるという選択をする……」のである。
 もちろん悲しむのにはもう一つ別の理由がある。アリエル・シャロンは、国際刑事裁判所に送られないままに死亡した多くの戦争犯罪人の一人となるだろう。彼の犯罪の被害者たちは、彼がこの五十年間にわたって行った犯罪について裁かれるのを見ないままになってしまうのだ。(06年1月9日)

(イスラエルの「オルタナティブ情報センター」のウェブサイトより)        


ニューヨーク
三日間、地下鉄とバスを止めたストライキ
経営者側が黒人とラテンアメリカ系労働者に対して差別
                          スティーブ・ダウンズ


 三万五千人の怒れる労働者、傲慢な経営者、組合員の圧力を受ける組合指導部、長年にわたる公共部門のリストラ政策、管理職と労働者の間の人種的溝、そして見込み違い。これらが混じりあったら何が起こるか。二〇〇五年十二月、ニューヨークで交通ストライキが勃発した。

最後まで動揺
する組合指導部


 経営者側の土壇場の要求、すなわち、将来の労働者の年金基金への支払額の所得比率を現在の組合員より高くするという要求に対して、運輸労働組合(TWU)第百支部の指導部は、十二月二十日にストライキを宣言した。
 第百支部ロジャー・トゥサント委員長は、将来の労働者の賃金や手当ての引き下げを受け入れないこと、および労働組合は将来の世代の労働者のために「中産階級」への入り口としての公共輸送の職を守る決意であることを明確に宣言していた。しかし、労使のどちら側においても、このストライキの根を探るには何年もさかのぼらなければならない。
 労働組合側では、トゥサントは二〇〇〇年に「ニュー・ディレクションズ(新しい方針、ND)」派の候補として委員長に当選した。ND派は、組合指導部の既得権譲歩路線(新規労働者の賃金および手当て引き下げを含む)に反対して一九八〇年代の終わりごろに結成された。
 ND派は現在は存在しないが、既得権譲歩反対の意識は支部の役員やメンバーの間に根強く残っている。実際、スト権批准投票から労働協約期限切れまでの五日間に、トゥサントが既得権譲歩反対の立場を貫かないことを懸念する何百人もの組合員が、既得権譲歩を含むいかなる労働協約提案にも反対投票をすることを誓約する署名を行った。
 この問題に対してトゥサントがいかに神経過敏になっているかを示したのは、ストライキの批准投票を行う十二月十日の組合員集会への「承認を受けない」文書やプラカードの持ち込みを、支部の警備細則によって禁止したことである。単に「既得権譲歩反対」と書いたプラカードも禁止された。

準備が貧弱な
ままストに突入


 経営者側は、TWUに何かを放棄するように強制したいと考えた。ニューヨーク市長ブルームバーグとニューヨーク州知事パタキにとっては、教員と警察官に対して初任給引き下げ(警察)と労働時間延長(警察および教員)を定めた高姿勢の労働協約を締結した後では、交通労働者に対して、何か譲らなければ何も獲得できないことを受け入れさせることが重要であった。(交通労働者は州機関である都市交通局[MTA]と交渉し、都市交通局長はパタキ知事によって任命されるが、バスや地下鉄のほとんどすべてはニューヨーク市にあるので、ニューヨーク市長は交渉に強い関心を持っている。)
 ストライキのエネルギーを高めたのは、経営陣を代表する白人億万長者(MTA局長カリコフと市長ブルームバーグ)は交通労働者と組合役員の圧倒的多数を占める黒人およびラテンアメリカ系労働者を敬意を持って扱っていないという交通労働者の感情であった。これは、交通労働者の職務があまり尊敬されておらず、それは交通労働者のほとんどが黒人またはラテンアメリカ系だからだという、交通労働者の間に存在する確信と緊密に結びついている。
 しかし、ストライキが実際に宣言されると、ほとんどすべての人々が驚いたが、交通労働者の大部分も驚いた。労使双方の態度があのようだったにもかかわらず、組合指導部は組合員にストライキの準備をほとんどさせていなかった。
 市の各所にストライキ事務所を設置することをしていなかった。ピケ隊長たちの訓練もしていなかった。実際、ほとんどのピケ隊長は、スト突入の前日か二、三日前に指名された。市全体に散らばる現場のピケ隊を連絡する構造は存在していなかった。
 さらに重要なことであるが、組合は、組合員や市の労働者に対して問題を明確に提起しなかった。労働協約期限切れに先立つ数か月間にあれこれの準備をしておけば、もっと強力なストライキがうてただろうし、スト突入に至らなかったとしても組合の強化に役立っただろう。
 労働者は準備が貧弱であることを認識していたが、多くの交通労働者は「ストライキをしてもいい頃だ」と感じていた。ニューヨーク市とその経済にとっての彼らの重要性を示す機会を与えられた彼らは、ストライキの機会をとらえた。下部組合員は、ピケット・ラインを確立し、ピケ要員を確保することに力を入れた。

ストの解除と
市側の一大攻勢

 ニューヨーク市のバスと地下鉄は三日間動かなかった。何百万もの人々は、どこへ行くにも歩かなければならなかった。経済的な損失は数億ドルに達した。しかし、いったんストが解除されると、労働者と組合は市の幹部からの一斉攻撃の的になった。
 ニューヨーク州では、公共部門労働者のストライキは違法である。もし彼らがストライキをすれば、ストに参加した一日当たり二日分の賃金に相当する罰金を課される。さらに、組合も罰金を課され、チェックオフ制(組合費天引き制)を解除される危険がある。これらの罰則もストライキを防止するには十分でなかったので、MTAとブルームバーグは賭け金を高くした。
 MTAは、一日のストライキにつき百万ドルの罰金を科す判決を勝ち取った。個々の労働者には最大一日二万五千ドルの罰金となる。組合の最高幹部は投獄の恐れがある。
 市の新聞は、ストライキに対して世論をけしかけようと試みた。(しかし、世論調査では、市の住民の過半数は組合を支持していることが示された。この支持は、毎日のピケットに示された。)ブルームバーグ市長は、スト参加者を「暴漢」で「利己主義者」と呼び、自分たちが黒人やラテンアメリカ系であるから狙われているというストライキ参加者の感情の火に油を注いだ。
 MTAが闘いを拡大する準備をしている間、組合は準備をしなかった。多くのスト参加者はコミューター鉄道労働者にピケット要員派遣を呼びかけたが、指導部は動かなかった。市の労働運動指導者たちは、ストライキ前の集会では支持を誓っていたが、支持デモを組織することはなかったし、ピケット支援に組合員を派遣することもしなかった。三日目に、トゥサントは、スト終結と交渉再開を勧告した。
 これは、労働組合は協約なしに仕事に戻ることはないという彼の約束に反している。仕事に戻る多くの交通労働者の気持ちは、誇り、救い、心配の入り混じったものであった。心配とは、協約で今や既得権譲歩に直面するという心配である。この譲歩は、もし、組合がもっとよく組織されストライキを行う準備ができていたら、防げたかもしれない譲歩である。

ストでできた
連帯感が崩れる


 われわれの心配は正しかった。ストライキ終結の五日後に組合員に示された協約には、大きな譲歩とわずかな獲得物が含まれていた。賃金は、交渉開始前にMTAが申し出ていたものと同じである。これでは交通労働者はインフレに追いつくことができないであろう。ストライキの前に組合が取っていた立場は、年金計画の変更も健康保険のための支払いも受け入れない、というものであった。
 後になって、指導部は、組合員が健康保険のために賃金の最低1・5%を支払わなければならない(率は年を追って高くなる)という取り引きを初めて受け入れた。そして、クリスマス休暇商戦のシーズンに労働協約期限切れをぶつけるという切り札を交通労働者がついに使った後に、トゥサントは、期限切れになる時期を一か月ずらせて一月中旬にすることに同意した。
 協約の重要なセールスポイント(唯一のセールスポイント、と言う人もいる)は、約半数の組合員が一九九〇年代後半に年金基金に払い込んだ払い過ぎ分の払い戻しを受けられることである。しかし、パタキ知事室は、この払い戻しに必要な立法に拒否権を行使する意向を表明しているので、これすらも実現するかどうか疑問である。
 提案は支部執行委員会で圧倒的に承認されたが、組合員の間では強烈な反対に出会っている。この協約の反対者には、一部の組合役員と多くのピケ隊長が含まれており、協約が投票に掛けられたら拒否するよう支部組合員を説得している。
 最初は自らと仲間たちに誇りを持ち、MTAに対して「ノー」を叫んで職場を離脱した多くの組合員は、今や、ストライキのポイントは何だったのか戸惑っている。実際、協約が承認されても拒否されても、その最も重要な影響は、ストライキとともに花開いた達成感と連帯感を掘り崩すことかもしれない。
 進んでストライキに参加し、仕事に戻っていない労働者の防衛のために罰金を支払う第百支部の組合員たちが、自分たちが愚かだったと思うようになれば、組合を強くするはずの協約闘争が、結局組合を弱くすることになるであろう。

▼ スティーブ・ダウンズはニューヨーク市の地下鉄運転士で、「ニュー・ディレクションズ」派の設立者の一人であった。

(「インターナショナルビューポイント」電子版06年1月号)


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