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氷が溶ける年 1956年               かけはし2006.10.30号

ハンガリー革命から50年

スターリニスト体制の流動化60年代の青年急進化を促進


 今なお政治的に活動している人びとの中で一九六八年を記憶している人は少数だろう。この年はフランスにおける五月の事件、チェコスロバキアにおけるプラハの春と、ソ連軍の戦車によるその破壊、そしてベトナムにおけるテト攻勢という世界革命の三つのセクターにおける重要な出来事によって特徴づけられている。記念碑的な事件が起きたもう一つの年、一九五六年を記憶している人はさらに少数だろう。

スターリンの死
と転換の開始


 一九五六年の疑いなく最も重要な一連の出来事は、ソ連と東欧のスターリニスト国家、そしてまさに全世界の共産主義運動に関わるものであった。一九五六年の初め、世界の共産主義諸党は、権力の座にある党も資本主義社会における党も、一九四五年にそうであったようにソ連邦の指導部の下に団結しているように見えた。三年前に死んだスターリンは、公式には依然としてマルクス、エンゲルス、レーニンと同等にあがめられていた。
 しかしスターリンが生きている間にも、亀裂が現れはじめていた。スターリンの支持なしで、そしてソ連からの支援をほとんど受けずに自ら革命を遂行したチトーとユーゴスラビアの共産主義者たちは、ソ連の欧州における覇権にとっての脅威と見なされ、一九四八年に破門された。
 東欧全体を通じて、共産党の指導者たちはモスクワから自立する潜在的可能性があると見なされただけで追放され、処刑されることもしばしばだった。ベトナムや中国の党が、モスクワに対しては頭を下げながら、どれほど自らの独立した政策を遂行しているかについて、未だ広くは知られていなかった。中国の場合、潜在する緊張が数年後に爆発して公然たる衝突へと至ることになる。
 スターリンの死後直ちに、彼の後継者たちは過去との一定の決別をもたらす転換を開始した。政治犯は大規模に釈放された。スターリンが最後に企図した見せしめ裁判である、いわゆる「医師団」陰謀事件で起訴された人びとは、直ちに釈放され、嫌疑が晴れた。住民の生活水準を改善する措置が取られた。党の最高指導部の間では、スターリン時代に関する秘密の討論が行われ、そこでは指導部のすべての構成員からさまざまな度合いでの批判がなされた。
 強調された点は「集団的指導」であった。対外政策においては、資本主義諸国との「平和共存」として知られるようになる動きが起こった。目を見張るような方向転換としては、ソビエト指導部と異端のユーゴスラビアとの間での和解があった。東欧では、追放裁判の犠牲者たちが漸次復権され、守旧的スターリニスト指導部は解任されたり、地位を脅かされるようになった。
 一九五三年六月には、東欧で二つの重大な反乱が起こった。チェコスロバキアでは、体制側が自国の軍隊で労働者の反乱を鎮圧した。東ドイツではソビエト軍が介入し、弾圧ははるかに厳しいものとなった。この双方のケースで、経済的要求から始まった反乱は直ちに民主主義的・民族的願いを表現するものになった。
 これらの諸要素を振り返って考えれば、一九五六年の記念碑的出来事が天から降ってきたものではないことをわれわれに理解させる。しかしそれらの出来事は、当時の人びとにとって衝撃として訪れたのである。

フルシチョフ
の「秘密演説」


 最初の衝撃は一九五六年二月にやってきた。ソ連共産党の最高指導者としてスターリンの後継者だったニキタ・フルシチョフは、ソ連共産党二十回大会で有名な「秘密演説」を行い、スターリンの犯罪を非難した。この演説の内容は最初は大会の代議員だけに向けられたものだった。しかしそれは次第に下級レベルや外国の共産党指導部にまで知らされ、外国の党指導部の一部は自らの党にまで知らせることになった。(しかし他の党、たとえばフランス共産党指導部などは、そんなことを何もせず、何十年にもわたって「フルシチョフ同志による報告」として言及し続けた。)西側とユーゴスラビアの新聞に報告の内容のきわめて正確な報道がなされた後、CIAのおかげでその全貌が全世界に知らされたのは六月であった。
 この報告はきわめて明確にスターリンの犯罪――民族全体の追放をふくむ大量追放、弾圧の規模と方法、共産党員のパージと処刑――を非難した。しかしそこには限界があった。一九二〇年代の左翼反対派と右翼反対派、トロツキー、ブハーリン、カーメネフ、ジノビエフ、一九三〇年代に抹殺された彼らの支持者たちは復権されなかった。復権された共産党員とはほとんどが一九三四年以後スターリンに反対し、逮捕され、公開裁判によって、あるいは裁判ぬきで抹殺されたスターリニストであり、一九三六年〜三八年の見せしめ裁判でパージされた者はほんの小部分だった。
 この報告は爆発的影響を与えた。資本主義諸国においては、スターリニストの恐怖政治の暴露の度合いは、数十年間にわたってすべての批判に対してスターリン、ソ連共産党、ソビエト連邦をまるごと擁護してきた共産党に深刻なショックとなった。モスクワとベオグラードとの和解、高度に中央集権化された統制の緩和、四〇年代後半と五〇年代前半の追放の犠牲者の復権に続いてやってきたスターリン非難は、不安定の機運を作りだした。これは、スターリニスト体制にとって危険な時だった。彼らは分裂し、ソ連の変化によってぐらつき、住民へのある程度の譲歩を強制された。独裁体制が譲歩しはじめた時にはつねに危険が生じ、反対派をなだめるのではなく、より大胆にさせるのである。これこそまさしく、東欧の二つの重要な国で起こったことだった。

東欧に広がる
民主主義の願望


 ポーランドでは知識人サークルと労働者階級の双方で運動が発展し、それは党内闘争に反映されることになった。六月にはポズナニ市でストライキとデモが蜂起的性格を帯び、弾圧されて五十人以上が死んだ。しかし蜂起的運動は拡大しなかった。
 そこでは旧スターリニスト体制に反対する大きなうねりが起き、さまざまな思想が発酵し、労働者評議会が創設された。しかし多くの労働者は、共産党のトップ指導部の平和的変化に希望をかけた。一九四八年に追放されたが、他の諸国における同僚たちの多くとは違って処刑されなかった党指導部のウラジスラフ・ゴムルカは、権力の座を得ようとつとめ、より民主主義的でソ連からより独立的な社会主義を体現するものと見なされた。ゴムルカは大衆運動の背に乗って権力の座に乗り、党内の中間主義的傾向を納得させ、最終的に十月の緊張した衝突の中で、彼は体制の根本的基盤やソ連との同盟関係を変更しないということをソビエト指導部にも納得させた。彼は自らの言葉を守り、その後苦労してラディカルな反スターリニスト勢力を意気阻喪させて弾圧し、党の統制を再び主張した。
 ハンガリーでは、同じ要素が全く異なった結果を作りだした。長引いた不安定は、ポーランドと連帯するデモが厳しく弾圧された十月二十三日に、最終的に蜂起へと爆発した。党も軍隊も状況をコントロールできなかった。軍の一部は蜂起の側に移行し、ソ連軍に一時的撤退を強制した。しかし非常措置として首相に呼び戻された改良主義的共産主義者のイムレ・ナジは、ゴムルカがそうしたようには状況をコントロールできなかった。彼は最終的に、民衆の民族的・民主主義的願望に屈し、ハンガリーの中立と複数政党制への復帰を宣言した。これはクレムリンにとって行き過ぎだった。十一月四日の二度目のソ連の介入は、蜂起を血の海に沈めた。
 ポーランド情勢の平和的解決とハンガリーの蜂起の始まりには三日間の隔たりしかなかった。前者は、その当時スターリニスト体制の自主的改革の可能性を確証するものと見なされたのに対し、後者はハンガリー人民が行き過ぎた時、何が起こり得るかを示すものと見なされた。
 フルシチョフはテロの規模を明らかにすることによって、スターリン神話を解体する空間をわずか数カ月間なんとか確保しただけだった。そして、体制を自由化しようとする企図にもかかわらず、何ごとも真の民主主義と民族的独立にまで行き着くならば、戦車に直面することになるという事実を示したのである。
 共産主義運動への影響は破滅的なものだった。それは一九三九年のナチス・ソ連不可侵条約以来最大の脱落の波を引き起こした。例えばイギリスの党は、一年間で三分の一の党員を失った。一九五六年は、スターリニズムの長期的衰退と崩壊の始まりを画した年だと言うことができる。

アラブ・中南米
に闘いは飛び火


 ソ連のハンガリーへの介入を容易にした一つの理由はスエズ事件だった。それは古い植民地帝国の衰退と民族解放運動の高揚という国際情勢の別の側面を明らかにするものだった。七月、エジプトのナセルの急進的民族主義体制は、英仏の合弁企業が所有していたスエズ運河を国有化した。英国とフランスの反応は十月二十九日にエジプトに侵攻したイスラエルとの秘密協定をひねりだすことだった。英国とフランスはその上で「スエズ運河防衛」のために介入し、自国内とアラブ世界に広範な抵抗を引き起こした。彼らはついに、新しい覇権的帝国主義国家・米国の圧力の下で不面目な撤退を余儀なくされた。
 これは欧州の二つの植民地大国がアメリカとは独立してなんらかの重要な行動を起こす最後の機会となった。第二次世界大戦以来、英国はすでにいわゆる「特別な関係」の中でアメリカの第一の同盟国という新たな役割に身を落ちつけはじめていた。スエズはその最後の試みだった。
 英国もフランスもその植民地帝国を失う過程にあった。マラヤ、ケニヤ、南部アラビアで一部に地方的反乱があったが、英国はある程度の自信をもって植民地からポスト植民地権力への痛みの多い移行を行うことになっていた。スエズは屈辱だったが、英国はそれ以外では多くの場合、なんとか地方エリートに権力を移譲した。フランスにとってこのプロセスはさらに痛みを伴うものだった。
 フランスはすでに一九五四年にディエンビエンフーで破局的敗北をこうむっていた。それは植民地化されたアジア民衆が正面戦で帝国主義軍隊を軍事的に打ち破った最初の出来事であった。フランスは、アルジェリアの維持に集中するためにモロッコとチュニジアに独立を許容したところだった。数年後にはさらなる敗北が起こることになるが、それはまだ明白ではなかった。それが起こった時、ドゴールは、フランスのアフリカ植民地に対して支配を継続したまま、通常はきわめて形式的な独立をあわただしく与えた。

ベトナム・キュ
ーバの始まり


 一九五六年は、帝国主義諸国における新しい非スターリニスト的な左翼の始まりてあり、そこでは元共産党員が重要な部分を構成していた。それは不均等であり、一連の、多くは短命な政治組織やグループを通じて表現された。にもかかわらずそれは、一九六〇年代初頭に登場しはじめた新しい急進化した世代への架け橋となった。最も一貫した反スターリニスト的・反帝国主義的勢力が、きわめてゆるやかに成長しはじめた小さなトロツキスト運動に統合されるようになったのも一九五六年以後だった。それは六〇年代の青年の急進化を促進することになった。
 当時、さまざまな出来事が実質的な注意を引かないまま起こることもあったが、それは未来において重要な結果をもたらした。
 一九五六年十二月、古い水漏れのするボートに乗った革命家の小集団がキューバの海岸に上陸し、西半球での最初の社会主義革命に導くことになったプロセスを開始した。一九五六年七月は、一九五四年のジュネーブ協定によってベトナムを統一するための自由選挙が行われるべき日程に指定されていたが、米政府とベトナムのかいらい政権の反対のために行われることはなかった。ベトナムの統一は、さらに長期の、さらに血まみれの過程を経ることになった。そしてキューバとベトナムという二つの革命は、一九六〇年代の急進化した世代にとって強力な磁石となったのである。

(筆者のマレー・スミスはスコットランド社会党の元国際オルガナイザーで、現在はLCR〔革命的共産主義者同盟、第四インターフランス支部〕のメンバー)

(「インターナショナルビューポイント」電子版06年10月号)            


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