| 管制塔占拠闘争元被告座談会
かけはし2006.0101号 |
せっぱつまった苦渋の決断が思いもよらぬ運動に発展した
生き方を震いたたせるような勝利
元管制塔被告にかけられた損賠攻撃に対し、大衆的カンパ運動によって集まった一億四百万円を国にたたきつけることによって勝利した。元管制塔被告の前田道彦さん、和多田粂男さん、中路秀夫さん、中川憲一さんに出席いただき、この運動について座談会を行った。(本紙編集部)
公団の談合発覚と
元被告団への損賠
――管制塔損賠問題の後に、空港公団の談合問題が出てきたがこのへんについてはどう考えますか。
前田 新聞記者の言っていた話では、国交省に圧力を掛けたのは警察庁だ。根拠はよく分からない。七月に読売新聞にスッパ抜きをやらせたのも警察庁だ。国交省が和解に応じるという動きを見せたのに対して「それは絶対にやらせんぞ」というふうに動いた。当初は官僚が昔の約束なんかを否定して、たんたんと時効を前にして事務をこなしたと思っていた。警察庁によって、時効を延ばすのではなく、給与を差し押さえることによって時効を粉砕してしまった。目的は何だというと、3・26闘争で敗北した警察の恨みかもしれない。
和多田 おれが引っ掛かるのは、道路公団の談合問題が去年出た。その段階で、空港公団の談合も分かっていたはずだ。それを同時に出してこずに、管制塔の損賠を先にやらして、その後に談合をやらせた。先に談合問題をやると、空港公団や国交省の方がたいへんだから、それをやる前にこれをやっとけと。そうでないと「取るどころの騒ぎではないよ」となったのではないか。時効を延ばすのなら、督促状だけでいいはずだ。
地にはいつくぱっ
てもやるしかない
――三月に損害賠償請求の通知が着て、四月から給料の強制執行が始まった。その後はカンパを集めて払うと決めましたがどうしてですか。
和多田 いろいろ探ってみた。まけさせろとか、裁判に訴えるとか。虎頭弁護士に相談しながらやったが打つ手がなかった。逃れる方法は「払うしかない」となった。職場をやめるというのが一番払わない方法のひとつだ。そんなことやったら生活がすべてなくなってしまう。
前田 職場をやめるなんて簡単に言えない立場にいる。職を失うばかりでなく、和多田さんや中川さんがいなければ会社自体がつぶれてしまう。他の人もそういう立場に立ってしまっていた。逃げることが周りの人や組織まで崩壊させる。これは逃げられない。立ち向かうしかないでしょう。被告たちが助かるためにやらざるをえなかったけども、会社から親兄弟から全部含めて作った関係を、「払わない」と言ったら守れない、という状態にあった。そこまでせっぱつまっていた。地にはいつくばってもやるしかないと決断した。
――16人の元被告たちの状況はどうでしたか。
中川 督促の来た所については、裁判所に意見を言って、時効を延ばすだけだから、そんなに深刻さはなかった。Kさんは手紙をよこして、「やっと就職についた。手取りで十七〜十八万円。これでギリギリの生活だ。給料差し押さえで五〜六万円取られたら、生活はできない」というようなことをせつせつと訴えてきた。深刻でした。給料差し押さえがきた人たちは今までの生活が維持できないわけですから、生活を変えなければいけない。特に子どもが多い人なんかはたいへんだ。生活の破壊で相当深刻だった。問題なのは十六人の連帯債務者が一億三百万円に達するまで、ずっと取られ続ける。生活破壊がずっとこれから五年〜十年続く。そういう先の見えない所に落しこめられる。
中路 給与差し押さえは非常に困ったけれど、和多田さんの独特の決断なのかもしれないが一括して払うとなった。それで、払うと決めた時も、和多田さんは「割り振りでこうなってこうなる」と言ってくれた。われわれにとってとにかく不安だったから、それがどういう形であれ、こんなふうにすれば払えるぞとなった。われわれとしては安心というか救われたという気がする。最終的に、こんなに盛り上がって予想以上に集まったけれども、その時は「みんなで大衆的に何とかカンパ集めましょう」と言ったら、われわれはいつ、どうやって集めるかとパニックに陥ったと思う。ああいう状態が続けば、本当に死人が出るというような状況、一家心中するようなやつまで出てくるというような状況だった。
前田 和多田さんが党派へ割り振ったのは今は笑い話になっているが、あの時は正解だったと思う。
東北の労働者たち
の感動的な支援
――給与の差し押さえがあった時、すぐ和多田さんが貯めていたカネを出した。これが元被告を救ったのではないですか。
和多田 被告団の人間には一銭も出させないというのが俺たちの約束だった。それをやらない限り、被告団としてはやっていけないのだ。それでやった。初めから足りないのではないかと思ったけれども、すぐ一千万円準備した。
――カンパを集める期限を十一月末までと決めたのは何か理由がありますか。
和多田 利子がつくこともあるが、来年になると仕事が忙しくなってそれどころではなくなる。ちょぼちょぼ払っていくと延滞金からとられていく。元金がずっと残り続ける。元金に利息がかかる。だから、一気に払うしかなかった。
前田 決定的な転換期は八月初めの被告団・支援の合宿だった。そして、九月になって私は岩手、仙台、山形を廻って訴えた。岩手がすごかった。地域合同労組が運動としてカンパを取り組んでくれた。山形は私の高校時代に反戦だった人たちがきてくれた。仙台は労働者がたくさん集まってくれた。その時の遠藤一郎さんの発言がよかった。「電通労組にしても、鉄産労にしても3・26から始まったのではないか。われわれがこの闘いを通して、守るべき原点が新たに提起されているのだ。あの時作った力をもう一度、われわれは思い出して守りぬこう」と発言してくれた。八月の合宿と五十一人声明の運動と重なって次の段階にいった。まだ、この段階では本当に集まるとは思わなかった。
ネットで広がった
カンパ運動の波
――声明の会が八月中旬に声明を出した以降の動きはどうでしたか。
中川 驚きでした。こういう形で反応がくるとは思わなかった。今までのビラをまいてというような大衆運動はあるんですけど、それとは全然違った形での風というか、熱気というか、新しいうねりをずっと感じた。北海道から沖縄まで、それも年齢も八十歳代の人から自分の子どもがカンパしてくれたというように範囲が広がった。ベトナム、アメリカの日本人からもカンパがあった。メッセージの中味は前田が集会の時、よく発言していますが、職場で見ていても、涙がこぼれてくるようなものだった。励ましというか、「3・26の管制塔を闘ってよかった、その後も生きてよかった」と被告たちが思うようなものだった。
前田 われわれは孤立していないということを感じた。打撃を受けて打ち震えているわけだけど、それは一人で孤立しているわけではないんだと感じた。もう一つは、3・26闘争や三里塚闘争がこんなに共感があって、その中のおれたちは一人なんだと思えた。自分の生き方を鼓舞するようで、心がすがすがしくなった。今まで二十何年間も感動に垢をつけてきたがそれが洗われるようだった。闘争の原点に帰っていくような感じだった。基金カンパメッセージをプリントアウトして赤鉛筆で線を引いて読んでいた。
中川 カンパをした人が「ありがとう」と言う。今までになかった。こういうカンパ運動を私は聞いたことがなかった。これはカンパ運動ではないですよ。われわれはカネを集めたのではないですよ。みんなの怒り、心、共感を集めた。みんなはカネを寄せたんではないんですよ。政府の弾圧に対する憤りをカネにたくして「ありがとう」と言っているわけですよ。
前田 プリントアウトしたものは宝だ。ずっととっとくよ。あれは刑務所にいったかいがあった(一同大笑い)。
前田 最初、三月要塞や七七年5・8の被告団はカンパを集めて出すのはいかがなものかと思っていたようだ。ところが、サイトや9・18集会を通して変わってきた。大衆運動になってきた。それでその先頭に立ってくれた。
和多田 うちの職場ではカンパを禁止したよ(笑い)。
中川 それでも、若い人ふたりが振込み用紙をくれって言うから、「カンパしなくてもいいよ」と言ったのにカンパしてくれた。「働いている仲間として見捨てるわけにはいかない」とカンパしてくれた。他の人もみんないろいろと協力してくれた。
中路 初めは心配だったが、職場の人たちの中で自主的にカンパ運動が始まった。職場の内外で半分くらいの人がカンパしてくれた。
前田 私の職場で六十人がカンパしてくれた。これはすごいことだった。私のことをこれまで知らない人が十一月十一日の集会にも来てくれた。こうした人に絶対恩返ししたい。
集会の飾りつけも
すばらしかったぞ
――その他に運動で感じたことは?
前田 生まれて初めてあんなすばらしい集会の看板を見た。映画で見たヒトラーのベルリンでのナチス党大会の時のあれを思い出した。もちろん今回のは革命的なやつだけど。9・18も11・11も。作った人は芸術家だと思った。11日にもらった取り下げ書を飾ってほしかったわけ。そうしたら、すぐやってくれた。あいつはすごいと思った。今回はあの規模にはもったいない才能が集まったと思った。
中路 不思議な運動だった。カンパを集めて支払うこと自体苦渋の選択だったのに、思わぬ反応があった。国や政府に対抗するあらゆる組織が弱体化し、解体されつつあるなかで、小さな組織が集まり、個人が仲間をつのって集まりだした。主な情報源はインターネットという個化された窓をのぞきながら、集いカンパを集める。時代が変わったと思った。
前田 管制塔に和多田さんがいてよかったと思う。和多田さんが獄中で果たした役割はすごく大きかった。みんな大変だったと思うけど、和多田さんがいたからもったというところがあった。今回もそう思う。今回の決断は和多田さんが「よし集めるぞ」と言ったから、これはやれるのかなと思った。和多田さんがいてよかったなというのが実感。もう一つは、インターがいっしょにやったら強いぞ。インター系はやっぱり3・26を組織したインターだと分かった。このことは今まで言えなかった。9・18でも11・11でもずっと喉まででかかったけど、言っちゃだめだ、言ったらしらけさせると押さえた。これはおれの率直な気持ち。
気持ちがひとつに
なれたよろこび
――最後に言いたいことは。
中路 みんな三十年前のことなのに、気持ちよくなんとかしようではないかと言ってくれて、三多摩の人たちにも感謝の気持ちでいっぱいだ。組織がいろいろ分裂していたが、今回のことではいっしょになってやってくれ、気持ちが一つになった。うれしかった。ここ数カ月間、三十年前と今とが行ったり来たりしながら、思い出しながらいた。気持ちよかったなあ。変な気持ちだった。
前田 『管制塔に赤旗が翻った時』また読んじゃったもんな。平田の本も改めて読んでみると面白かった。
中川 十一日の勝利集会の終わった後打ち上げで、白川真澄さんとは三十年以上の付き合いで、三十何年前も白川さんは大幹部だったんです。その大幹部の白川さんが「中川よくやった」と言われた。これが私は一番うれしかった(一同大笑い)。初めて白川さんからほめられた。
和多田 3・26闘争三十周年集会をやらなければならないと思っている。中心は被告ではないよ。被告団はそこに参加することになるだろう。それに向けて被告団としてはもう一弾、本を出します。逸話とかさまざまなあの時の今まで発表されてないことも、すべて含めて入れたものにします。その時はみなさんよろしく。
元被告たちの気持ちと運動の熱気が伝わる話を聞かせていただき、ありがとうございました。
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