かけはし重要記事

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ワールドカップ批判(2)               かけはし2002.6.3号より

帝国主義支配とスポーツの政治利用をめぐって

資本主義の危機と戦争とスポーツ


スポーツの庇護者としての皇室

 国家によるスポーツの政治利用は、帝国主義国家の形成と一体となり、近代スポーツの発展と軌を一にして進められてきた。日本で野球、ラグビー、サッカー、テニス、陸上競技、水上競技などの近代スポーツが爆発的に発展し始めたのは、第一次世界大戦後の一九二〇年代であった。小学生男子が一番なりたいものは「野球選手」であり、野球選手のプロマイドの売れ行きが俳優のそれを上回るという時代が、当時すでに始まっていた。
 摂政であった皇太子裕仁(先代天皇)を先頭に、皇室がスポーツの積極的な庇護者であるというイメージが発せられ始める。「それは、ロシア革命によってロマノフ王朝が崩壊し、ドイツ、オーストリアなどイギリスと日本をのぞく強国の君主制が相次いで倒れ、君主制の世界的危機といわれる状況が出現するなかで、また、国内的には、普選など政治的諸権利をめざす社会運動や労働運動が噴出するというデモクラシー状況が出現し、さらには大正天皇の病状の悪化、皇太子狙撃事件(虎ノ門事件)が発生するといった状況のなかで、皇室が深刻な危機感にもとづいて行なった天皇の権威を再構築するための必死の試みであったといえるだろう」(坂上康博『権力装置としてのスポーツ』講談社選書メチエ)。
 オリンピックをはじめとする国際競技会への参加や、さまざまなスポーツ競技大会の優勝カップの皇族による下賜が始まり、現在の国民体育大会(国体)の前身である明治神宮競技大会が、「明治大帝の御聖徳を追慕し奉る」ための内務省主催の奉納神前競技会として一九二四年に開始された。

スポーツによる「思想善導」

 一九二八年はアムステルダム五輪が開催され、日本選手団の活躍が大々的に報じられて国民的興奮を作り出した年であるとともに、全国で共産党関係者千数百人が一斉検挙された「三・一五事件」の年であった。この頃から、労働者や学生のなかに急速に広がりつつあったマルクス主義的左翼思想を解体するための手段として、スポーツが国家政策のなかに積極的に位置づけられるようになる。
 文部省は「危険思想」の「感染防止策」として「運動を奨励すること」をあげた。文部省体育課の北豊吉は、論文「体育運動と思想問題」で@健全な肉体作りによる「不健全なる思想」の撲滅A運動精神の涵養による思想善導Bスポーツを「安全弁」として利用し不平や欝憤から逃避させ、忘却させる――という方向性を提起した(同前)。
 このなかで北は、現代の「破壊的思想」の発生理由が機械化と分業の進行で労働がますます無味乾燥になり、人間的欲求を満足させ得ないというところにあると指摘し、心身の人間的欲求から発したスポーツが「現代生活からの逃避所」となるのは当然である、とする。そしてスポーツは「その愉快のなかに、すべての不平、すべての欝憤を晴らし、その興味のなかにすべての偏奇にして破壊的なる気分を忘却せし得しむる安全弁となる」と述べ、左翼思想とその運動を解体するための「スポーツによる思想善導」を理論的に打ち出すのである(同前)。
 一九二八年十一月に天皇の代替りを祝う記念事業として始まったラジオ体操は、翌二九年二月十一日の紀元節を期して全国放送が開始された。二九年十一月三日の明治節には全国体育デーが開催され、全国二万六千余団体・八百四十万人が参加する「体育的国民総動員」と言われる状況が作られた。
 世界経済恐慌が始まるという状況下、治安弾圧を担当する内務省は警視総監と各府県知事に工場での競技大会の開催を指示した。これを受けて警視庁工場課は工場体育の専門家を配置し、東京工場協会と連携して、二十万人もの労働者を動員する大規模なスポーツイベントとして「工場体育デー」を毎年開催するようになる。
 言うまでもなく、このような「スポーツによる思想善導」は、左翼思想とその運動に対する治安維持法と特高警察による徹底した苛酷な政治弾圧とセットであった。
 一九三二年のオリンピック・ロサンゼルス大会は、前年の満州事変開始と「満州国」設立、上海事変など、天皇制日本帝国主義の中国への侵略戦争が全面化し、国際的な反日ムードが高まるなかで開かれた。日本選手団は金七個をはじめ計十八個のメダルを獲得、参加三十八カ国中、五位の好成績を納め、それがラジオ放送と新聞で連日大々的に報じられて、文字通り「全国民的」な愛国主義的興奮の渦を作り出した。
 この日本選手団の活躍は新聞紙上で「排日の本場に発揮した我が選手の日本精神」と報じられ、選手団の帰国は関東軍による満州国設立の凱旋パレードと並べられて「二つの凱旋」と報じられた。オリンピックでの勝利が作り出した愛国主義的興奮と国家主義的国民統合は、侵略戦争に民衆を動員する社会的基盤をさらに強化した。

小泉政権とワールドカップ

 このようなスポーツの政治利用は戦前の日本だけの話ではなく、ナチス・ドイツのベルリンオリンピックと「歓喜力行団」の話だけでもなく、今日まで続く現実であることを、ブッシュ政権によるソルトレークシティー冬季「グローバル戦争オリンピック」があらためてきわめて露骨な形で示したばかりである。
 今日の出口なき大不況・大失業は、日本社会の企業主義的国民統合を急激に崩壊させつつある。このような情勢のなかで有事法制三法案の強行と弱肉強食の新自由主義政策の強化をめざす小泉政権と財界にとって、韓日ワールドカップの政治的意義は、先に紹介した旧天皇制日本帝国主義の「スポーツによる思想善導」と全く同様のものであり、「破壊的なる気分を忘却せしむる安全弁」なのである。それは、天皇制を軸にした国家主義的国民統合の強化としてひとつに結びつけられ、戦争国家体制の形成に結びつけられている。
 ちなみに、W杯に出場する日本選手団のユニフォームに着けられている日本サッカー協会のシンボルマークは、「八紘に光破すべき日本精神と我が日本蹴球界の統制指導」を表現したという、神武天皇東征神話にもとづいてデザインされた戦前の「やた烏(三本足の烏)」を、そのまま引き継いだものである(松岡完『ワールドカップの国際政治学』朝日選書)。

最初から国家主義的だった

ムッソリーニとイタリアW杯

 第一回オリンピックの主催国となったギリシャが、オリンピックでかきたてた愛国主義と民族主義を基盤に、その翌年トルコとの戦争に突入したように、サッカー・ワールドカップもまた、最初から国家主義と排外主義的ナショナリズムをかきたてる場であった。
 オリンピックは今日では三百種目にも肥大化し、何百個ものメダルを争う。種目への関心も地域や国家によって異なっている。しかしW杯は、ただひとつの優勝の座を世界各国の国家代表チームが死力を尽くして争うのである。それがナショナリズムをかきたてないはずがないし、支配体制がそれを政治的に利用しないはずもないのである。
 一九三〇年に開催された第一回大会では、開催国ウルグアイが優勝した。二年前のオリンピックに続くこの敗北に怒ったアルゼンチンの民衆が、「不正な審判に負けた」と叫んで街頭に繰り出してウルグアイ大使館を襲撃し、ウルグアイ側の怒りも爆発して遂に国交断絶に至った。
 一九三四年の第二回イタリア大会で、ムッソリーニがサッカー協会会長に任命したバッカロ将軍は、大会の目的は「ファシスト・スポーツの偉大さを見せつけることだ」と公言した。地中海の色である紺碧をチームカラーとするイタリア代表に与えられた名称は「ムッソリーニの青」であった(前掲『ワールドカップの国際政治学』)。
 ムッソリーニはこの大会をファシズムとイタリアの偉大さを示すものとして徹底的に演出した。イタリアは、前回大会で決勝に進出したアルゼンチン選手たちの先祖がイタリア人であるということで帰化させてチームを強化し、優勝をかちとった。そしてそれは、イタリアを侵略戦争への道にさらに踏み込ませる役割を果たしたのである。
 オリンピックのようにひとつの都市ではなく、全国の各都市を会場とする現在の方式もこのイタリア大会から始まった。このような、国威発揚と国家主義的国民統合の手段としてW杯を運営するムッソリーニの方式に徹底的に学んだものこそ、二年後に開催されたヒトラーのベルリンオリンピックであった。

「革命を防ぐにはサッカーで」

 ナショナリズムが衝突する場としてのW杯という性格、国威発揚と国家主義的国民統合の手段としてのW杯という性格、民衆の社会的不満をそらす「安全弁」としてのW杯という性格は、第二次大戦後も全く変わらなかった。
 六二年の第七回大会は、大地震と干ばつの大打撃を受けたチリで開かれた。激しいインフレと経済危機のなかで、街はストライキとデモであふれていた。
 「当時中南米では、革命を防ぐにはサッカーの国際試合を開けばよいとさえいわれていた。中南米の政府にとって、国民の興奮をかきたてるサッカーは社会不安の鎮静剤であり、権力維持の切札であった。チリではサッカーに限らずスポーツを管理するのが国防省であることなどその象徴であった。ソ連に優勝でもされたら国内で革命が起きるとの懸念もあり、今大会でチリがソ連に勝って三位を確保したことで政権が命を永らえたといわれたほどであった」(同前)。
 七〇年の第九回メキシコ大会の予選では、国境紛争や農民の不法入国で対立していたホンジュラスとエルサルバドルの間で、有名な「サッカー戦争」が起こった。エルサルバドルが敗けた第一戦直後、悲観した若い女性が銃で自殺した。葬儀にはエルサルバドルの選手団も参加し、それが国営テレビで生中継されて排外主義的敵意をあおった。エルサルバドルの首都サンサルバドルで行なわれた第二戦では、スタジアムのポールにはホンジュラスの国旗の代わりに雑巾が掲げらた。
 第二戦でエルサルバドルが勝利した直後、ホンジュラスは国交断絶を宣言し、相互に空爆を交えた戦争が始まった。百時間の戦闘で四千人から六千人が死亡し、五万人以上が家を失った。双方の政府は、経済危機などからくる社会的不満をそらすために排外主義をあおり、それがナショナリズムをかきたてるW杯予選で頂点に達し、爆発したのである。
 メキシコ大会で優勝したのはブラジルだった。当時ブラジルを支配していたのは、労働者や先住民族の闘いにすさまじい流血の弾圧を続ける最悪の軍事独裁政権であった。将軍たちは「サッカーを通じて国をひとつに」をスローガンとした。優勝に貢献したペレの写真に愛国的スローガンを書きつけたポスターを全国に張り巡らし、政府公式行事ではW杯応援歌「進めブラジル」を必ず演奏した。軍事政権はW杯によって民衆の不満を国内問題からそらし、独裁支配の下での「国民的一体感」を作り出すことができ、人権弾圧政権としての国際的イメージを弱め、「サッカーの国」としてイメージアップすることに成功したのである。

排外主義的興奮と暴力の連鎖

 排外主義的ナショナリズムの爆発は、フィールドでもスタジアム周辺でも暴力と流血を必然化する。W杯に限らず、サッカーの国際試合には今日に至るまで暴力と流血がつきものである。
 六六年の第八回イングランド大会では、ブラジルのペレがブルガリアとポルトガルの選手に蹴りまくられて負傷退場し、「もう二度とワールドカップには出ない」と宣言した。ポルトガルに敗れたブラジルでは、監督や選手の自宅が暴徒に襲撃され、街頭ではブラジル人とポルトガル人が大乱闘を展開した。選手たちの暴力沙汰も、街頭での暴力沙汰も、まさに枚挙にいとまがない。
 いわゆるフーリガンの暴力事件としては、八五年ブリュッセルの欧州チャンピオンズカップ決勝戦で、イングランドチームのサポーターがイタリアチームのサポーターに襲いかかり、死者四十一人、百人以上の負傷者を出した「ヘイゼルの悲劇」が有名だ。しかしこの流血の悲劇も、リマで開かれた東京オリンピック予選のペルー対アルゼンチン戦で、判定を不服とした観衆がフィールドになだれ込み、死者三百十八人、負傷者五百人以上を出した事件に比べればかすんでしまうだろう。
 このような、W杯などサッカー国際試合をめぐる暴力と流血は、今日まで絶えることなく続いている。ヨーロッパでも、敗けたチームの監督や選手が襲撃されるなどの例は後を断たない。W杯という国家主義的スポーツショーは、このような排外主義的興奮と暴力の爆発を実際にもたらし続けてきた。排外主義的興奮と暴力が、人権の拡充や民主主義の前進や人民の国際連帯にとってはマイナスでしかないことは論を待たない。そしてそれは民族差別主義やファシズムの温床となり、人民の不満や怒りをそらせて国家主義的国民統合を強化しようとする権力者にとっては、おおいにプラスに働き続けてきたのである。
(つづく)(高島義一)


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