| じいさんはいつも私たちとともにあった かけはし2002.5.20号より |
四月二十八日、三里塚芝山連合空港反対同盟の岩沢吉井さんが逝去された。岩沢さんは一九一一年生まれで、享年九十二歳であった。
戸村一作委員長、小川明治副委員長、長谷川たけ婦人行動隊長、小川源さんなどキラ星のごとく並ぶ反対同盟の中で岩沢さんは決して目立つ存在ではなかった。しかし、空港反対闘争の節目節目の大闘争の中心に必ず岩沢さんはおり、大きな役割を果たしてきた。
わが同盟と岩沢さんとの出会いは、一九七一年の第一・二次代執行阻止決戦に向けて朝倉公民館にインター現闘団を置いた時から始まった。日常生活から闘争の準備まで、秋葉哲さんと岩沢さんには一から十まで助けてもらった。現闘団はわが子のようにかわいがってもらい、ガサ入れの時にはだれよりも先にバイクで駆けつけてくれた。この時以来三十数年、岩沢さんはわれわれにとって「岩沢のじいさん」であったし、息子さん夫婦が岩山を去った後も、闘いのために岩山に残り続けた。
岩沢さんとわが同盟は、反対同盟と支援という関係より、闘争のパートナー・良き相談相手という方が近かった。七一年の第二次決戦の駒井野塹壕戦、岩山・横堀の鉄塔建設、三・二六管制塔占拠闘争の勝利、木の根の一坪共有運動などは岩沢さんのアドバイスによるところがかなりのウエートを占めている。岩沢さんはわが現闘団の「参謀・軍師」の位置にあったと言っても過言ではない。現闘小屋で車座になって話し合う時、酒を飲まない岩沢さんは、せんべいと団子を友に夜更けまで付き合った。それでも終わらない時には、朝になってニワトリの餌をやりながら続けられた。
七四年の戸村選挙戦に向けた闘いが始まった時、各県「三里塚闘争に連帯する会」を結成するため月の半分も全国をまわっていただいた。特に七四年の始めには慣れない雪道を長靴をはき、一週間で十カ所もの会場で講演をしていただいたことがなつかしく思い出される。
また、七八年の三月横堀要塞戦では反対同盟に止められながらも、涙を浮かべて死守隊に立候補する姿をいまでも思い出す。
「怒り秘め 待ちて
十二の歳月を
思いかなえて
涙流るる」
これは三・二六の管制塔占拠が実現した時、岩沢さんがわれわれに送ってくれた歌である。
四月十八日には政府・空港公団が暫定滑走路の供用を開始し、三里塚闘争は新しい局面に突入している。わが同盟は岩沢さんの意志を引き継ぎ、東峰の住民や反対同盟とともに、三里塚空港の廃港まで闘い続けることを誓う。心から岩沢さんの御冥福を祈る。
岩沢のじいさんへ
柘植洋三
おれ柘植だよ、じいさん。インターの責任者ということで散々お世話になった柘植だよ。
憶えていてくれるよね。
俺はね、今年の十二月で六十になる。ちょうど十年勤めた会社を定年ということで卒業することになってる。
じいさんは九十二歳だったそうだから、三十二年前にじいさんは俺の年だったということになる。
今から三十二年前といえば、一九七〇年だから、三里塚闘争が始まって間もない時だ。第一次強制収用と第二次強制収用に対して戦ったのはその一年後だった。俺はね、六十になって定年後何しようかと思って、自分の力を発揮するいいことが見つからず今困ってる。それと比べりゃ、今の俺から今のじいさんまで、三十二年もの間じいさんは幸せだったと思う。
自分の力を十分に発揮し、充実した毎日を送れたもの。うらやましい。
そう思って、「じいさんとばあさんだけでもここに残ってもらえないだろうか」という俺達の頼みを聞いて残ってもらったことや、俺が病気になってしまって、残ってもらったじいさんたちのお世話をできなかったことを、「それでも、じいさんは張り切って生きてくれたんだ」と思って慰めている。
でもほんとうにそうだよ。いまどき、あんなに元気よくバイクで走り回って活躍している六十過ぎの人はいないもの。
その意味で、俺達がじいさんに感謝していると同じくらい、じいさんも俺達に感謝してほしい。そうして、その何倍もの感謝を、おばあさんや、息子さんご家族にしてほしい。
俺はねじいさん。ほんとのところあまり長生きしたくないんだ。どうみても、人間ほど残酷な生き物はいないし、まじめに付き合ってられない感じなんだ。だからそんなに遠くない時に、三途の川を渡ってじいさんのいる黄泉の国に行くよ。そうしたら、三里塚で黄泉の国に行っている三の宮やよねばあさんや東山や新山たちと一緒に、三里塚闘争のことを話そう。
まことに見事な人生に乾杯!
それと支え、許してくれた御家族の皆さんに乾杯!
二〇〇二年五月三日 |