もどる

投 稿 右島一朗「山の記憶」と「著作集」に寄せて   かけはし2005.12.12号

あらゆる分野の運動と日常的連帯があってこそ書けた

基地を抱えない自治体もぜひ考えてほしい

                            たじま よしお(長野県)

私もかつて北ア
ルプスで歩荷

 二〇〇二年四月の三里塚暫定滑走路供用阻止行動で右島さんと顔を合わせたとき、「最近中央アルプスへ、よく行くんですよ」といっていた。
 一九九九年秋から私は中央アルプスの最南端の奥三河の山中に移り住んでいる。しかも今から五十年程前は飯田の高校の山岳部にいて毎週のように中央アルプスを散策していた。そんなこともあって俄然気負い込んだのだが、五十年の歳月は私の山の記憶をとても頼りないものにしていて、トンチンカンな受け応えに終始し、右島さんを苦笑させた。
 今では中央アルプス・駒ケ岳の千畳敷までケーブルで行けるが、その工事が始まったのはあの伊勢湾台風の一九五九年頃で、私は駒ヶ根山岳会の仲間とともに伊勢滝という地点から、千畳敷までケーブル工事のための資材の歩荷(荷揚げ)に従事した。一梱包五十キログラムを二梱包ずつ日に二往復であった。私はその伊勢湾台風の年から日韓条約の一九六五年まで、主に北アルプスの上高地から涸沢までの歩荷をしていたことになる。
 その頃、私は西穂山荘へ百五十キログラムという発動機のコイルを担ぎあげたことがある。こと、山に関しては些かでも自負するところがあったのだが、この「山の記憶」を手にして思わず「う〜む」と唸ってしまった。
 まずその山行の多さ、そして「なんとまあ、筆まめであったことか」ということである。沢登りの記録には凄さを感じて、読み通すのが辛くなってしまうのだが、精神的な自己確立を目指す修業僧の姿を感じてしまう。それにしてもなんと優しい家族や友人に囲まれた修業僧であったことか。右島一朗「山の記憶」と「著作集」を前にして人の一生について、そして日々の生き方についてしみじみ考えさせられているところである。私にとって生涯放すことの出来ない「座右の銘」としたい著作である。その編集に携わってこられた皆さんに改めて感謝の気持ちを表わしたい。

物静かなオル
ガナイザー

 「山の記憶」の巻末「山行譜」によると、一九七九年から二〇〇四年八月までの二百八十四カ月に二百八十五回山歩きをしていたことになる。さてここで「著作集」の巻末に収められている「全論文総目次」と「山行譜」とを照らし合わせてみると、ある山行とその次の山行との間にどの論文を書き上げたかを推測することができる。
 一九九七年八月十六日の「丹沢の沢登り」から翌々月の十月十二日の「丹沢の沢登り」の間に五編の論文が「かけはし」に発表されているが、その中に「世界最悪となったダイオキシン」なる労作がある。当時私は東京の東久留米に住んでいて、そのすぐ近くに「柳泉園ごみ焼却場」があり、その建替え反対運動の渦中に身を置いていた。あるとき反対運動の会議の中で一人の女性が「かけはし9月8日号1面の高島論文」を頭上に掲げて、「ダイオキシンの毒性や国の無策ぶりと私たちの運動の指針がコンパクトに表現されている」と言って、コピーを出席者に配った。私が「その高島義一さんは私の友人で彼の家に泊めてもらったことがあるよ」と一言余分なことを言ったところ、一斉に尊敬の眼差しを浴びることとなった。彼女は「かけはし」を購読していた訳ではなく、コピーをどこかから入手してきたのである。
 多分その翌年の四月三十日のことだったと思うが。「日の出の森を守ろう トラスト共有地の強制収用を許さない 第6回公開審理」が立川中央公民館であって、たまたま右島さんと帰りが一緒ということがあった。例の高島論文にダイオキシンの毒性に関する説明があって、それがとても要領よくまとめられていたので「薬学の専門分野にいただけあって、凄いですね」と言ったところ、「いや大学で勉強したことなど、なに一つ覚えていないですよ。参考文献に齧りついての一夜漬けですよ」ということであった。文献の選び方が的確で無駄がないと思うのだが、それを選ぶ過程は外からはみえない。「天才的」と表現するのが早計ではあるが、それでは事の本質を見失うと思う。あらゆる分野の地道な運動との日常的な連帯があってこそ、それらが社会問題として浮上した時に「一夜漬け」で論文を書き上げることが出来るのである。
 二〇〇一年の五月十五日の夜八時頃だったと思うが「熊本地裁でハンセン病国賠訴訟は原告側が完全勝利しましたが、田島さんご存知ですか」という電話を右島さんから頂いた。私の住まいは新聞配達もこない山奥であることを知っての、彼の配慮である。何日かに一度人里へ新聞を取りに山を下る生活の私にとって、勿論そのニュースは初耳であった。早速、田中康夫知事に「国は控訴すべきでないという声明を県知事として表明すべし」というFAXを、連日送り続けることとなった。そして「満額回答」以上のものを引き出すことになるのだが、右島さんという人は物静かなオルガナイザーでもあったのである。


山からみえる彼
の苦悩と苦闘

 松下さんから「右島遭難」の報が入ったのは昨年の八月十一日の夜十時頃であった。静岡県警から右島さんの自宅に連絡が入った二時間半後である。私の住まいの裏山に登ると、直線距離で二十キロほどの天空に赤石・聖岳が聳えている。その時点では、私が彼の遺体の一番近い所に身を置いていたのかも知れない。しかし本格的な山行から離れて四十年もたっている。多くの遭難救助にも関わったがそれは昔のことである。彼が愛して止まなかった「沢登り」は、「ロッククライミング」よりもはるかに危険度は高いと思われる。私は「沢登り」にだけは関わらないことにしていた。ただそれへの拒絶は憧憬でもあったのである。悠久の時の中、流れ落ちる水流に削られて、あの山容は形造られているのである。沢を登らずして山の姿を知ることはできないという思いも抱いていた。しかしそれは「禁断の実」であり、「神に近づこうとする所業」でもある。「右島遭難」の報を松下さんから頂いた時、一瞬怒りがこみあげて訳の分からないことを口走っていた。未だ収容されていない彼の遺体の近くに身を置きながら、なにもしてあげられないことへの言い訳であったのかも知れない。
 近頃「山の記憶」をぼつぼつ読み込んでいるだが、右島さんの単独行の記録は孤独感が迫ってき、つらくて一気には読み通せないところがある。その点、吉田弘美さんの「大井川赤石沢遡行記録」のほうが親しみやすい。それで当時愛読していた赤石・聖岳周辺に関する文献を読み返していて思い出したのだが、今から四十七年前の夏、聖岳の長野県側の北又渡・易老渡を経て西沢渡へ入り、そこにテントを張り、西沢の遡行を試みたことがあった。その折に巨大な鉄砲水に遭遇して、九死に一生を得たのである。そのことがあって「沢登り」を敬遠するようになったようである。
 一九五七年のことであったが、フランスの名クライマー・ガストンレビュファーが来日して、「星と嵐」を上映し講演をした。通訳は近藤等であった。私は熱病にうなされたようになり、クライマーとなることを密かに誓ったのである。
 しかしその年の秋頃だったと思うが、谷川岳の岩場を登攀中のクライマーがオーバーハングで宙吊りとなって死亡した。遺体収容の手段がなく、ついに自衛隊員によってザイルが狙撃され遺体は谷底へ転落させられた。数台の報道カメラが次々とそれをリレーするように撮影して、私はそれを映画館で観た。あまりにも惨たらしい光景に、私は身震いしてクライマーへの熱は一瞬にして覚めたのである。それは二十歳前のことであったが、その感性は私は健全であると思っている。右島さんはそこのところが欠落していたのか、そこのところを超越していたのか。大門さんの「あとがき」にもあるが、「彼が最も愛したのは文面の端々に滲みでてくる『家族』であった」ことからして、超越していたのである。そこのところに彼の苦悩・苦闘があったのだと思う。


新時代社を奥
三河の山中へ

 私はここへ越してきてから天気の良い日は、日の出の時刻に合わせて二十分ほどの裏山に登り、赤石山脈・中央アルプスを拝することにしている。夏至の頃は太陽は聖と赤石岳の間から昇る。冬至の頃になると約三十度南の「青崩れ峠」のあたりから陽は昇るようになる。その峠はかつて武田信玄が三河を経て「上洛」する為に通過したことで知られている。
 太陽が山際を離れる一瞬というものはいいものである。太陽があって地球があって自分がある。そんな至極当たり前な感覚を、ともすれば見失いがちになる現代社会。右島さんもそんなことに想いを馳せつつ山に向かったのではないだろうか。
 先月十一月末、中国大陸から日本海を経て太平洋へ抜けて行った低気圧で、赤石山脈も中央アルプスも雪に覆われてしまった。やがて私の棲(すみか)も雪に閉ざされることになる。腰まで積もった雪の中を泳ぐようにしながら上へ向かう。「人はなぜ山へ登るのか」という問いに、「山がそこにあるからだ」と言った人がいる。それはそうだ。山がなければ登るわけにはゆかないのだ。
 〇二年四月、三里塚暫定滑走路供用阻止行動で右島さんに会ったとき「一階七十七坪、二階五十五坪の元民宿の建物に一人で住んでいるんですよ」と言ったところ、「新時代社をそこへ移そうかな」と彼は例の真面目くさった表情でボソリと言ったものである。実際にそれを行動に移そうとしたらどういうことが起きるのか私は想像して、しょっちゅう一人でゲラゲラ笑っている。何度思いだしてもおかしくてどうしようもない。
 しかし、そこのところに右島さんの山への想いの深さがあるだと私は受けとめたいのだが、さて吉鶴憲二さんの追悼文を読むと、また考え込んでしまうのである。「右島さんは、『山で死ねれば本望だ』と無責任に豪語し、また山登りの初心者を平気で、その人の登攀レベルを遥かに超えるあぶなっかしい沢に連れていった」と書いて「自己中」「無責任」と批判している。右島さんの山行記録を見ると、食事も喉を通らないような体調で山に向かって行くというような記述が見られるが、そのような山行は私には想像することすら出来ない。
 「新時代社を奥三河の山中へ移そうか」などと真面目くさった顔で言い、自分の言ったことのおかしさにも気付かず平然としていた彼は、私の理解の範疇にはないのだが。無神論者を自認するものが言うのはおかしなことではあるが、彼は神々の領域に足を踏み入れてしまい、現実の社会との境界線を見失い遭難したのではないだろうか。とても「無責任」とか「自己中」などという言葉では括れない精神世界に彼はいたのだと思う。
 この「山の記憶」は彼の山行記録の極一部分でしかないとのことであるが、私はその全部を読んでみたい。「著作集」もその全集が出版されるのを望むものであるが、大衆運動がそれを必要とする機運の醸成も問われてくることになる。
 奥三河の山中に隠れ住んでいるような身で、勝手なことを書かせていただいたが、今の自分の生き方を問いつつ右島一朗さんのご冥福を心から祈りたい。合掌。
 二〇〇五年十二月四日(奥三河にて)


コラム

酒税の見直し

 小泉は自らが政権にいる二〇〇六年九月までは消費税のアップを行わないと宣言したが、二〇〇七年以降には二桁台への消費税の引き上げ、給与所得控除の改廃によるサラリーマン増税、「三位一体改革」による税源移譲に伴う地方住民税のフラット化による増税がすでに日程に上がっている。他方、増税という言葉は使用されていないが、この間唯一の「減税」であった定率減税の廃止が決定され、社会保険料の増額、患者の自己負担の増大などが矢継ぎ早に決めれた。
 政府は「社会保障改革」などともっともらしい言葉を使っているが、「弱者」に一層の「痛み」を押しつけるもの以外のなにものでもない。次期通常国会に提出される高齢者の三割負担の導入やすべての高齢者からの保険料徴収は「社会保障改革」の実体をあますことなく明らかにしている。
 これらの小泉政権のもとで準備されている「増税」問題はいずれ違う機会で触れなければならないが、今一番頭にきているのは「第三のビール」に対する増税である。毎日のように酒に手を出す者は、谷垣財務大臣の「酒類の税率格差を見直す」という発言がなにを意図しているか誰でもすぐに気づく。その時々の一番の「売れ筋」に新たに課税し、仮に旧来の課税率が低い場合には「税負担の適正化」を口実にして課税率を一挙に引き上げるのである。
 思い出してみよ、九〇年代後半に若者の間で火がついた「焼酎ブーム」は、またたく間に全世代に飛び火し、「夜の銀座」でもボトルをキープする光景を作り出した。これに目をつけた財務省は九七、九八、九九年と三年も立て続けに増税し、一千億円以上の増税に「成功」したのである。そして味をしめた財務省は〇三年には「新しいビール」として広がった発泡酒をターゲットに増税したのである。その結果、かつて一升二千円以下で買えた焼酎は「幻の焼酎」と呼ばれ一本二万円とか三万円とかでネット販売されるに至っている。発泡酒も「第三のビール」も冷蔵庫でギンギンに冷やすと「それなり」飲めるということが分かり、〇四年に第三のビールの税収が二百三十八億円であったものが、この一年で一気に三倍と消費量が拡大し税収も七百五十億円になった。開発したのはたしかにメーカーであるが、安い酒をいかに「うまく飲むか」を考え出して広めたのは、「貧しき庶民」である。現在の税金はビール(350グラム)七十八円、発泡酒が四十七円、第三のビールが二十四円である。これが財務省の考えているようにビール並に税率が改正されるなら、第三のビールの税収(05年にあてはめると)は一千五百億円となり、財務省はぬれ手に粟のごとく約一千億円もの税収増が見込める。谷垣の言う「酒類の税率格差を見直す」の発言の真意はここにある。
 そしてもっとも腹立つのは、「ミスター増税」と呼ばれる政府税調の石委員長の発言である。「最近、ビール風のビールみたいなものができ……これがビール本来の味を忘れさせている。酒文化にえらい影響がある。……そういう意味で低価格競争が……酒の文化を損なっているのではないか」。なにをかいわんやである。課税の中立・公平を語りながら増税を押し進め、「十年間は政府の税調委員長を続ける」ために政府の片棒を担いでいる奴に「文化」なんか語る資格はあろうはずがない。
 こうなっても「酒をやめる」といえない自分が口惜しい。一年で一番酒を飲む暮から正月が確実に近づいている。 (武)


もどる

Back