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投稿 今回の衆議院選をどうみるか          かけはし2005.10.24号

「公務員」へのねたみを利用した「改革」は一層民衆に負担を強いる

なぜ「小泉劇場」は成立したか

                                   T・W

小泉劇場では自分が「英雄」

 「政治がわかりやすくなった」「強いリーダーシップで改革をしてくれるだろう」
 二〇〇〇年に小泉が首相に就任した時、多くの人々の口からこんな言葉が聞かれた。小泉内閣の支持率は、歴代の内閣支持率と比較して類を見ない高さに上りつめた。二〇〇五年九月十一日の衆議院選挙における、小泉・自民党の大勝を後押しした人々の声は、おそらく五年前とさほど変わってはいないように感じる。 小泉政権の五年間で、はたして人々の望むように暮らしが改善されて、「時代の閉塞感」がうち破れただろうか。そんなことはありえない。それどころか、内政、外交ともども行き詰まっている。多くの人々には、何のかわりばえもしないどころか、情勢はますますま悪化している。
 人間は苦しい時、現実から逃避したがったり、考えるのがおっくうになって自暴自棄的に物事を投げ出す傾向がある。サラ金やヤミ金融などに手を出してしまう人々が目先の苦境を乗り切るため、危険だとわかっていても金を借りる心理にも通じることである。
 人々に無力感が広がり、疲弊した時、人々は現状を劇的に変えてくれる「英雄」の登場にあこがれもする。しかしこの「英雄」は、小説やマンガ、演劇や映画などの創作物には登場するが、現実世界には都合のよい「英雄」を待望するとしたら、権力者はどのように立ちふるまうだろう。
 小泉の立場にたって考えてみれば、小泉としては自分を「英雄」という役割を演じることで、民衆の意識を束ねる策略をもちえると考えただろう。
 政党政治、議会制民主主義の「制約」を小泉が苦痛に感じ、それらを飛び越え自分の考えを押しとおそうと考えたなら、直接大衆を動員する、という考えに行き着くのは自然だと思う。現に歴史の中で、ヒトラーや文化大革命時代の毛沢東がこの方法で政権の座についている。かれらは「自分こそが人々を救える唯一の存在」という幻想を、人々に刷り込むことによって盤石の地位を築いたのではなかったか。
 民衆に対して小泉が自分を「英雄」として刷り込むために、人々に幻想をいだかせるドラマを見せようと考えたとしても不思議ではないだろう。ただしそのドラマは、小泉にとって都合のいい筋書きであることが前提だ。
 疲弊し、思考にあきた民衆に対し、効果的にアピールするドラマの筋書きは「単純」さが要求される。疲れている人は、小難しい話にあまり聞き耳を立てるようなことはしない。それよりも「わかりやすく」「おもしろい」ドラマの方が受けがよい。このようなことを前提に、小泉は自分が主役を演じるドラマの筋書きを考え出し、それに沿って今に至っているとも考えられないだろうか。「劇場型政治」と呼ばれる小泉の手法をひもとくと、確かにドラマとして成り立つ。その「あらすじ」を追ってみよう。

「善意の改革者」と
それを阻む「悪人」

 五五年体制が終焉を迎え、左右の大きなイデオロギー的対立が消滅した日本は、「政界再編」の流れの中にいた。この流れは政権政党である自民党をもゆさぶり、自民党政治もまたゆらいでいた。
 民衆は長引く不況の中で疲れきり、政治に対しても大きな不信感をいだいている。閉塞感だけが厚く日本を覆っていた。
 その時である。「自民党をぶっ壊す!」「大胆な構造改革を行う!」と言う威勢のいいかけ声とともに現れた男がいた。小泉純一郎である。この男は政権党に属しながらも「変人」として知られており、他の与党政治家とは一線を画す存在に見えた。民衆はこの男に、「理屈」ではない期待を感じた。
 小泉は言った。「痛みをともなう構造改革を行う」と。これは民衆が知っている、従来の政治家とは一味違った。今までの政治家といえば、選挙のたびに都合のいい、おいしい話をするだけで、実際は政争に没頭し、民衆とはかけ離れた存在にすぎなかった。しかしこの男、小泉は「本音」で語っている。民衆に「痛み」を要求する政治家などいなかった。民衆もまた、「何事かをなすには犠牲もやむなし」と感じていた。リストラが頻繁に行われている時代で、「痛み」もやむえない、と思っていたためだろうか、小泉の言葉は民衆の胸にすんなり落ちた。しかし民衆の多くは「痛み」を味わうのは自分ではないだろうとも思っていた。
 小泉はついに首相となった。そして「改革」に着手した。なかでも郵政民営化は小泉にとって、「改革」の目玉であった。しかしこれには、野党ばかりでなく与党からも反対の声が上がった。小泉はこれに対して「抵抗勢力」と規定した。ここに「善意の改革者・小泉」と、その行く手を阻む「抵抗勢力」などの悪人たち、という図式が完成した。民衆にとっては、「わかりやすく」「おもしろい」舞台が整った。「悪人たち」は、民衆を失望させた旧来からの政治家だったので、それらと戦う小泉は民衆にとって希望の星に見えたのだ。
 その後、国内外でさまざまな事態が起こった。アフガン、イラク戦争。年金問題。介護保険問題。靖国参拝問題等々……。時には小泉の政治基盤をゆるがしかねない事態も起こった。そのたびに小泉はメディアを利用したり、「わかりやすい」キャッチフレーズの多用や「絶妙な話術」を使い危機を乗り越えていった。
 やがて小泉は、いよいよ郵政民営化の「決断」を下すことにした。支持率も下がってきた小泉には「郵政」こそがカンフル剤だと考えた。機は熟した。郵政民営化法案が否決されたなら議会を解散する。これに乗じて党内の「抵抗勢力」を切り、政治の権限を自分に集中させる、という計算が小泉の頭にあった。それには民衆を動員し、派閥も議会も飛び越える手を打たなければならないだろう。小泉は一芝居打つことを考えていた。
 小泉の想定内どおり郵政法案は参議院で否決された。いよいよ衆議院を解散するのだ。しかしただ解散するだけではない。「劇的」に解散するのだ。
 解散直後、小泉の選挙に挑む「決意表明」が日本全国に放映された。それは小泉、一世一代の演技だった。テレビ画面に、「苦渋の選択」をし、「死を賭して」戦いに挑む、「悲愴な面持ち」をした小泉の姿が映し出された。
 民衆はその小泉の姿に感動した。「英雄」が「悪人」に囲まれピンチに陥ってるように感じた。自分たちの生活が一向によくならないのは、小泉をじゃまする「悪人たち」のせいだと思った。民衆は「小泉を守るために」投票にを行こうと考え始めた。
 こうして選挙が始まった……。

勧善微悪の単純
なストーリー


 「小泉劇場」の筋書きはおおよそこのようなものだろう。
 ドラマとしてとらえればこれは、単純な勧善懲悪の物語だ。このストーリーをもとにさまざまな話の応用が考えられるが、基本的には「英雄」としての役柄を小泉が演じ、そのほかは「小泉の味方か敵」として描き出せばいい。そして小泉が、次から次へと現れる「悪人」どもをバッタバッタと切り倒していく。言葉にすればこれだけの、特に新鮮味もない三文芝居を我々は見せ続けられてきたわけだ。しかし疲れきってる民衆にとっては、小難しいドラマを見せられるより、こんな三文芝居の方がストレスをためることなく飲み込めるのだ。しかしこれこそが一番の問題なのである。小泉の作り出した筋書きに、多くの人が乗せられてしまったことが。
 この小泉政治には「政策」で争うなどと言う姿勢はみじんもない。ただ民衆の「感情」に訴えかけてるだけだ。これが小泉政治の特徴である。こうして一連の小泉のドラマ的手法を見ると、民衆にとって今回の選挙が、本当に郵政民営化をめぐって戦われたものであったかどうかは疑わしく感じる。
 最近の選挙では、候補者の個人的キャラクターで話題づくりをしたり、候補者個人の「スキャンダル」をおもしろおかしくマスコミが取り上げる傾向がある。今回の選挙でも「ホリエモン」やら「女性刺客」やらが話題をふりまいた。そこには「政策」などはなく、ただ「気分」だけが選挙戦を支配していた。
 ホリエモンなどは、ただ小泉の主張をオウムのように繰り返すだけだった。「女性刺客」と呼ばれた候補者たちには、興味本位の差別的なスキャンダル報道が垂れ流された。`
 これらの事がらは通常であれば、候補者への「不利」に作用するものである。しかしこの選挙ではそれはほとんど影響を与えなかった。民衆にとってこの選挙戦を見つめる視点が、従来の選挙と全く違っていたからである。その視点は「小泉の敵か味方か」、にしぼられていたからである。小泉の「悲壮な決意」が政策を飛び越え、小泉個人の「人気投票」になったため、候補者の「浅はかさ」も「スキャンダル」も小泉の「個性」に吸収されてしまったのではないだろうか。ということであれば「政策」など二の次の選挙戦で、郵政が争点かと言われれば、かならずしもそうとは言えないのである。

新しいキャラク
ター登場「敵」


 小泉の描く政治ドラマに「敵」は欠かせない。「主人公」小泉を引き立てるために「悪役」はいくらでも必要となる。小泉は「抵抗勢力」のほかに、また違う「敵」を民衆にしめした。
 かつてドラマ的手法で政権についたヒトラーは、ヨーロッパ民衆の反ユダヤ感情を利用し、ユダヤ人を「敵」として民衆にしめした。小泉もまた「敵」を用意した。それは「公務員」と言う「敵」だった。
 民間企業に勤める人々や自営業者などにとって、公務員は「ねたみ」の対象である。リストラもなく、仕事も適当に流して、定時で退社ができ、退職金もしっかりもらえる。こんなイメージが公務員にはある。小泉はこの「ねたみ」を利用した。
 「公務員にできる仕事が、なぜ民間ではできないと言うのか」
 小泉のこの演説は、キャッチコピーといえるほど連日テレビで放映された。ただでさえ悪いイメージを公務員に持っている人々にとっては、公務員に対する「ねたみ」を刺激する演説になったことは容易に想像できる。武部自民党幹事長は、官公労の支援を受けているということで民主党批判を行った。このエピソードは、今後の公共サービスを防衛していく闘いの中で重要な意味を持つと思う。

左翼の「独善的」
体質とその限界


 今後、政治情勢がどのように動くのかはわからない。小泉劇場にやがて人々はあきるかもしれない。サラリーマン増税や、イラクに派兵されている自衛隊に「不測の事態」などが起こり、民意に変化が起きるかもしれない。その時小泉は、また三文芝居をぶつかもしれない。それでも小泉に求心力がなくなれば、新たな政界再編や民主党の勢力回復が起こるかもしれない。ただ言えることは、いずれにしても民衆の生活が悪化していくことだけは間違いないだろう。この時、左翼の登場する可能性はあるのだろうか。残念ながらその可能性は低い。左翼に民衆の不満を吸収するだけの度量がないからである。
 左翼の言い分がいくら正しくても、民衆の「感情」の前ではもろくも押し流されてしまう。「感情」は観念的な代物である。時として「感情」は「理屈」を越えてしまう。
 それでもまだ左翼には負けない道もある。小泉は自分自身の中身のなさをおぎなうために、人々の「感情」に訴えかける手段に出た。左翼の「理屈」が正しいものならば、中身のない政治勢力に対し闘いを挑むだけの「基盤」はある。問題はその「理屈」を、人々の「感情」をゆさぶるぐらいにイメージ豊かに提供できるかどうかだ。言い換えれば「地に足のついた」政策なり、闘う姿なりが表現できるのかと言うことだ。
 日本の左翼の「敵」に対する批判は容赦がない。そして正しい「主張」も徹底的にする。それはそれでいいことだし、おおむね正しい。しかし欠落している視点がある。それは左翼が自分たちの運動の圏内以外の、いわゆる「普通の人々」の視点にたってものを見たことがあるのか、と言うことである。そんなことはない、と否定するならなぜ左翼への支持が広がらないかを素直にとらえるべきである。「普通の人々」の思考と「左翼」の思考との溝を知らなければならない。
 相手を一方的に批判したり、自分の主張の正しさを話すのはある意味で誰でもできることである。しかし主張がいくら正しくても、相手の心に響かなければ考えが伝わらないのと同じだ。相手に伝えるには、相手の立場にたって物事を見つめる作業が大切である。相手の立場に立ったつもりと、実際に立ったのとでは雲泥の差がある。
 具体的に事例をあげれば、左翼の機関紙やビラなどから左翼の「独善的」体質が読み取れてしまう。それらのもので使用され、または運動上の会話で使用されてる「左翼用語」はどうだろう。単純な言葉で語れる事がらを小難しく語っていないだろうか。細かい話に思われるかもしれないが、そんな小さなことからも「普通の人々」にとって左翼が実生活から遊離したものに感じられたりもするのだ。
 また運動を進める中で懐の深さがあるだろうか。考えの違う相手を厳しく批判するだけで、その相手の考えをくみ取る作業をしてきただろうか。考えに違いがあったり、または行動に違いがあっても、目指すものが同じである以上、くだらない人間だと思っても受け止めるだけの度量が今の左翼にあるだろうか。
 つまり左翼が運動内でふりかざす「常識」が、「普通の」民衆の常識から遊離してることがままあると言うことだ。それはひとえに従来の左翼が、民衆の立場から本当の意味で考えたことがないと言う証明である。厳しい話をしてるが、本当に勝利をねらうなら根本的にこんなところから手をつけていかなければならない気がするのだ。

「どんでん返し」
のために闘う


 ところで小泉の芝居はどこまで続くのだろう。ドラマとしてとらえるなら、実はまだ決定的に観客を喜ばせる場面がない。それは「どんでん返し」である。
 どんでん返しとは、ドラマの上のクライマックスのことである。今までの筋書きを一挙に覆すような、ストーリーの意外な展開のことだ。観客がもっとも注目する場面になる。意外な展開がポイントで、例えば、今まで「善人」と思われていた人物がドタン場で「悪人」であったと馬脚をあらわすような場面である。
 小泉劇場に当てはめよう。
 「善人」であり「改革者」であった小泉が突如化けの皮がはがされ、「悪人」であったことがバレる。そこでこれまでストーリー上、小泉の正体を知りながらも周囲に理解されず苦汁をなめてきた「脇役」が、苦戦しながらもバッサリと小泉を切り捨てる。
 このような筋書きはいかがだろう。ドラマ的には盛り上がるのではないだろうか。なにも小泉の描く筋書き通りに演ずる必要もないだろう。よりおもしろいストーリーに書きかえたっていいではないか。我々は人々にこんなドラマを見せられないだろうか。
 人々の「感情」に訴える、一級品の娯楽大作ドラマの制作を模索してもよいのではないかなと思う。


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