| ルクセンブルクの欧州憲法国民投票 かけはし2005.10.10号 |
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労働者階級では「ノー」が多数フランス・オランダの動きが還流 |
報告者ダヤトさん来日できず
インドネシア政府と日本大使館が共謀して権利を侵害
ルクセンブルクで七月十日に行われた欧州憲法に関する国民投票の結果は、欧州連合の正統性に対する未曾有の危機を確認するものであった。総力戦で行われた憲法賛成キャンペーンにもかかわらず、IP通信の記事で欧州の「甘やかされた子供」と評されたルクセンブルクは、キャンペーンの進行の中で、新自由主義的欧州に未曾有の異議を突きつける舞台となった。
「イエス」投票は最終的には投票数の五六・五二%で、「ノー」の四三・四八%に対して勝利したが、キリスト教民主党・社会党連立政府は、結果が発表される直前まで「ノー」の勝利の可能性を本気で恐れていた。フランスやオランダと同じように、ルクセンブルクでも、左翼の「ノー」キャンペーンが前進した。
二〇〇五年の初めには「ノー」は一七%と見られていたのに、精力的な「ノー」の掘り起こしと、フランスおよびオランダの国民投票の結果が、人口四十五万人(三八%の外国人を含む)の小国の情勢を変えた。
フランスおよびオランダと同様に、票の社会的分極化は明確であった。自営業者の六九%、大学卒業者の六〇%、ホワイトカラー労働者の五一%が「イエス」に投票した。
「ノー」に投票したのは、特に下層階級および若年層であった。肉体労働者の六七%、二十五歳以下の六二%は「ノー」に投票した(ユーロバロメーター世論調査、二〇〇五年七月十八日)。票の分布図は、金持ち所得レベルや不動産価格の分布図と一致する。
特に大量の「イエス」投票があったのは、不動産価格が記録的レベルに達している地域、すなわち、ルクセンブルク市(六二%)およびそれを取り巻く豊かな郊外の「金持ちベルト地帯」(シュトラッセン、マメール、ヘシュペランゲ、六〇%以上)であった。
東部の農村地域では「イエス」の比率はやや低く、ルクセンブルク北部の農業地帯ではかなり低く、「イエス」は約五五%であった。南部の都市労働者階級地域では「ノー」が多数派であった。エシュスルアルゼット(五三%)、ディフェルダンジュ(五五%)、シフランジュ(五三%)ルメランジュ(五六%)、ペタンジュ(五三%)、カイル(五三%)、サナン(五三%)などである。
これらの地域は、かっては鉱山および鉄鋼業の中心であった地域で、政治的左翼と労働組合左翼の歴史的拠点である。最も「ノー」支持の高い社会的層のかなりの部分が国籍のゆえに投票から排除されなければ、恐らく「ノー」の比率はさらに高まったであろう。
ポルトガル人(総人口の一四・五%)およびイタリア人(総人口の四・一%)は、多くの場合肉体労働者か下層ホワイトカラーとして雇用されているが、彼らの票が加わっていれば「ノー」票が増えたことは疑いない。
投票の後、政治的リーダーやジャーナリストは、「ノー」支持者を外国人嫌いときめつけ、「ノー」票を説明する重要な要素としてこれをあげた。見え透いた階級的憎悪(労働者=愚か者=外国人嫌い)にかられたこれらの当てこすりは、国民投票後に行われた欧州連合に関する世論調査によって的外れであることが明らかにされた。「ノー」投票者のうち、雇用状況に対する憲法の否定的な影響を挙げたものは三七%、経済情勢の悪さを批判したものが二三%、社会的ヨーロッパが十分発展させられていないと考えたものが二二%であった。
「ノー」投票の理由としてトルコの欧州連合加入反対を挙げたものは、わずかに一七%であった(ユーロバロメーター世論調査、7月18日)。ルクセンブルクの社会的情勢は、欧州連合の他の諸国より恵まれているにもかかわらず、失業率の増加が目立っている。公式の数字では現在四・四%であり、国家支援雇用制度に一時雇用されている人々を考慮すると六%である。
一連の公共サービス(郵便、電話、鉄道、エネルギー、地方自治体公共サービス)の民営化と規制緩和、工場移転の脅かし(鉄鋼大手のアルセロール、グッドイヤー)も、社会的不満を高めている。
特に「ルクセンブルク・モデル」の社会的・政治的特徴が、「ノー」の支持者にとって国民投票の運動を困難にした。ルクセンブルクでは、政治的合意の文化が依然として強力である。つまり、不滅のキリスト教民主党(一九四五年以来、五年間を除いて、ずっと権力の座にある)が、社会党とリベラル派を交互に連立の相手に選びながら、自らの周りに政治的生活を組織してきた。労使関係の管理は、政府、雇用主、労働組合を一緒にした「三者」体制の中で行われている。
議会に議席を持つすべての政党は(キリスト教民主党、社会党、リベラル派、緑の党、そして当初はポピュリスト右翼[注1]も)欧州憲法承認であった。社会党系およびキリスト教民主党系労働組合連合も、雇用主側団体とともに、憲法賛成であった。
首相ジャンクロード・ユンケルは、もし「ノー」が勝つようなことがあれば辞任するという脅しをかけて、自らの人気のすべてをこの優位にかけた。神聖なる欧州主義的一致のケーキを覆う砂糖の薄皮として、アンリ大公と百十八の市長のうちの九十八人も加わった。
「ノー」を代表したのは、政治の舞台の少数派であるデイ・レンク(左翼)とルクセンブルク共産党[注2]、およびデイ・レンクの元国会議員アンドレ・ホフマン、社会主義鉄道労働者組合委員長ニコ・ヴェンマッハー、著名な弁護士ガストン・フォーゲルのような個人であった。
「憲法に対して『ノー』を」委員会は、個人の活動家、ATTACルクセンブルクのメンバーたち、学生組合UNELやデイ・レンクのメンバーを結集し、公的資金を受けることなく、ポスター貼りやビラ配布などの大衆宣伝を行った。フランスとは違い、「ノー」陣営には政党組織や労働組合機関はその一部さえも参加せず、憲法反対派の行動範囲は限られていた。
ルクセンブルク社会党の指導部は一様に憲法支持であり、下部社会党員の無口な活動家たちは、最初は個人的に意見を言うだけだったが、投票の二週間前になって公然と発言し始めた。
社会党(少なくとも南部)の中堅カードルの一部は「ノー」に賛成だったが、党指導部への追従が支配的であり、このことが社会党支持者の最も忠実な層、特に古い支持者に反映した。このことは、若い選挙民にはほとんど影響を与えなかった。
OGBL労働組合連合は、社会党と結びついており、社会党員およびその中堅カードルと結びついている。この労働組合は、最終的には憲法賛成の公共キャンペーンを放棄した。緑の党の指導者たちは、その歴史的基盤に反する「イエス」キャンペーンを積極的に行った。緑の党は依然として彼らの出発点である平和主義と左翼的理想を掲げているが、「ノー」を支持する緑の潮流は出現しなかった。
国の議会制度の中に「ノー」を代表する議員団が存在しない中で、「ノーのための委員会」の行動が決定的役割を果たした。隠された党派的意図を持たない市民集団と見られ、「ノー」投票に好意的な世論の一部を結晶化させることができた。ポピュリスト右翼のADRは、最初は欧州憲法を認めていたが、遅ればせながら「ノー」キャンペーンを開始した。これはあまり実質的な影響を持たなかった。日和見的動機があまりにも露骨であると見られたからである。
メディアや国の体制内にあまねく存在する「イエス」支持者たち、金融センターとしてのルクセンブルクが引き出す利益、欧州機関の存在(欧州司法裁判所、欧州委員会、欧州会計監査院)がもたらす雰囲気は、憲法賛成の地すべり的勝利の恐怖が感じられるほどであった。しかし、「イエス」支持者のキャンペーンと憲法の文言は、憲法反対派の最良の味方であることが明らかになった。
「イエス」支持者たちは、何よりもまず、政府のキャンペーンだけが行われることを望んだ。それは納税者の税金でまかなわれ、欧州連合の長所を自慢し、付け足しで憲法をたたえるものである。しかし、このキャンペーンは「ノーのための委員会」の現場での活動によって反撃され、また憲法に関するフランスの論争が輸入されることによって反撃された。ルクセンブルクに存在してはいたが潜伏していた社会的不満は、このようにして、体制内政党が予想もしなかった病原性をともなって、公然と表現されるようになったのである。
欧州政策に対する民衆の不満が明らかになった瞬間から、「イエス」の支持者たちは、二十年間実施してきた政策を継続しさらにひどくすることを基本的に提案している憲法の文言を擁護することが非常に困難になった。
キャンペーンが進行するにしたがって、憲法の文言の綿密に論証された批判を通じて、憲法反対派は論争の条件を支配することに成功するようになり、特にテレビで放送された一対一の討論では、「イエス」支持者を守勢に追い込んだ。
国民投票の一カ月前には、特に国民投票を行うか中止するか(これを決定する期限は三週間前)に関する論争が大混乱に陥ったが、首相のジャンクロード・ユンケルが介入して国民投票への軌道に戻し、最後の二週間にキリスト教民主党の機関がキャンペーンに突入した。
「イエス」キャンペーンの政治路線は、基本的なナショナリズムを軸にして再定義された。ユンケル首相を中心にした国民的統一、そしてルクセンブルクの財政的社会的利点の防衛である。ユンケルは、二〇〇五年六月十七日の欧州連合予算に関する欧州理事会の失敗をめぐって、トニー・ブレアの背信行為の犠牲者として描かれた。ルクセンブルクの銀行業の営業の秘密の問題は、通常は避けて通るのだが、むしろ強調された。憲法反対派は欧州の財政的調和を要求している、とされた。
キャンペーンの最終局面におけるキリスト教民主党のスローガンは、ナショナリスト的調子を露骨に示している。「欧州憲法:欧州にとって良い、ルクセンブルクにとって良い」。キリスト教民主党のプロパガンダの重要点の一つは、「憲法は弱い欧州を保証し、社会政策および財政政策に関する権限を国民国家に残す」という主張である(部分的に真実であり、部分的にうそである)。
ナショナリスト的な「イエス」キャンペーンの相対的成功は、投票前に行われた世論調査に示されている。「イエス」支持者の六八%は、欧州におけるルクセンブルクの地位に関連して自分の立場を決定したと答え、八八%は、「イエス」投票が欧州におけるルクセンブルクの地位を強めると答えた。一方、「ノー」支持者の七一%は、憲法の文言に関連して自分の立場を決定したと答えた(ILRES世論調査、六月七日)。
「イエス」支持者の総力戦によるキャンペーンと下層階級の重要な部分が投票から排除されていたことを考えると、「ノー」が四三%であったことは、ルクセンブルクの最左翼にとって立派な結果であると言える。ルクセンブルクの国民投票キャンペーンは、フランスおよびオランダの場合と同じように、一方の体制と政党機関と、他方の新自由主義政策に苦しめられている労働者階級および若年層の間の、ギャップを示している。
動員を続けることは「ノー」キャンペーン主導者たちにかかっている。この活動が狭いルクセンブルクの国境内に収まるものでないことは言うまでもない。大陸レベルで他の進歩的勢力と連携することが決定的に重要である。来年のギリシャにおけるヨーロッパ社会フォーラム、および欧州委員会の自由主義的指令に反対する動員が、この闘いの第一段階となるであろう。
原注
(1)二〇〇四年議会選挙の得票率は、キリスト教民主党三六・三%、社会党二三・三%、民主党(リベラル)一六%、緑の党一一・五%、ADR(ポピュリスト右翼)九・九%であった。
(2)デイ・レンクは、一九九九年に、ルクセンブルク共産党(PCL)、PCLを離党した「新左翼」グループ、第四インターナショナルの活動家および独立派活動家が結集して結成された。PCLは、二〇〇三年にデイ・レンクから(セクト主義に基づいて)分裂し、以降はネオ・スターリニズム政策を行い、基本的に宣伝主義的路線をとっている。二〇〇四年議会選挙では、デイ・レンクの得票率は一・九%、PCLは〇・九%であった。(「インターナショナルビューポイント」電子版05年9月号)
(筆者は第四インターナショナルの活動家で、「デイ・レンク(左翼)」のメンバー。「欧州憲法に『ノー』を」ルクセンブルク委員会のメンバーとして活動した。)
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