もどる

ベネズエラ 「社会主義革命のための労働者党(PTRS)」かけはし2005.9.12号

新党への動きが始まる

労働者権力と社会主義的民主主義を築く戦略的ビジョンが必要


                             スチュワート・パイバー

前へ進むか後退するのか

 七月七日の土曜日、数百人の人びとがベネズエラの首都カラカスの中心部にある帝国劇場に集まり、ベネズエラにおける新しい革命的社会主義政党に向けた運動を出発させた。この集会は、既存の革命的社会主義者の再編・統合によって作られた「革命的左翼選択」(OIR)、三つのラディカルな労働組合潮流と学生組織、そして組織に属さない多くの個人が呼びかけたものである。
 労組連合組織のUNTの全国指導者、プエルトラクルスの石油労働者とプエルトオルダスの鉄鋼労働者の指導部、学生組織とオルタナティブメディアの代表が、なぜ新しい党が必要と考えたのかを説明する演説に聞き入る、観客席からはみだすほど参加した人びとのムードは真剣であり、情熱的でもあった。
 強調の置き方に相違はあったが、全般的な流れは同じだった。ベネズエラの革命的プロセスは岐路に立っている。それは前へ進まなければならないのか、後退しなければならないのか。政府やボリバール主義運動(訳注:ベネズエラのチャベス派運動は、自らの変革の闘いを、一九世紀のスペイン植民地支配からの南米の独立運動の指導者の一人、シモン・ボリバールになぞらえてボリバール主義革命と呼んでいる)の内部から抵抗が生まれている。この革命的プロセスを深め、急進化させるためには、鮮明な社会主義的展望を持った大衆的革命党の建設が絶対に必要である。
 この集会の組織者たちが起草したテーゼ草案には「時期は熟している」という言葉がある。ベネズエラ民衆は第四共和国の古いブルジョア政党と断固として決別し、「彼らは、第五共和国の新しい、腐敗した、身内びいきで官僚的な諸政党とも距離を置きはじめている。……こうしたわがベネズエラの同胞に訴えよう。われわれ自身の政治組織を建設しよう。まさしく、われわれがこの革命的プロセスの敵と対決して、UNT、生活協同組合、土地委員会、UBEなどのわれわれの闘争にとってきわめて重要な組織を確立していったようにである。いまやわれわれは、社会主義に向けて闘うためにわれわれ自身の党、労働者と民衆の党を建設することが緊急に必要となっている」。
 新党をめざす運動を公式に後援しているわけではないが、この集会に伝説的なゲリラ指導者のカルロス・ランスが重要な支援を与えた。彼は、今年の初め、チャベス大統領から南西部のグアヤナ州の基幹工業への「革命的共同経営」導入を推進する担当として任命された。

チャベス派との関係は?


 最初にALCASAアルミニウム工場で行われ、いまや他の地域の州営工場にも拡大しているこの経験は、労働者統制、さらには完全に開花した自主管理の特徴の多くを持っている。これは、ボリバール主義革命の最も進歩的な表現の一つであることは疑いない。それはまた、主要にトロツキストであるOIRやカルロス・ランス自身の「四月十三日潮流」などの、幾つかの異なった伝統を持つ工場組合活動家や革命的闘士を結集している。彼はこの日の集会の中で、ALCASAで行っていることは、最近チャベス大統領がホリバール主義革命の目標として明らかにした「二一世紀の社会主義革命」を予示していると語った。しかし彼は、革命的共同経営のためのこの計画を意識的な脱線させようと試みている者が政府の中にいる、と指摘した。
 電気労働者の指導者であるホアキン・オソリオは、国営電気会社の親チャベス派と見られている経営者が、共同経営を導入するために闘っている労働組合活動家をいかに圧迫しているかについて語った。
 さらにウーゴ・チャベス自身の明白な混乱のいくつかに対する丁寧な態度での批判も行われた。この間のメーデーでの「ベネズエラにはすでに労働者政府が存在している」という大統領の主張に言及した、アポレア・オルタナティブ・ニュースサービスの創設者であるゴンザリョ・ゴメスは、もしそれが大統領の考えていることであるとすれば、ベネズエラの労働者が対外債務を支払うべきか否か、あるいは平価切り下げを行うべきか否かを討議し、決定することを認めるメカニズムがどこにあるのかを、彼はわれわれに告げなければならない、と問うた。
 後援グループからなる組織委員会が、活動の日程表、活動プラン、綱領的政綱、規約の提案を作成するための会議を開始することが発表された。その目的は、カラカスでアメリカ社会フォーラムが行われる一月に、新党結成大会を開催することである。新党をめざす運動は、臨時的にUNIRと呼ばれるが、党自体のために現在提案されている名称は「社会主義革命のための労働者党(PTRS)」である。

未だ多くの課題が残る


 この新党をめざす運動は、相当大変な課題を抱えている。それがベネズエラの工業の中心的職場に顕著な基盤を持っていること――そのことは土曜日の出発集会への参加者がきわめて「プロレタリア」的であったことからも明らかだ――は、重要なスタートである。それは、少数派の組織化の権利や代表権をふくむきわめて民主主義的な内部生活を持った大衆的労働者党の建設への関与にとっても重要なスタートである。異なった潮流の参加は、テーゼ草案それ自身とともに、この運動のイデオロギー的アイデンティティーが、したがってその潜在的アピール度が、運動の主要な後援者がやや狭いトロツキスト的性格を持っていることに比べて、より広いものとなることを示している。
 しかしこの約束された出発が、ベネズエラのプロセスが明確に求めているような民主主義的に組織された指導部を提供できるようになるためには、いまだに多くの道のりがある。この運動の中で、ベネズエラの都市貧民社会からの参加が相対的な弱いことは、真に重大な問題である(正規雇用が職場において少数であるような国にあって、ボリバール主義革命の中心が職場ではなく地域にあったことは、なんら不思議なことではない)。また、女性の比率も少ない――土曜日の出発集会の演壇に最初は女性が一人しかおらず、男性が十数人いたことへの抗議があった――し、若者の参加も依然として限られている。
 さらに、大きな戦略的・戦術的挑戦が前方に立ちはだかっている。この新党とチャベス自身の関係は、正確にどのようなものであるべきか。もしチャベスや彼と密接な関係にある人びとが、第五共和国運動をボリバール主義革命の真の大衆政党(潮流の権利などを伴った)として再出発させるという外見上のプランに成功するとすれば、PTRS(社会主義革命のための労働者党)は、将来そこに参加すべきか、それともその外部にいるべきか。最も根本的なことは、現在の革命的プロセスの中に労働者権力と社会主義的民主主義を築き上げようとするためには、どのような戦略的ビジョンが必要なのかということである。
 この新党をめざす運動は巨大な責任を有している。そして遠くからこのプロセスを追ってきたわれわれも、われわれのなしうるあらゆる方法で彼らを支援する大きな責任を有している。
 土曜日の出発集会には、アルゼンチンのMSTとMAS、アメリカのISO(国際社会主義組織、英SWP系の組織)、フランスのLCR(革命的共産主義者同盟)、第四インターナショナルの代表からの国際的連帯あいさつがあった。ブラジルのMES/PSol(社会主義と自由党)、コロンビアのPST(社会主義労働者党)は文書でのあいさつを送った。
 (筆者のスチュワート・パイバーはベネズエラならびにラテンアメリカ諸国の「インターナショナルビューポイント」通信員)。
(「インターナショナルビューポイント」電子版7――8月号)



インドネシア

人権活動家の毒殺 ムニルに正義を!
軍隊の行った住民虐殺、航空会社の汚職事件を調査・追及

過去に三度も狙われる


 民主化闘争の重要な人物であったムニルは、二〇〇四年九月に砒素毒物で殺害された。この殺人事件の主犯と目された容疑者は、ガルーダ・インドネシア航空のパイロットだったが、すべての事実はこれが秘密警察の仕業であることを示している。
 
 ムニル・タリブは、二〇〇四年九月七日、ガルーダ・インドネシア航空でオランダに向かう途中、砒素毒物を飲まされて死亡した。三十八歳だった。調査によれば、彼は以前から今回の事件以外にも三回の暗殺未遂事件のターゲットになっていた。自動車事故の見せかけ、黒魔術の呪い、そして失敗に終わった一回目の毒殺未遂である。調査によればそれらには国家情報局(BIN)の高官が関与している。
 ムニル・サイド・タリブは、三十年以上(一九六五年〜九八年)にわたる世界で有数の血に飢えた反共主義的な独裁体制の下で、人権のために闘ってきた中心人物だった。スハルト体制が崩壊するやただちに、彼は「コパスス」特殊部隊が行った活動家への誘拐・拷問の真実を発表することに献身した。ムニルは「行方不明者と暴力の犠牲者のための委員会」(コントラス)を創立し、軍部隊によって「消去」(誘拐と暗殺)された民主化活動家の家族を支援した。彼はまた、インドネシア人権モニター代表のポストについた。
 軍のエリート部隊である「コパスス」は、東ティモールやアチェでのテロ支配の責任者である。スハルト独裁の打倒後も、インドネシア国軍は東ティモールで、とりわけ一九九九年の独立住民投票に敵対するために、数多くの犯罪に関与し続けた。再びムニルは、参謀総長ウィラント将軍などの軍高官の責任を明るみに出す上できわめて重要な役割を果たした。「コパスス」は、「ラクサル・ジハード」や「ジェマー・イスラミア」といったイスラム主義グループ(後者は二〇〇二年のバリ島爆弾事件の実行犯として告訴されている)ともつながりを持っていた。
 ムニルは国家情報局(BIN)を公然と批判した。彼の同僚によれば、ムニルの死の当時、彼はガルーダ航空にかかわる汚職事件を調査していた。彼は自分の身に危険が及んでいることを知っていた(注1)。

実行犯の背後に国家情報局

 この殺人事件を調べる調査チーム(TPF、真相究明チーム)が大統領命令で設置された。その代表は警察のマルスディ准将だった。
 第一の殺人容疑者はガルーダ航空機のパイロットのポリーチャルプス・プリヤントだった。彼がアムステルダムへのフライトに乗っていたことは釈明されておらず、彼がムニルにファーストクラスの座席を与えたとされている。彼の共犯者は、食事を提供する担当だった二人の乗務員だったとされている。プリヤントが単独で行動したのではないことは明白であろう。この殺人事件の背後にいたのは誰なのか。BINの副代表であるムクディ・プルウォプランジョノ少将の事務所とパイロットのプリヤントの電話との間で二十六回の通話がやり取りされている(注2)。
 調査チームは、情報局のムクディ・プルウォプランジョノ少将と旧独裁体制の手先だったマクムード・ヘンドロプリヨノからの協力を完全に拒否されるという事態に直面した(注3)。プリヤントの側は、自分は情報局にリクルートされたのだと述べており、それはBINの責任を指摘するものとなっている。
 ムニルの妻スティワティにとっては、彼女の夫の殺害が政治的性格を持っていることには何の疑いもない。彼女はインドネシアの新聞「テンポ」に掲載された最近のインタビューでそれを再確認している。
 「私の夫は、人権のための闘いによる政治的暗殺の犠牲者です。この殺害は計画的陰謀の結果です。たった一人の人間によってこの暗殺が計画されたなどというのは不可能だからです……。調査は数カ月にわたって行われましたが、警察が第一容疑者と他の二人(スチュワードとホステス)の名を明らかにしたのは三月十八日になってからです。私は彼らが単なる手下であって、犯罪の背後にいる人間はいまだに平穏無事でいると確信しています。事件の最近の展開は、第一容疑者、とりわけガルーダ(インドネシアの国営航空会社)の責任者とインドネシアの国家情報局が殺人事件の筋書きに関与していることを確証しています」。
 「表現の自由、人権、民主主義が尊重されていると言われている時に、ムニルは暗殺されました。しかしこの殺人事件は、いまだにテロが私たちの周囲を脅かしていることを思い起こさせます」(注4)。
 国家情報局は、調査官への協力を拒否することで時間を稼いでいた。二〇〇五年六月二十三日に真相究明チームの活動期限が切れるからである。六月二十一日、アジア人権委員会(AHRC)は、調査の継続が認められるべきであり、その独立性が確保されるべきだというアピールを発した。

一向に進まない調査

 委員会は、「ムニルの妻、人権組織コントラスのスタッフ、そしてムニルと密接に連携して活動してきた他の人権活動家が、さまざまな死の脅しを受け、安全への恐れを生み出している」(注5)以上、ムニルの家族や民主的活動家と証人たちは効果的に防衛されるべきだとも要求している。
 大統領は、TPF(真相究明チーム)の結論と勧告にすみやかに対処する責任を負っている。しかし、調査官がスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領に報告を提出して二十日たっても、インドネシア当局はいまだ対応する措置をとっていない。当局は、記者会見でこの件について質問されて、パイロットのプリヤントがすみやかに裁判にかけられると発表しただけで、基本的問題をはぐらかしてしまった(注6)。
 これでは不十分だ。調査活動の完遂が認められなければならない。ムニルに正義を!

(注1)ジェームス・バロウスキの論文「スパイ情報部門が活動家の暗殺に関与」(豪「グリーン・レフト・ウイークリー」05年6月22日号)参照。
(注2)ティモシー・メイプス、ププサ・マンダニ「活動家の死はジャカルタのスパイとつながり」(「ウォールストリート・ジャーナル」05年6月27日号)。
(注3)ムクディ・プルウォプランジョノ少将は、特殊部隊「コパスス」の前司令官だったが、ムニルを先頭として一九九八年に行われた「行方不明者」調査によって、そのポストを失った。マクムード・ヘンドロプリヨノは、一九九六年に、軍の支援の下で独裁体制の手先たちがメガワティ・スカルノプトリのインドネシア民主党の事務所を襲撃した時のジャカルタの国軍司令官だった。この襲撃事件によって少なくとも五十人が殺され、それは首都の三日間にわたる暴動をもたらした。皮肉なことに、現在ヘンドロプリヨノはメガワティと密接な関係にある。
(注4)「クーリエ・アンテルナシオナル」05年5月19−25日号にフランス語で掲載されたインタビュー。
(注5)アジア人権委員会の緊急アピール。05年6月21日。
(注6)「コンパス」05年7月14日付の記事参照。ジェームス・バロウスキの翻訳が「インドレフト・ニュースサービス」05年7月16日号に掲載。

(「インターナショナルビューポイント」電子版05年7−8月号) 
 


もどる

Back