| 1047人の解雇撤回を かけはし2005.9.12号 |
| 18年間の闘いを凝縮し納得のいく解決を必ずもぎ取る |
【東京東部】九月二日、東京江東総合区民センターで「勝つぞ鉄建公団訴訟! JR福知山線事故糾弾! 9・2東部地区総決起集会」が国鉄闘争東部支援共闘会議主催で開催され、二百七十四人が参加した。
最初に、「2000年7・1国労臨時大会」のビデオが上映された。「JRに責任なし、訴訟を取り下げる」という4党合意を押しつけ、闘争を破壊した国労中央に対して、国労争議団・家族が一体となって臨時大会を休会に追い込んだ闘いが写し出された。今日の鉄建公団訴訟を独自に闘う経緯を知るうえで、貴重な記録であった。
田辺義人さん(東部支援共闘・共同代表)が「JR錦糸町駅頭での宣伝行動などを行ってきた。さらに、キチッと支援行動を起こそうということで今日の集会を開催することになった。十九年間の闘いの納得のいく解決を目指さなければならない。九月十五日には、必ず勝利判決を勝ち取ろう」と主催者あいさつを行った。
最初に、鉄建公団訴訟原告団家族の藤保美年子さん(音威子府闘争団家族)がせつせつとアピールした。
「ビデオであったように国労本部は4党合意が行き詰まると、争議団への生活資金援助を凍結し、二十二人の組合員の組合員資格を凍結する処分まで行ってきた。こうした厳しい状況の中でも、皆さんの署名や御支援に勇気づけられた」。
「分割・民営化によって安心して働ける職場が奪われ、JR尼崎の大事故が起こされた。事故は尼崎だけでなく、北海道などでもしょっちゅう起きている。命を奪う鉄道に変わってしまった」。
「二十人の職場で私の夫だけが解雇された。ダメな人間とされたようで精神的に追いつめられた。解雇された夫だけではなく、十歳と七歳の二人の娘がいる私たち家族も悲しくて、つらくて、苦悩の毎日だった。『正義は勝つ。父親を恥じない』と励ましあってがんばり続けてきた。十八年間は二度と取り戻すことはできないだろうが、勝利判決を勝ち取って、闘争団がひとつになって、勝利的解決にむけてがんばっていきたい」。
人生をかけた負け
られない闘いだ!
続いて、鎌田慧さんが「国鉄分割民営化の位置と鉄建公団訴訟の意義」と題して講演を行った(別掲)。
訴訟各原告団の高石正博さん(動労千葉争議団鉄道運輸機構訴訟原告団)、川端一男さん(国労鉄道運輸機構訴訟原告団)、渡部雅子さん(全動労争議団鉄道運輸機構訴訟原告団家族)、酒井直昭さん(鉄建公団訴訟原告団)が決意表明を行った。
高石さんは「動労千葉は三カ月の安全闘争の結果、ATS―Pがついていても、安全に機能していない不備を補うために、時速一〇〇キロの所を四五キロに下げさせた」と報告し、争議団としても他の争議団とともに闘うと表明した。川端さんは「国労の九百六十六人の解雇者の内、三十人がすでに死んだ。政府は内部から国労をつぶそうとさまざまな攻撃をしてきた。こうしたことをはねかえすために、上京して訴訟に打ってでた。原告団は九人から二十人になった。9・15判決は人生を決めるものだ。勝利判決を機に一気に解決させる」と表明した。
渡部さんは「全動労争議団は平均年令が五十九歳を過ぎた。夫は解雇されて以来、北海道から上京したままだ。私と父親が東京にきた。勝って北海道に帰りたい」と訴えた。
最後に、酒井さんは「国労中央本部の吉田書記長は、五年前と同じように、政治解決の流れを止めるべきではないと表明した。五年間で何かが変わったのだろうか。一切そうしたものはない。二十二人の組合員への権利停止処分を一年を残して解除した。これは鉄建公団訴訟の判決を気にしているのかしれない。第一次原告団は二百八十三人から二百九十五人に増えた。勝利判決しかない。負けるはずがない。裁判を闘って本当によかった。たとえ不当判決が出ても、闘争を終わらせないかぎり、人生は終わらない。最後まで闘いたい。10月14日日比谷野音集会、16日団結祭り(江東区亀戸)にもぜひ参加してほしい」と訴えた。
佐保誠さん(東部支援共闘事務局長)の行動提起、岸本町雄さん(同共同代表)の団結がんばろうで、集会を締めくくった。9・15判決公判に集まろう。 (M)
b9月15日(木)鉄建公団訴訟東京地裁判決/地裁前チラシまき 午前8時30分〜13時/裁判傍聴 12時45分/東京地裁103号法廷 判決 午後1時30分、「判決後地裁前ミニ報告」/判決報告集会 午後6時30分〜文京区民センター(都営地下鉄春日駅下車)
鎌田慧さんの講演から
労働者階級として社会をどう変えるのか
国鉄分割・民営化反対の闘いは国鉄の労働者だけの闘いではなかった。日本の民主主義を守るかどうかをかけた闘いであった。その意味で、1047人の被解雇者は日本の民主主義運動の後退の犠牲者だ。
私はかつて人材活用センターを取材したことがある。あそこに送られ、仕事が与えられない。こんな屈辱的なことはない。まるで琉球処分と同じだ。民間大企業が大もうけするために民営化したのだ。
連合は何もしなかった。国労は孤立させられて、解雇撤回できなかった。今、公務員に対する攻撃が強まっている。既得権が裸にされた。大阪市では、現業の民営化、外部委託が徹底的に行われている。
労働者の抵抗がないために、社会が悪化している。JCO原発事故、教育基本法・憲法改悪、自衛隊のイラク派兵などだ。労働者は無権利状態に置かれている。不当労働行為が当たり前になっている。
そんな中でも、国労争議団を十八年間支えてきて支援集会ができている。希望だ。JR日本・尼崎事故は労組の責任が明らかになった。労組が運転士の労働者を守れなかった。JR西日本では、労働者への苛酷な支配があった。運転士が運転で一分遅れただけでボーナスで五万円も減らされた。JR西日本は恐怖政治をやってきた。労組は分割・民営化に反対しなかった。
JR西日本は事故後、安全性向上計画を発表した。そこには「安全性を高めよう」とある。安全は一〇〇%でなければならない。自分たちの責任について、まったく考えていない。「至らなかった」ではなく、「しなかった」のである。分割・民営化を推進した井出、松田、葛西は民営化後、一番もうける東、西、そして東海のJRの社長や会長になった。彼らは三悪人だ。
今日の社会のひどいありようを作っているのはマスコミの弱体化がある。朝日新聞は社説で郵政民営化を推進するとしている。国益には勝てない。かつて、戦争を遂行するために国民を動員した同じ役割をしている。
「人間の命、自由、平和」をどう実現するか、労働者階級として、どう社会を変えていくのか、そうした視点に立つ必要がある。
(発言要旨、文責編集部)
敵の攻撃も想定外だったが味方の暖かい反応も想定外
中路秀夫(元管制塔被告)
損害賠償の請求書も十年近く来ないし、もうすぐ時効だから、国はなかったこととして処理する。たとえ差し押さえの強制執行があるとしてももう一度請求書が来るか、何か前触れがある。時効を阻止するために何らかの手を打たれたとしても、現金で支払うことで交渉すれば妥協の余地はある。すべてはずれ。国は二十七年前の恨みを忘れてはいなかった。勤務先への突然の通知と給料の差し押さえ。最悪の手段に打って出た。現金で払ってもびた一文まけない。
法的対抗手段はなし。払わない方法は職場を転々と変え一生逃げ回るしかないという。七月の対策会議で一億円カンパが決まった。十六人の元管制塔被告を損害賠償差し押さえ強制執行から解放する、として決めた。
しかし、依るべき組織に力はなく、一億円カンパ運動に期待が持てるとも思えなかった。割り振りにもとづく集金、この会議の気分はこのようなものであった。カンパ運動が始まった。反応はよかった。職場でのカンパもすぐ目標に近づいた。八月二十七日に三鷹で打ち合わせをし、かつてともに三多摩地区で活動した仲間たちにカンパの要請を送ることにした。すでに集まっている分をあわせると目標はクリアできる見通しだ、とのこと。敵の攻撃も想定外だが、味方の反応も想定外だった。あたたかいカンパを一億円も国に払うのは、ものすごく悔しい。この悔しさのお返しは必ずしたいと思う。
皆様へ感謝。そこで獄中12年のこぼれ話の一端を
和多田粂夫(元管制塔被告)
地域生活移行支援
事業が抱える問題
管制塔元被告の和多田です。
私どものアピールに応えて損賠強制執行を許さない戦いに取り組んで頂いている皆様に、心からお礼申し上げます。また、基金運動のために此のサイトを運営して頂いている皆様にも深甚なる感謝の気持ちを表明致します。
今回は、私の獄中でのこぼれ話を送信することで、皆様への感謝の気持ちに変えさせていただきます。今後とも皆様のご協力を切にお願い申し上げます。
指名手配のTV
を見てビックリ
私は、指名手配されてから一年ほど地下生活を送っておりました。お世話になった先で、事情をご存じないお年寄りとテレビを見ていると画面に『指名手配』と字幕入りで私の写真が大きく出、お年寄りが私の顔と画面とを見比べてビックリされる場面もありました。「実は私です。お世話になっております」とあらためてご挨拶をした次第でした。
いつまでも、潜っていても仕方ないから出頭することにしたのですが、警察署に自首するというのも不本意でしたので、管制塔裁判の法廷で登場することにしました。傍聴席に座ってタイミングを狙っていたのですが、大勢の私服は思いも寄らぬことで気付くことはありませんでした。
「裁判長の指揮に異議あり、オレは指名手配されている和多田だ」と法廷の柵を越えた時の裁判官と警備員の驚きは、大変なものでハトが豆鉄砲をくらったようでした。
穴あけはベテラ
ンになりました
私は、府中刑務所で約八年間過ごしました。中路君と一緒でした。
中路君は、府中刑務所内の印刷工場に行っていて、この獄中での経験を生かして今印刷会社で活躍しておりますが、そのおかげで私は、八年間時計のバンドに穴を開ける仕事をさせられておりました。おかげで、ボール盤で穴を開ける仕事にかけてはベテランとなり、発注先の会社の指導員から、「和多田さん、出所後はうちの会社に来てください」といわれるようになりました。
リレー競争のヒー
ローだった中路君
刑務所は、年に一回運動会をします。この時、工場対抗リレーがあって、中路君は、アンカーで出場、ごぼう抜きをしてゴールし、いつも英雄になっていました。空気をかきむしるようなフォームで、決してスマートな走りではないのですが、バネがいいのか速いのです。『共犯者』の心理というものでしょうか、中路君のごぼう抜きを見ていて、胸のすく気分になったものです。
管制塔占拠の際も、マンホールから出て管制塔に向って突入する場面で、後陣を命ぜられていたにもかかわらず中川君などを追い抜いて走ってしまったのですから、中路君の足の速いのは天性のものでしょう。
ですから、中路君には夜間独居や工場でいいところをとられた分、運動会では痛快な思いをさせてもらいました。
今回はこれにて失礼致します。 05年8月27日
(管制塔被告連帯基金サイトより、一部省略)
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