| 自民党新憲法「要項案」を批判する かけはし2005.8.1号 |
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グローバル戦争に参戦し民主主義と生存権を破壊する「国家改造」 |
「保守色を薄めた」のか?
七月七日、自民党新憲法起草委員会(森喜朗委員長)は、自民党改憲案の「要綱案」を発表した。四月に出された小委員会要綱案の中で、両論併記や結論が先送りされた部分を中心に、首相経験者や学識経験者らによって形成された「起草委員会諮問会議」の議論を踏まえて、「おおむね党内の合意が得られる線」でまとめられたものとされている。
同起草委事務局次長の舛添洋一は、この要綱案について「単なる理念遊びではなく、改革実現のために妥協した」と述べており、改憲発議に必要な衆参両院議員の三分の二の多数を得るために、公明党や民主党の合意取り付けを重視したことを示唆している。
その一つの例として、四月の小委員会要綱案の中では「国民の責務」という概念が、昨年十一月の「自民党憲法改正草案大綱(たたき台)」を引き継いで導入され、たとえば「国防の責務」という形で盛り込まれていたのに対し、今回の「要綱案」では「さらに議論すべき項目」へと格下げされたことが挙げられる。しかし、それは「保守色薄め現実路線」(朝日新聞7月8日)と評価されるようなしろものてはない。
今回の新憲法「要綱案」は、新自由主義グローバリゼーションの推進と「戦争国家」体制構築に対応した、国家・社会の全面的改造を正面から打ち出した、きわめて攻撃的な性格を特徴としている。以下、その内容に即して検討したい。
ナショナリズムの謳歌
まず「前文」である。同項の「1・前文作成の指針」では「現行憲法に欠けている日本の国土、自然、歴史、文化など、国の生成発展についての記述を加え、国民が誇り得る前文とする」「『なぜ今、新憲法を制定するのか』という意義を前文で明らかにする。戦後六十年の時代の進展に応じて、日本史上初めて国民自ら主体的に憲法を定めることを宣言する」としている。
ここでは「国民としての日本への誇り」が、「史上初めて国民自ら主体的に定める憲法」という、それ自身デタラメ極まる言辞と結びつけられて、ナショナリズムが宣揚されている。今回の憲法改悪を「主体的」に進めているのは決して「国民」ではない。何よりもアメリカ帝国主義の世界戦略を能動的に受け入れた日本の保守政治家やメディアが、憲法改悪を主導しているという現実は、一九八〇年代以後の一連の政治過程を詳細に見るまでもなく明らかではないか。しかもその内容は、国家権力への制限規範という「近代的立憲主義」の本旨を破壊し、「主権者」としての「国民」の権利を権力の側が制限するという著しい転倒を特徴としているのだ。
次に「前文に盛り込むべき要素」を見よう。@「国の生成」では「日本国民が多様な文化を受容し高い独自の文化を形成したこと。我々は多元的な価値を認め、和の精神をもって国の繁栄をはかり、国民統合の象徴たる天皇と共に歴史を刻んできたこと」「日本国民が先の大戦など幾多の試練、苦難を克服し、力強く国を発展させてきたこと」とある。
日本が「天皇の国」であることのこれ以上ないほどの露骨な表明である。そしてこの「天皇と共に歴史を刻んできた」日本にとっては、「先の大戦」は「試練、苦難を克服し、力強く国を発展させてきた」`栄光の物語aとしてのみ位置づけられる。そこには侵略戦争と植民地支配に対する「反省と謝罪」とは正反対の歴史観が描かれている。まさしく現憲法の「完全な清算」と、アジアに対する侵略と植民地支配の歴史の完全な正当化という天皇制国家主義に彩られた新憲法の宣言なのだ。
同じく「前文に盛り込むべき要素」のB「国の目標」の項は、「外に向けては、国際協調を旨とし、積極的に世界の平和と諸国民の幸福に貢献する。地球上いずこにおいても圧政や人権侵害を排除するため不断の努力を怠らない」としている。この文章は「われらは、平和を維持し、宣誓と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ」という現行憲法の「前文」と一見類似しているかのようである。しかし、それが同要綱案の「安全保障及び非常事態」の項の「自衛のために自衛軍を保持する」「自衛隊は国際の平和と安全に寄与することができる」という項と結びついた時、アメリカ帝国主義が「自由と民主主義」「圧政の除去」の名目で進めているグローバルな先制的侵略戦争に「積極的」に参加するという意味へと転化する。
「安全保障及び非常事態」の項では、「集団的自衛権」容認の明文化は避けられている。しかし、グローバル戦争への参戦を積極的にうたいあげようとする新憲法要綱案の文脈において、言わずもがなの前提であることは明白である。
天皇の「公的行為」明文化
次に「天皇」の項である。要綱案では「現行の象徴天皇とする」として、党内の一部に根強く存在する「元首化」論を否定している。しかし同時に、現憲法の下でも実際上「皇室外交」の正当化のために使われている「公的行為」という概念を明文化していることに注意しなければならない。要綱案は「憲法に定める『国事行為』と私人としての『私的行為』以外の行為として『象徴としての行為(公的行為)』が幅広く存在することに留意する」としている。
明らかに、現行憲法では「国事行為」の範疇に入らない違憲行為である外国訪問(皇室外交)、「国民体育大会」「戦没者追悼式」などへの出席、国会での「おことば」などがすべて「公的行為」という形での政治行為として憲法上の位置を占め、「象徴天皇」のままで「日本国と日本国民」を「代表」するものとしての事実上の元首化が確立されることになるだろう。
「安全保障及び非常事態」の項については、「前文」との関係で紹介した。ここでは「司法」の項に、「軍事裁判所」を「第9条改正に伴い設置する」としていることだけ特記する。すなわち軍事に関わる裁判を現行司法制度から独立して設置し、軍事の問題を司法の面でも「聖域」とする「戦争国家」の体系が主張されていることに注意すべきである。
「公共」とはすなわち国家
「国民の権利及び義務」は、自民党改憲案の反民主主義的・強権的国家主義の性格が如実に露呈している柱の一つである。まず「1 権利と義務規定について」では「『個人の権利には義務が伴い、自由には責任が当然伴う』ことを言及する」としている。これが本質的に言って、基本的人権とさまざまな自由権の根本的否定であることは明瞭である。
言うまでもなく、基本的人権は個人にとっての生得の権利であって、なにものもこれを侵害することはできない。自由とは何よりも「国家権力」からの自由である。しかしここで語られる「義務」や「責任」とは、国家への「義務」と国家への「責任」である。つまり「義務」と「責任」の名において国家権力が人権と自由を恣意的に侵害することをうたっているのが、この「要綱案」の根本思想なのだ。
その点は「2 公共の福祉」に関して、「@現行の『公共の福祉』の概念はあいまいである。個人の権利を相互に調整する概念として、または生活共同体として、国家の安全と社会秩序を維持する概念として明確に記述する。A『公共の福祉』の概念をより明確にするため、『公益及び公共の秩序』などの文言に置き換える」としていることで、「要綱案」の狙いはいっそう明確になる。
つまり「公共」とは、「国家」が独占するものなのであって、国家の存立を脅かすような主張は認められないという宣言なのである。なにが「公益及び公共の秩序」かを判断し、防衛する主体は万能であるべき国家権力となる。
次に「信教の自由」についてである。ここでは「政教分離原則は維持すべきだが、一定の宗教的活動に国や地方自治体が参加することは、社会的儀礼や習俗的・文化的行事の範囲内であれば許容されるものとする」としている。ここではわざわざ*印を付して「国などが参加する一定の宗教的活動としては、地鎮祭への関与や公金による玉串料支出、公務員等の殉職に伴う葬儀等への公金の支出などが考えられる」としている。
この「政教分離原則」の事実上の緩和ないし否定については、言うまでもなく靖国神社への首相等の参拝を正当化することを狙ったものだが、同時に国の「宗教的活動」として想定されているものがいずれも神道関係の行事であることに注意すべきである。これは神道のみに関して「社会的儀礼」「習俗的・文化的行事」として特別化していくことにつながる。また「公務員等の殉職に伴う葬儀等への公金の支出」とは、海外での戦死者を「国葬」として遇する規定に通じるものとなるだろう。
ここでも「戦争国家」化と死者の「慰霊」を通じた天皇制ないしは神道行事との結合という論理が浮上している。
また「国民の権利及び義務」の項の最後に「(注)更に議論すべき項目」として「環境権など追加すべき新しい権利」とセットで「家庭等を保護する責務など追加すべき新しい責務」が書かれていることを見逃すことはできない。「家庭保護の責務」とは、「社会秩序維持」の末端の単位としての「家庭」の価値を称揚し、現行憲法二四条の「家族生活における個人の尊重と両性の平等」を改悪する意図をふくんだものであることは言うまでもない。
首相への執行権力集中
「内閣」の項では、「1 行政権の主体等について」で「『衆議院の解散権』、『自衛隊の指揮権』、『行政各部の指揮監督・総合調整権』の三つを内閣総理大臣個人に専属させる」としていることに注目すべきである。この点は、現行憲法第六五条の「行政権は内閣に属する」との規定との関係で、総理大臣に軍事をはじめとした強大な権限を集中させることを可能にさせる。
総理大臣への権力の集中=大統領的首相の地位の確立は、戦争指揮=「有事」との関係においてのみイメージすることはできない。政治学者の渡辺治は首相権限の強化について「新自由主義的改革を効率的に推進するための国家体制づくり」(『憲法改正 軍事大国化・構造改革から改憲へ』 旬報社)と規定している。まさに新自由主義的グローバリゼーションの論理が、民主主義を破壊した強大な執行権力の確立をともなうものであることに、われわれは注意しなければならないし、それは「戦争国家」づくりにとっても整合的なものなのである。
この論理は「地方自治」の項においても貫徹する。同項では「5・地方自治体の種類」として「@地方自治体は、基礎自治体及びこれを包括し、補完する広域自治体とする」としている。「広域自治体」概念の導入は、規制緩和、効率的行政という新自由主義的「構造改革」に適合的なものであり、地域住民と密着した公共サービス、住民自治の原則を解体し、市場と経営の論理を優先させるものとならざるをえない。
それは現行憲法九五条「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会はこれを制定することができない」を廃止する、という「要綱案」の主張にも貫かれることになる。
改憲手続きの大幅緩和
最後に「改正及び最高法規」の項で改憲手続きの簡略化を「要綱案」は主張している。現行憲法では「憲法改正」の発議を「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」と定めているのを、「要綱案」では「各議院の総議院の過半数の賛成」に緩和している。「過半数の賛成」規定は、与党はいつでも改憲を発議できるということを意味する。また「国民投票における過半数の賛成」条項を「有効投票の過半数の賛成」と厳密化することによって、「国民投票における改憲承認」のハードルを可能なかぎり低くしていることも、そうした「いつでも改憲可能」な水路を切り開くものとなるだろう。
「有効投票の過半数の賛成」に厳密化することによって、どれほど投票率が低かろうと、無効票がどれほど多かろうと「国民投票による承認」として正当化されることになるからである。
以上見てきたとおり、自民党新憲法要綱案は、決して「保守色を薄め」た「現実路線」と言えるものではない。そのように規定すること自身、マスメディアが憲法改悪の流れに迎合しているものだと言わざるをえない。
自民党は、この「要綱案」にもとづいた条文化作業に取り組み、九月中の完成を目指すとしている。もちろんそれが容易に予定通り進行するとは言えない。第一に「条文化」するためには、「要綱案」は余りにも不明確な点を残したままであり、第二に、郵政民営化法案をめぐる自民党の分裂的状況は、スムーズな「条文化」の作業をきわめて困難にさせているからである。郵政民営化法案が参院で否決され、小泉内閣が解散に打ってでるようになった場合、この新憲法「要綱案」はまたも一枚の紙切れと化してしまう可能性が強いからである。
そしてかりにこの「新憲法」案が日の目を見たとしても、公明、民主との調整は難航せざるをえないだろう。
しかしわれわれは、今回の「要綱案」に表現された支配階級の改憲攻撃について過小評価したり、ゆったりと構えたりすることは絶対にできない。資本のために新自由主義的な「弱肉強食」競争を推進して、労働者・市民の権利、自由、福祉を破壊し、グローバル戦争に参戦する体制を築き上げる改憲攻撃の戦略的方向性は、明確に打ち出された。
「九条改悪阻止」を焦点に、さまざまな側面からの戦争とグローバリゼーションに対する抵抗の闘いを掘り起こし、グローバルな「平和・人権・公正・民主主義」のための行動を積み重ねることを通じて、確実に到来する改憲阻止の政治決戦のための陣形を作り上げよう。
秋の国会で「国会法」改悪案、「国民投票法案」を成立させない闘いは、そのための第一歩となる。
(7月23日 平井純一)
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