| オランダ、欧州憲法│新自由主義的欧州への反対投票 かけはし2005.6.27号 |
投票者の六二%が反対
欧州憲法についてのオランダ国民投票の結果は、新自由主義プロジェクトに反対する明確な立場を示している。それは決して欧州、欧州の協力・統合ないしは連合への反対投票ではなく、この憲法が確立しようとした新自由主義的欧州への反対投票なのである。この事実は、反対投票がいささかのあいまいさもなく左翼や進歩派によるものであったということを意味しない。伝統的、キリスト教的、民族主義的、反移民的感覚もある役割を果たした。しかしそれらがキャンペーンにおいて支配的なものではなかったことは確かである。反対票の勝利は、オランダのグローバル・ジャスティス運動に新たな可能性を切り開いている。
投票率は六三%。有効投票の六二%が欧州憲法への反対票だった。オランダで初めての国民投票の投票率は、さる二〇〇四年の欧州議会選挙の一・五倍だった(オランダでの欧州議会選挙の投票率は四〇%以下だった)。それは二〇〇二年の自治体選挙や二〇〇三年の州選挙の投票率よりも高かった。賛成票が勝利したのは、国の中央と南部の豊かな人びとが住むわずか二十余りの自治体だけであった。それ以外のすべての地域では反対票が多数となった。
賛否を鮮明にした階級的投票
反対票の階級的基盤は明確であった。低学歴の有権者は反対票を投じる傾向にあった。より高学歴の有権者の場合は五一%が反対票を投じた。初等教育しか受けていない有権者の八二%が反対し、中等教育までしか受けていない有権者も七二%が反対した。収入が最高レベルの人びとの間では反対票がギリギリの過半数であったのに対して、所得が中間あるいは中間以下の階層では三分の二が反対に投票した。女性も、男性よりもはるかに目立って反対票を投じる傾向にあった。
最も貧しい自治体である東フローニンゲンのレインデルランドでは八四・六%が反対だった。より強固な反対票があった自治体は一つだけである。それは九一・六%が反対したプロテスタントの漁村の中核地域であるウルクだった。賛成票が多数だったのは、中央と南部の幾つかの最も豊かな自治体だけだった。賛成票が最も多かったのは六二・七%が賛成したローゼンダール(訳注:ベルギーとの国境の都市)である。諸都市の中でもその傾向は明らかであった。その地区が豊かであればあるほど多くの人びとが賛成票を投じ、貧しければ貧しいほど多くの人びとが反対にまわった。
社会民主主義政党である労働党の支持者の間では五五%が反対した。緑・左翼党の支持者の間では五二%というギリギリ過半数が賛成した。きわめて親EU的な自由主義派のD66党の支持者の中でも、四五%が反対投票した。与党のキリスト教民主党の支持者だけが八〇%という大多数で賛成に投票した。右翼自由主義派のVVD党(自由民主党)支持者の約四〇%は反対票を投じた。
それとは対照的に反対を呼びかけた諸政党の支持者の中では、賛成票を投じた人びとの数はきわめて限られたものだった。反対派の中では、正統派プロテスタントであるキリスト教徒連合の支持者のみが、一〇%をわずかに超える賛成票を投じた。
反エスタブリッシュメント
与党であるキリスト教民主党、自由主義派のVVDとD66といった伝統的政党に加えて、野党である労働党や緑・左翼も賛成を呼びかけた――これら諸党で議会の八五%を占める――ということに留意するならば、この選挙結果はいっそう注目すべきである。憲法に反対した国会議員は、社会党(元毛沢東主義派で、ここ数年は社会民主主義よりも左翼に位置する最大の政治勢力に成長した。国会の百五十議席中八議席を有する)、二つの小さな正統派プロテスタント党、右派ポピュリストのピム・ファルタイン党の残党、VVDから分裂した無所属の右派国会議員であるギールト・ヴィルダースだけだった。
さらに市民社会組織のほとんどすべても欧州憲法を支持した。いずれにせよ、労働組合指導部、最大の環境組織、中小企業経営者協会、アムネスティ・インターナショナル、グリーンピース、さらに自動車オーナー協会や開発NGOさえもが賛成したのである。反対したのはきわめて少数の環境保護グループや動物権利保護グループのみであった。
この選挙結果は、市民と政治家との間の不気味なギャップだけではなく、ほとんどすべての大きな社会組織の中での垂直的な分岐をも明るみに出したのである。彼らの指導部は憲法に賛成したが、そのメンバーの多くは拒否したのだ。
協議と合意の「干拓地文化」
この情勢を理解するためには、ここ数年間のオランダにおける政治的展開を振り返る必要がある。第二次大戦以来オランダの政府は伝統的に、キリスト教民主党を中心にした、自由主義派のVVDか労働党との連立政権だった。キリスト教民主党の政権掌握は、一九九四年に終わりをつげた。この年の選挙でキリスト教民主党は大敗北を喫し、その結果として自由主義派と労働党の連合が政権の座についた。
この連合は、労働組合の前指導者であるヴィム・コックの指導の下で、八年間にわたって大規模な新自由主義的改革を遂行した。この「紫」の時期(社会民主主義の赤と自由主義の青の混合で、そのように言われた)の一つの結果は、広範囲な脱政治化であった。
主要政党間の政治的相違、とりわけ伝統的に対立していた労働党とVVDとの間の相違は、ほとんど分からないほどになってしまった。オランダでつねに強力だった協議と合意の文化(「干拓地モデル」)は、息苦しい毛布のように政治的情景全体を包み込んだ。
右翼ポピュリストのピム・ファルタイン党の前進によって、この毛布は引き剥がされた。多文化主義とイスラム(ファルタインは、イスラムを遅れた宗教として描きだした)への寛容に反対するフォルタインの十字軍は、数年間にわたって経済的立場を改善し、いまや政治的影響力を主張しはじめた中流階級を結集した。
しかしファルタインが作りだした突破口は、福祉国家の解体と経済の自由化によって安全の感覚を掘り崩されていった低学歴の白人のオランダ人に対して彼が訴えたことによるものであった。こうしたグループは伝統的に労働党の基盤であったのだが、いまや労働党は左派の中で完全に信頼を失った。
二〇〇二年の選挙直前にファルタインが暗殺されるという劇的な事件が起きた後、ファルタインの反乱は、ヤン・ピーター・バルケネンデ(現首相)の率いるキリスト教民主党の得票の増大の中に部分的に表現された。バルケネンデは自由主義派のVVD、ならびに当初はファルタインのLPF党の残党とともに内閣を構成した。しかし数カ月後に起こったLPFの不可避的な大失態とスキャンダルによって、ほんの少しだけ右派色の薄い自由主義派のD66に連立相手を取り替えた。
現在もなお政権についているバルケネンデ内閣は、生きた記憶の中ではオランダにおいて最も右翼的内閣であることに疑いの余地はない。内閣に参加している各党はさらに右の立場に移行した。そしてそれは野党についてもあてはまる。全般的な想定からすれば、ファルタインは、闘い取るべき接近可能なすべての政治的足場が右の側に据えられているという政治的状況を後に残したのである(訳注:ピム・ファルタイン党の躍進と党首ピム・ファルタインの暗殺がもたらした政治状況については本紙02年7月15日号「オランダ――極右政党指導者暗殺と総選挙」を参照)。
しかし昨年の内閣の年金改悪プランに対する大規模な抵抗は、現実はそれほど単純なものではないことを示した。近年弱体化の著しかった労働組合が大衆動員を強制された。
だれもが驚いたことだが、それはオランダ史上最大の労働組合のデモをもたらし、約五十万人が行動した。この動員の政治的衝撃は、その一カ月後にムスリム過激派が映画制作者テオ・ファン・ゴッホ(画家ゴッホの子孫)を殺害したことによって帳消しとなった。イスラムへの恐怖が、ふたたびオランダ政治の相貌を決定することになったのである。
しかし今や国民投票は、オランダを動かすことができるもう一つの課題、別の政治的アプローチが存在することを示した。
キャンペーンと賛成陣営の分裂
国民投票のキャンペーンが始まる前には、憲法承認は必然的結論のように思われていた。第一回目の世論調査では、ほぼ二〇%が賛成投票の用意があり反対は一〇%にすぎなかった。圧倒的多数の政治組織、社会組織の支持があったことを考えれば、憲法が承認されることにはなんの問題もないように思われた。
国民投票の提案は、三人の中道左派の国会議員から行われた。彼らは一回限り・非拘束の国民投票案を提出した。政府は反対したが、法案は与党の右派自由主義派であるVVDの賛成によって可決された。国民投票への賛成は、一部にはユーロの採用に対する不満の表現だった。しかし、国民投票が呼びかけられた当時は、議会でそれに賛成する多数派は存在しなかったのである。
ユーロへの切り替えとその結果に対する不満は依然として多く、依然として影響を及ぼしている。さまざまな政治家が、さらに多くの不満を封じ込めてしまうよりは人びとが自らの意見を主張できるように国民投票をやった方がいい、と判断した。憲法支持者の大きな誤算は、圧倒的多数の政治組織、社会組織が支持しているのだから住民の中でも支持を獲得できると想定したことである。
実際には、賛成派のキャンペーンは早々と脱線してしまった。憲法の支持者たちは、実際にキャンペーンを開始する以前に、長期間にわたってためらいを見せた。これは万事が賛成陣営内部の分裂と、バルケネンデ政権が前例がないほど不人気であることと関係している。反対陣営が世論調査でリードしはじめた時になって初めて、内閣は積極的役割を演じるよう要請されていることを感じたのである。
彼らはそのキャンペーンを通例になく露骨で威嚇的な方法で行った。彼らは自分たちのキャンペーンを賄うために国家資金を使い、彼らの声明はオランダ人を威嚇して賛成票を投じさせるもののように見えた。
ある閣僚は、この憲法を拒否すれば欧州の平和を危険にさらすと述べた。問題の微妙さにいかなる配慮を払うこともなく、アウシュビッツやスレブレニツァ(訳注:ユーゴスラビア崩壊後のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争においてセルビア人側による住民虐殺が行われた場所)が賛成の論拠として引き合いに出された。オランダ人たちは、もし反対に投票すれば欧州のもの笑いの種になると説教された。賛成が一八%になった時に政府が行ったこうした主張は、反対陣営を助けただけだった。
反対陣営は、四つの構成要素から成っていた。最も極端で危険な立場は、無所属議員で自由主義者のギールト・ヴィルダースによるものである。無所属の国会議員である彼は、新しい極右政治組織の形成に全力をつくし、自らをピム・ファルタインの後継者の立場に置いた。彼のキャンペーンは、トルコのEU加盟と、それによるムスリムによる欧州支配の危険性に焦点をあてたものだった。
プロテスタントの小政党は、きわめて異なった種類のキャンペーンを行った。欧州のユダヤ―キリスト教的伝統に言及しなかった憲法に異論を唱えたことを除けば、彼らは、現時点ではさらなる欧州統合は無意味であり、したがってこの憲法は必要ないと主張する、相対的にきちんとしたキャンペーンを行った。
反対陣営における最強の政治勢力は、疑いなく社会党だった。社会党はメディアでも街頭でもきわめて活発なキャンペーンを行った。彼らのキャンペーンはオランダを救済する必要性を強調するものであった。彼らは、この憲法は欧州を超国家に変えるものであり、オランダを一つの州にしてしまうと主張した。彼らは、国家が文字通り海の中に消えてしまう欧州の地図によって、オランダが地図から消えてしまうことへの懸念を明らかにした。
最後に「欧州憲法反対投票委員会」(GN)があった。GNは、鮮明で進歩的な反対キャンペーンを行った左翼活動家の小さな課題対応型連合体である。GNは、この非民主的で新自由主義的で軍事主義的な欧州へのオルタナティブとして、異なった欧州が可能であり、必要であると訴えた。
GNは小規模で、きわめて少ない手段・資金しかなかったにもかかわらず、キャンペーンで重要な役割を果たし、左翼の反対意見を人びとに知らせることに貢献し、反対陣営の中での右翼民族主義の支配を阻止した。
どの反対意見が勝利したか
もちろん、相互に結びついたあらゆる動機が反対意見の勝利に役割を果たした。政府の政策、政治家一般への広範に共有された反感、ブリュッセル(EU本部)からの恒常的な介入に対する批判、民族的アイデンティティー喪失への恐れ、キリスト教的・民族的動機、賛成陣営の横柄さに対して募るいらだちなどである。どの要素が決定的で、どの反対意見が勝利したのかを判断するのは難しい。
いずれにせよ、ヴィルダースの反トルコ・反ムスリムのキャンペーンが支配的な役割を果たさなかったことは明らかである。また、これは反欧州のキャンペーンではなく、現存する欧州が機能するあり方に反対するキャンペーンなのだという点では、きわめて広範な合意が存在している。
公平な図柄は、投票からわずか一週間後になされた調査から抽出できる。この調査は、投票から一週間後に反対派はさらに大きくなり、六四%に達したことを示している。キャンペーンに引き続いたさまざまな政党への支持の変化は、その影響をみごとに描きだしている。
最大の敗北者は右派ではなく労働党であり、世論調査では労働党が持っていた投票前の五十議席は、いまや四十一議席にまで落ち込むことになっている。
現在、労働党支持者の七〇%が憲法に反対投票することになっている。最大の勝利者は社会党であり、世論調査に従えば十三議席から二十一議席へ増大する。プロテスタントのキリスト教徒連合は六議席から九議席に増大し、他方ヴィルダースの党は一議席を失う。さまざまな政治家の人気への質問は、この全般的構図を確認している。
この結果は、全般的には新自由主義的構想へのはっきりとした拒否として解釈することができるし、またとりわけ左翼はキャンペーンで自らの姿を刻み込んだと解釈できる。
勝利の結果が意味するもの
国民投票の結果は、広範囲にわたって諸結果をもたらすだろう。第一に、フランスとオランダでの二重の拒否により、この憲法は死亡宣告を受けたも同然である。第二に、この結果はオランダの政治に重大な影響をもたらすだろう。左翼は、欧州に関する討論で新たなイニシアティブを発揮するチャンスを手に入れている。欧州の将来とオランダの位置について民主主義的な討論を行う全国会議を招集するという「欧州憲法反対投票委員会」(GN)の提案は、即時の反応を呼び起こさなかった。
しかし国会は、欧州についての広範で社会的な討論を行うという社会党の動議を可決した。どのような形で討論が行われるのかはいまだにはっきりしていないが、いずれにせよわれわれは、それがポイントを欠いたおしゃべりの場にならないように、そこから出される提案が国民投票で人びとの承認に託されるよう保証するために闘わなければならないだろう。欧州の将来に関して討論し、共通の立場に到達するように、イニシアティブが欧州レベルで取られることも重要である。
討論の同時性の欠如と時間の窮迫は、国民投票キャンペーンをきわめて一国的なキャンペーンにしてしまった。ここ数カ月のうちに、この憲法への拒否を出発点として共同の国際的イニシアティブを決定する可能性が存在する。欧州社会フォーラムはそれがなされうる一つの場である。
最初の国民投票の経験を受けて、国民投票という手段は他の場合にも使われるだろう。このことは、賛成派と反対派が平等の権利を持ち、政府が自らのキャンペーンのために公共資金を無制限に使用させないようにする、真に民主主義的な国民投票のために闘うことをきわめて重要な課題にしている。
第三に、賛成陣営に属する多くの政党や社会組織の正統性と代表性がいまや疑問に付されている。憲法賛成投票を呼びかけ、何の迷いもなくあらゆる内部討論を回避し、その結果、自らの基盤が欧州憲法に反対であることを見いだしたという事実は、あらゆる真摯な組織にとっての問題となるべきである。多くの組織で疑いなく発生するだろう討論は、批判的な左翼思想にとってもっと多くのスペースを作りだすべきである。
(筆者のヴィレム・ボスはSAP〔社会主義オルタナティブ政治、第四インターナショナル・オランダ支部〕の党員で「欧州憲法反対投票委員会」代表)
(「インターナショナルビューポイント」電子版05年6月号)
「追放された土地に帰還する」
イスラエルの土地占領を終わらせるために闘い続ける
ヤヒャ・アブ・サフィ(PCDRR)へのインタビュー
ルーク・ストバルト、ダビド・サン・マルタン
壁を築き続けるシャロンの狙い
ヤヒャ・アブ・サフィは、バカア・キャンプに住むパレスチナ難民である。バカア・キャンプは、ヨルダンのアンマンの近くにある世界最大のパレスチナ難民キャンプであり、彼はここで生まれた。彼は「帰還の権利防衛のための人民委員会」(PCDRR)のスポークスパーソンである。このインタビューは、二〇〇五年三月に行われた「グローバリゼーション・帝国主義・シオニズムに反対する第三回カイロ会議」の際に、ルーク・ストバルトとダビド・サン・マルタンによって行われた。
――人々はいつからバカア・キャンプに住んでいるのですか。
人々が最初にバカア・キャンプに来たのは、一九四八年の最初の大規模なシオニストによる追放の結果です。最初、人々はヨルダン渓谷西岸に難民キャンプを設けましたが、一九六七年の戦争後に難民は東岸への移動を強いられ、最終的にアンマンの近くにバカア・キャンプを設けました。
シオニストたちは、自分たちの企図の歴史的基礎はヨーロッパにおけるユダヤ人の迫害にあると言っています。パレスチナの人々は現在迫害されており、すでに二回にわたる強制移住の大波の犠牲になっています。すなわち、一九四八年の大量虐殺と追放、そして一九六七年のもうひとつの戦争と追放の波です。シャロンが築いた犯罪的な壁は、母国におけるパレスチナ人の生活を不可能にすることによって第三の移住の波を引き起こすことを狙ったものです。
――人民委員会の主要目的は何ですか。
すべてのパレスチナ難民の帰還の権利を防衛すること、およびパレスチナ外部の難民のあらゆる形の統合に反対することです。われわれはヨルダンの難民社会に、統合プロジェクトの危険性、帰還の権利の重要性、パレスチナ人民の基本的権利について知らせています。最後に、われわれの目標は、帰還の権利を防衛する国際的なアラブの連合を形成することです。
――これらの目的を達成するために何をするのですか。
われわれは現場で民衆活動を行っています。たとえば、パレスチナ難民家庭を訪問する運動を展開しています。この中で、人々に直接会って、帰還の権利やそれに伴う現在の問題を話し合います。帰還の権利を説明する活動を組織しています。たとえば、講演会や討論会やフォーラム、ビラやパンフレットの印刷などです。また、帰還の権利やパレスチナ文化をテーマとする子供や若者向けのセミナーを開催しています。
われわれが最初に参加した国際的イニシアティブは「アラブの大義連帯委員会」(ACSC)でした。彼らはスペインのアスチュリアス地方で難民の子供たちのためのキャンプを運営していました。われわれはこの方法が非常に効果的であることを知り、同じアイディアを地方的に開始することにしました。PCDRRは来月、帰還の権利に関する総会を開催します。場所はヨルダンの難民キャンプ、恐らくバカアになるでしょう。
占領が続く限り平和は来ない
――PCDRRとヨルダン政府はどんな関係ですか。
何の関係もありません。あるとすれば、当局と反対派の関係です。われわれはヨルダンでは反対派です。なぜなら、ヨルダンの体制は、他の親帝国主義的アラブ独裁体制と同じであり、帝国主義者の占領プロジェクトを支持しています。
このことの小さな例をあげれば、最近の戦争中にイラクに対して発射されたミサイルの最初の二発は、ヨルダンから発射されたものです。
別の例をあげれば、ヨルダンの難民キャンプからパレスチナ人がパレスチナにおける民族解放闘争に参加しようとする場合、彼らが最初にぶつかるのはヨルダン軍の国境警備隊です。国境に到達しても、ヨルダンの兵士たちと戦いたくないので引き返さざるを得なかった若者たちが大勢いるのを、私は知っています。ヨルダンの兵士たちもアラブ人だからです。
このような性格の体制は、親帝国主義的体制であると言わざるを得ません。
――スペインのメディアは、アリエル・シャロンと新しいパレスチナ首相マームド・アッバース(アブ・マーゼン)の間の「和平」交渉について肯定的に語っています。これをどう思いますか。
私は、スペインの公式メディアが交渉を肯定的に取り扱うことを予想していましたが、スペインの世論は、アッバースとシャロンの会談がもたらす不公正な「和平」に対してわれわれが抱く留保と同じ留保を抱くであろうと予想します。シャロンのような血塗られた経歴を持つ人物が、アッバースや他のパレスチナ人と和平を結ぶことができるというような希望を、私はまったく持ちません。
占領の枠組みの中での和平を、われわれは一切拒否します。スペインのメディアやスペイン人民は、中心問題がシオニストによるアラブの土地の占領であることを忘れるべきではありません。
――この「和平プロセス」に対する、占領された領土の外でのパレスチナ人のレジスタンスの反応はどのようなものですか。
まず最初に明らかにしておきたいことは、どこに住んでいようと、パレスチナの外であろうと内であろうと、パレスチナ人が望んでいるのは平和であるということです。われわれには、平和に暮らすという人権があります。殺し殺されることが永遠に続くような過程の中にいることは、人間的ではありません。われわれの権利は、ミルクと砂糖を入れたコーヒーを飲むことであって、血をすすることではありません。つまり、われわれには普通に生活する権利があるのです。
われわれを取り巻く状況が以前は明らかでなかったとしても、今では近代的な通信手段があります。これによって、実際に暴力的に振る舞っているのはだれか、殺しているのはだれか、人々を追放しているのはだれか(これも暴力の形態のひとつです)を示すことができます。
占領が続く限り平和は来ないことを指摘することが重要です。なぜなら、占領下では平和であり得ないからです。もうひとつの重要な点は、われわれの反シオニスト解放プロジェクトは将来も続くということです。なぜなら、それは旧来の反植民地主義、反帝国主義闘争の一部であり、シオニスト・プロジェクトは植民地主義プロジェクトの一部だからです。シオニスト・プロジェクトは、植民地主義プロジェクトの敗北を通じて敗北するでしょう。
不正義が続く限り抵抗闘争は続く
――闘争はどのような形態を取るのでしょうか。
われわれは、パレスチナ人の権利と帰還の権利を奪おうとするいかなる企てにも対決します。そのために、多様な方法を駆使します。主要な方法は武装闘争です。
「領土」内のパレスチナ人の抵抗にとって、これは非常に重要です。この抵抗は、孤立した現象ではありません。それは不正義に対する広範な抵抗の一環であり、われわれの領域内での帝国主義的プロジェクトに対するイラク人の抵抗を補完するものです。すなわち、ひとつの単一の抵抗闘争なのです。
抵抗闘争は、政治的レベルや法律的レベルでも行われます。われわれは、パレスチナ人の帰還の権利を奪おうとするあらゆる企てに、またイラクの占領を正統化しようとする企てに対決します。われわれはあらゆるレベルで闘います。国際的レベルにおいてわれわれの闘いを補完するものとして、スペインにおける非常に有効なイニシアティブのような、国際的な自由勢力による闘いがあります。
――パレスチナ選挙に参加することは、占領の正統化を意味しますか。
現在の状況下では、意味します。
――イスラエルに隣接するパレスチナ国家への帰還を受け入れますか。
いいえ。われわれにとっては歴史的なパレスチナしかありません。そこは占領されています。われわれはその追放された土地へ帰還するのです。
――パレスチナ暫定自治政府(PNA)は、追放されているパレスチナ人を含むパレスチナ社会全体を代表していますか。
いいえ。パレスチナ・ディアスポラ(離散パレスチナ人)は暫定自治政府選挙に参加する権利がありませんでした。
――暫定自治政府がパレスチナ人社会全体の政治的基準点でないとすれば、パレスチナ人にとっての主要な政治的権威は何ですか。
政治的基準点はパレスチナ人民の不動の権利です。そこには交渉の余地はありません。この権利は、PLO憲章に示されています。
――スペインの人々は、あなた方の闘いを助けるために何ができますか。
第一に、スペイン人は長い歴史を持った教育ある人々であり、メディアが広めている単純な嘘を信じるべきではありません。真実を追究すべきです。今や、新しいメディアによって、パレスチナ人の権利のために闘っている諸勢力とより良く接触することが可能です。
第二に、われわれは連帯グループを必要としています。なぜなら、われわれは不正義と圧制に対する共通の抵抗闘争を闘っているからです。
最後に、私は難民キャンプの子どもとして、すべてのスペイン人に対して、キャンプの中のわれわれを訪れ、事実がどのようであるかを実際に自分の目で見てくださるよう、お招きしたいと思います。
bルーク・ストバルトは反戦書「グローバル戦争への抵抗」の著者でスペインのカタルーニャ地方の活動家。
bダビド・サン・マルタンは、スペインの「アラブの大義委員会」の活動家。
(電子版「インターナショナル・ビューポイント」05年5月号)
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三里塚で竹の子とり静かな東峰を戻して
先日(6月19日)東峰の竹の子とりに行ってきました。主催は、「成田空港の暫定滑走路の供用中止を訴えます」事務局です。
十一時ごろ東峰現地に着いて、早速、竹の子とりをしました。この時期は孟宗竹(もうそうちく)ではなく、真竹(まだけ)とりです。東峰の入会地に入り、ミミズやへび、やぶ蚊や名前も知らない虫たちにご対面しながらたくさん採りました。
十二時に東峰の出荷場に戻り昼食。採れたての竹の子を炭で焼いてわさび醤油で食べました。石井恒司さんが作ってくれた、たっぷりの竹の子と魚の味噌汁(赤みそでした)、らっきょう工場のらっきょうもおいしかったです。
昼食をとりながら参加者の自己紹介、交流会です。平野靖識さんと石井恒司さんは、成田空港会社と交渉を行っていると報告されました。
交渉はすでに三回目。石井さんと平野さんは、@以前のような静かな東峰に戻してほしい、つまり原状回復A事故などの再発防止などが交渉目標だと強調されました。
昼食後、実験村へ。
細い竹(名前は分かりませんが)を束ねてトイレの囲いを作りました。途中、森林浴ツアー、休憩、おやつタイムなどをとり、ウグイス、ヒバリなどの声を聴きながらのんびりと過ごしました。
トイレの壁が一枚出来上がったところで現地解散の予定でしたが、「木の根ペンションに行こう」との声にみんなで木の根ペンションへ。二階からの景色を見て(ジェット機の音はうるさかったけど風はとても気持ちよかったです)冷たーい梅ジュース(加瀬勉さんが作られたそうです)を飲み、竹炭などのお土産をもらって四時に解散。
雨も降らず、午後からは陽も出て気持ちいい汗を流しました。次回は秋の芋掘りです。
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