もどる

天皇・皇后のサイパン「慰霊」訪問糾弾(下)       かけはし2005.6.13号

侵略と植民地支配の責任を隠蔽し「平和を祈念」する欺瞞


現地住民への差別と同化

 それでは日本のミクロネシア植民地統治の実態はどのようなものだったのだろうか。
 拓務省管轄の南洋庁のミクロネシア統治において最も重要な役割を果たしたのは警察機構であった。警察は、通常の警察業務以外に徴税、保健衛生、広報活動、道路建設の監督などの広範な業務を担当する植民地支配の中核だった。日本人警官の下にミクロネシア人巡警が補助的任務についた。
 一九二二年に制定された「南洋群島島民村吏規定」では、ミクロネシアの地域共同体の伝統的首長たちの権限を奪い、官僚的植民地支配を補助する下請け的機能のみを彼らに担わせた。
 教育制度はどうだったか。
 「これまで外国のミッション・スクールの手にあったミクロネシア人の教育は、すぐに南洋庁が立てた学校に取って代わられた。学校に通うべき年齢にある子供たちは全員、南洋庁の『公学校』への入学を義務づけられた。ミクロネシア人を対象とする教育は、日本の視点から、ミクロネシアの次の世代にミクロネシアを支配する国=日本をより一層の身近な存在だと思わせるような限定した目的をもって進められた。授業内容は日本語、日本人の倫理観、日本の歴史などに重点を置いた。それは、ミクロネシアの子供たちの考え方や態度を型にはめ、日本という国、日本の社会、政治制度への尊敬の念を注入するのに役立った」(マーク・R・ピーティー前掲論文)。
 典型的な植民地的「同化」教育である。しかしミクロネシアの現地住民に保証された教育は日本人が通う小学校とは一段ランクが下の「公学校」のみであり、上級学校へ通う機会は奪われていた。また一九一一年に建設された彩帆(サイパン)香取神社は、植民地統治時代にはサイパン島の神社信仰の主要な対象としての役割を果たしていた(同神社は一九四四年に戦火で消失したが一九八六年に北マリアナ諸島連邦自治政府と香取神社によって再建されている)。
 さらに地籍調査を通じて耕作地の徹底した調査と登記も行われたが、それは現地の土地制度を無視したものであったため、多くの現地住民は土地を手放さざるをえなかった。保健衛生についても病院の設置や医療チームの派遣などが行われたが、日本人移民の急増によって、そうした医療サービスの対象となったのは多くが日本人であり、ミクロネシア人の健康状態は実質的に悪化したとされている。
 進出した日本企業や官庁に雇用されたミクロネシア人もいたが、多くは日雇いや補助的労働であり、現地住民の最高賃金も日本人の半分であった。こうしてミクロネシア人は大日本帝国の「三等国民」として最下層に位置づけられていたのである。

経済支配と日本人移民


 日本資本のミクロネシアへの本格的な経済進出はドイツ領当時の一九〇八年に設立された南洋貿易株式会社(南貿)で始まるが、日本統治後は、製糖業を支配した南洋興発(南興)、政府・南洋庁が設立し、燐鉱開発、漁業、海上輸送、ホテル、金融などにたずさわった国策会社の南洋拓殖(南拓)がミクロネシアの経済を支配することになった。
 これらの経済開発・搾取を支えたのが、砂糖きび農場や製糖工場などで働く労働力を確保するための日本人移民であった。一九三五年までに五万人に達した日本人移民はおもに沖縄と東北地方からであったが、その数はミクロネシア人住民の数を大きく上回った(ちなみに沖縄2区選出の社民党衆院議員・照屋寛徳さんは、一九四五年七月にサイパン島の捕虜収容所で生まれた、沖縄からのサイパン移民の子である)。
 一九三〇年代半ばにはミクロネシア人と日本人の比率は、パラオ諸島で1対2、サイパンをふくむマリアナ諸島では1対10と日本人が圧倒的多数となった。マーク・R・ピーティーは「もし太平洋戦争が起こらず、そして敗北の結果、急激に日本人がいなくならなければ、エスニック・グループとしてのミクロネシア人は二〇世紀中に地球上から消えていたかもしれない」とまで述べている。
 日本人移民はミクロネシア人を「野蛮人」として蔑視した。日本人移民の中でも沖縄の出身者、さらに朝鮮人は、日本本土からの移民に比べて一段と低い地位に置かれた。こうして「本土」からの移民、沖縄移民・朝鮮人、現地住民という明確に区別された「三つの階級」が出来上がった。日本の南洋植民地支配とは、こうした差別的階層支配構造の下に成立したのであり、底辺に置かれたミクロネシア人は一方で「同化」を受け入れつつ、他方ではこの差別的支配構造に対する疑問、あるいは日本人の生活習慣への「嘲笑」的態度を保持していたとされている。
 確かに、朝鮮や台湾のような植民地住民の抵抗や反乱は記録に残ってはいない。しかし、そのことはミクロネシアの住民が日本の植民地支配を喜んで受け入れたということを意味しない。大衆的抵抗の不在は、スペインの先住民絶滅政策の中で、ミクロネシアの人びとの民族としての政治的形成がきわめて初歩的な段階に押し止められていたこととの関係で捉えなければならないだろう。
 そして一九四一年以後、ミクロネシアの軍事化が徹底的に進められた。トラック島には連合艦隊の基地が置かれ、サイパン島は「絶対国防圏」の最前線として要塞化された。サイパンの陥落は、日本帝国主義のミクロネシア植民地支配の最後を象徴するものであったとともに、東京大空襲や原爆投下の発進基地として、天皇制日本帝国主義国家それ自身の敗北と解体を最終的に確定したのである。

参戦国家づくりと「慰霊」


 天皇・皇后のサイパン訪問にあたって「米側の慰霊碑や、日本兵や多くの民間人が断崖から身を投げた『バンザイクリフ』への訪問が検討されている」(「読売」4月26日夕刊)と報じられている。
 「玉砕の島」サイパンには、「おきなわの塔」(沖縄からの移民で戦争で亡くなった人びとを「慰霊」する塔、一九六八年に当時の琉球政府が建設)、「中部太平洋戦没者の碑」(一九七四年に日本政府が建設)などの他、多くの日本人戦没兵士・戦没者の碑が存在し、「韓国人慰安平和塔」もある。また米国将兵の追悼碑としてはアメリカン・メモリアル・パークの米軍戦没兵慰霊碑や、上陸作戦で戦死した米将兵を称える「アメリカ軍上陸記念碑」も作られている。
 天皇・皇后の「サイパン慰霊の旅」は、こうして「敵・味方」、国籍、軍・民間を問わず一様に戦争の死者を「慰霊・追悼」するという形をとって、「悲惨な戦争の犠牲者」とその遺族に「深く思いを寄せる」皇室という国民的イメージを喚起するものとなるだろう。一九九五年の敗戦五十年にあたっての東京、広島、長崎、沖縄への「慰霊の旅」は、「もう一度戦果を挙げてから」と戦争継続に固執して一九四五年二月十四日の近衛文麿による「和平上奏」を却下し、東京大空襲から沖縄戦、そして広島・長崎の数十万人にのぼる犠牲を強要した裕仁の戦争責任を隠蔽し、「国体護持」の「聖断」を美化するものだった。それと同様に、今回の「サイパンの慰霊」の旅は、自らが関与した「絶対国防圏」の最前線とされたサイパン島「死守」作戦による多くの兵士・民間人の死に直接の責任を有する裕仁の戦争犯罪を清算し、「平和」のために「祈る」天皇の姿を印象づけようとするものである。
 しかし、それだけではない。「敵・味方」を問わず、国籍を問わず「慰霊・追悼」する天皇・皇后のサイパン訪問は、自衛隊のイラク派兵に見られるようにグローバル戦争に参戦し、海外で「殺し、殺される」関係に入った時代の中で、不可避的に生み出される「敵・味方」の死者を「世界平和の礎」として「慰霊・追悼」する天皇制の新たな役割を象徴するものとなるだろう。
 「昭和の日」が制定され、「昭和天皇記念館」が今秋にも開館しようとしている。日本が「戦争する国家」となるための新たな「歴史認識」を浸透させるためのイデオロギー攻撃が、日本帝国主義の侵略戦争と植民地支配を正当化する、新しい排外主義的国家主義のキャンペーンとして急速に浮上している。
 「平和を祈り」、「戦争犠牲者を追悼」するという形をとった天皇の「サイパン慰霊の旅」は、侵略戦争と植民地支配の支柱であった天皇制の果たした歴史的役割と、危機の中で再編されようとする象徴天皇制に対する徹底した批判の重要性を、あらためてわれわれに突きつけている。(5月26日 平井純一)    



コラム

二つのキーワード

 私が大学に入ったのは、もう四〇年も前、一九六五年のことだった。
 その年、私たちは、ベトナム反戦闘争、日韓条約締結反対闘争、「学内運動」に取り組んでいた。
 私は、政治的にはまったくの「おくて」だった。たとえば、高校のあちこちに「アメリカは日本から出ていけ・日本民主青年同盟」といったステッカーが貼ってあったが、この民青のことを、自民党の青年組織くらいにしか思っていなかった。
 そんな何もわからない私は、大学入学とともに、日本史研究会、朝鮮問題研究会、ロシア革命研究会、実存主義研究会、マルクス・レーニン主義研究会……と、さまざまなサークルに顔を出していた。「○○研究会」は○○を研究しているものと思い込んでいたのだ。
 運動の基礎単位はクラスだった。私はクラス委員にもなった。いつも二〇数人が集まって、クラス新聞をつくったり、クラス討論用の討議資料をつくったりして、デモやストライキへの参加を呼びかけていた。それに加えて、十数人で読書会をもっていた。二年生になるころには参加メンバーがそれぞれに自分の党派を選択していたが、読書会は続き、三年目には『資本論』に取りかかっていた。その集まりは、大きな闘争の時にはクラス闘争委員会の中核の機能も果たしていた。
 いくつかのサークルに顔を出していたにもかかわらず、私はあまり党派のオルグを受けなかった。実際、私は「新左翼」のことを学生時代にだけ参加する組織としか思っていなかったし、そうした組織にはまったく魅力を感じていなかった。
 それでも、私は党派を選択した。それは、全国政治新聞もなく、顕微鏡でしか見えないような小さな組織だった。選択のキーワードは「インターナショナル」と「労働者階級」だった。
 その当時の私にとって、この二つは幼稚なほど単純なものでしかなかったことは確かである。たとえば、「帝国主義が国際体制である以上、それに対抗するにはインターナショナルな運動が不可欠である」、「労働者階級の解放が労働者自身の事業である以上、労働者運動に基礎をおかない組織は砂上の楼閣でしかない」といった具合である。
 前者は、第四インターナショナルの国際運動であるが、それがいくらかでも実感できるようになるには一九六八年まで待たなければならなかった。後者は、社会党・社青同への加入戦術をつうじて獲得している労働者基盤であるが、これはかなり誇大に伝えられていた。
 だから、キーワードへの私の思いと現実の間には「幻想」と思われるほどギャップをもった出発だった。だが、その後のたたかいをつうじて、第四インターナショナルは生きた現実の運動として実感されるようになったし、労働組合運動においても一時的ではあれ青年層の中に重要な反対派勢力を築くことができた。
 この約四〇年間、私はこの二つのキーワードに導かれてやってきた。それは、出発のころに考えたのとは違って、複雑で矛盾に満ち満ちたものであった。とりわけ労働者運動は歴史的な試練をくぐり抜けている最中である。それでも私は、この二つのキーワードに支えられながら、これからも生きていくのだろう、と改めて思うのだ。(岩)                


もどる

Back