読書案内「トロツキー研究」45号 特集「レーニン没後80周年」
編集発行:トロツキー研究所 発売:つげ書房新社 1800円+税 かけはし2005.5.30号 |
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「善を望み、悪をつくり出した」といわれる矛盾の中で実践されたロシア革命 |
同時代人が回想
するレーニン評
昨年末に発行された「トロツキー研究」(45号)は、「レーニン没後八〇周年」特集である。本号の解題において、特集の目的は「レーニン否定の大合唱に抗してレーニン擁護論を展開することにあるのではない。レーニンと同時代人で、直接レーニンをよく知り、ともに活動したり、論争しあった人々の回想や、レーニン評を紹介することで、きわめて複雑で一言では評価しきれない偉大な歴史的人物の実像に迫ることである」としている。
実際に本号では、ドイツ社会民主党と第二インターナショナルの理論的指導者であったカール・カウツキーの「レーニン追悼」(この追悼文自身は儀礼的要素が強いものだが)、社会革命党(エスエル)の最高指導者であったチェルノフの「レーニン」、そして、一八九五年から、一九〇三年のロシア社会民主党第二回党大会でメンシェヴィキになるまで、レーニンの同志であったポトレソフの「レーニン」が掲載されている。
そして本号で紙数の半分を占めるのが、ロシア系イタリア人の女性社会主義者であるバラバーノワの「私の見たレーニン」である。彼女はイタリア社会党員として、第二インターナショナル執行委員会の一員であった時期に、ロンドンで開かれたロシア社会民主労働党第五回大会(一九〇七年)で、「小さな取るに足りないボリシェヴィキ・グループを代表していた」レーニンを、「非常に身近に観察する機会を得た」。
それ以降、一九一五年九月の帝国主義戦争に反対する社会主義者の最初の会議であるツィンメルワルト会議、そしてロシア革命後のコミンテルンでの活動のなかで「より密接で長期にわたる協力関係を通じて、彼のことをいっそうよく知ること」になる。最後は彼女が「ボリシェヴィキのロシアとの断固たる決裂」のうえで、「ロシアを去り共産主義運動から手を引く決断を」下す(たぶん一九二二年ころ)まで、「ロシアの社会民主主義グループのいずれにも属したことがない」「いかなる非難もこうむることなく、もっぱら原則的な理由から革命の祖国を離れた最初の、おそらくは唯一の戦闘的社会主義者」という立場から、レーニンとボリシェヴィキ党、そしてトロツキーについて論じている。
革命家としての人物像
レーニンはどのような人(革命家)だったのか。そして、そのレーニンが作り上げたボリシェヴィキ党による権力掌握が、独裁的な官僚専制支配をもたらしたのは必然的だったのか。
ポトレソフの一文が、革命家レーニンをみごとに言い表している。「人々はプレハーノフを読み、マルトフを愛したが、レーニンに対してだけは、唯一のまごうことなき指導者として従順に従った。なぜなら、レーニンは、とくにロシアにおいてはそうだったののだが、鉄の意志を持ち、抑えがたい無限のエネルギーにあふれ、狂信的なまでの確信を運動に注ぎ込み、そしてそれに優るとも劣らぬ確信を自分に対して持っていた、真に希有な人物だったからである。…レーニンは、…『自分は党である』、『自分は、一人の人間に集中された運動の意志である』とまぎれもなく感じていただろう。そしてそれにふさわしい行動の仕方をしたのである」。
またチェルノフも「巨星がまわりの惑星に影響を与えるのと同じように、彼にはそうするのが自然だったのである。名誉に関して言えば、彼はそれを嫌悪した。彼の心は虚飾とは無縁だった。その好みに関しても、その内奥の性質からしても平民的であったレーニンは、十月革命の後もそれ以前と同じく質素な生活を続けた」と評している。
さらにバラバーノワも「彼は、個人崇拝の確立につながるようなもの、あるいはそう見えるものいっさいを避けようとした。彼はこのことをはっきりと態度で示していたので、彼のことを知る人はみな、彼にへつらったり、彼の前で卑屈な態度をとったりすることはまったくなかった」。「彼は、機会主義者や権力亡者を根本的に軽蔑していた。こうした連中の数が増えるにつれて、原則に忠実であり続ける人々に対する彼の期待は同じ程度増大していった」と書いている。
またポトレソフは、レーニンを「真剣なマルクス主義的訓練を積んだセクト主義者、セクト主義者のマルクス主義者」と指摘している。レーニンは、思想的にはマルクスとエンゲルスの「弟子」であった。そのことは、第二インターナショナルの日和見主義的な堕落を、カウツキー主義批判というかたちで、マルクス主義の原則でもって国家論、帝国主義論、プロ独論を展開していることに示されている。また「帝国主義戦争を内乱へと転化」の提起(まさにこれがロシアで実践された)は、一八七一年のパリ・コミューンの武装蜂起を意識したものであった。チェルノフの「彼にとって階級闘争は内乱の萌芽にすぎなかった」という指摘は的を射ているといえる。
思想的非妥協と
目的への確信
「セクト主義者」という指摘と関連して、三者は共通して以下のことを明らかにしている。ポトレソフは「社会民主党の内部でも、あるいはその外部の、専制体制に反対するあらゆる社会運動の隊列の中でも、レーニンは、人間と物事に関して二つのカテゴリーしか知らなかった。『われらの』と『やつらの』である」。バラバーノワは「私が何よりも理解できなかったことは、ボリシェヴィキたちが――とくにレーニンが――自党の党員と非党員に異なった基準を当てはめていたことである……その誠実さと公平無私さの点で名高い人々を裏切り者、不誠実、腐敗分子として非難することである」。
さらにチェルノフは「特筆する特徴として、レーニンは、自分が有能な助手であると評価した人物を、自分なりのやり方で愛した。彼は、その者たちが誤りを犯しても、あるいは不実の行為をしたとしても、時には厳しく非難することがあるとはいえ、容易に許した」と書いている。
これはレーニンの思想的な非妥協さと、ひとつひとつの目的への確信、そして革命党概念と深く関連していると思われる。その上でレーニンとボリシェヴィキ党は、陰謀的手段も含めて「目的は手段を正当化」(ポトレソフ)させたのである。しかし、この方法が、革命への献身性を希薄化させ、思想的に堕落したり、右翼的保守主義といった立場から実行されたならば、その目的はレーニンのそれとはまったく異なったものになるであろう。
ロシア革命に果たした役割
三者の批判が集中しているのは、レーニンのボリシェヴィキ党建設についてである。
ポトレソフは『何をなすべきか』の中で提起されている党概念・組織形態について「あらゆるマルクス主義的な社会観と根本的に手を切り、国際社会民主主義のあらゆる精神と矛盾するような党概念および、労働運動における党の役割に関する概念が形成されていった。……この組織形態は当時のわれわれには――そしてこの点にわれわれの罪があるのだが――帝政ロシアの地下活動的条件に適合した正常な組織形態のように思われた。実際にそれはすでに、かの共産主義機構の萌芽だったのである。…その概念によれば、大衆はただ、自覚した少数派にして真理の所有者である革命家グループの手中で従属的な役割のみを果すことになる……レーニン以上に、かかる独裁グループの全能の首領としての使命を果すのに適した人物は誰もいなかった」としている。
チェルノフは「現在、勤労大衆に対するプロレタリアートの独裁が必要であるように、プロレタリアート自身の内部でも、同じ原理にもとづいて、一般プロレタリアートに対する前衛的プロレタリアートの独裁が存在しなくてはならない。この前衛こそ、プロレタリアの精髄たる真のプロレタリア党に他ならない。さらにプロレタリア党内部でも同じように、より軟弱な分子に対するより確固たる分子の内部独裁がなくてはならない。このようにして下から上へと上向していく諸独裁のシステムがつくり出される。それは最後には一個人の独裁という頂点に至るし、至らないわけにはいかない。こうしてレーニンはそうした独裁者になったのである」と書いた。
バラバーノワは、レーニンの方法は「マルクスとエンゲルスが到達した結論、すなわち『労働者の解放は労働者自身によって遂行されなければならない』という結論から逸脱するものであった」とした上で、「レーニンが決定を下し、職業革命家が実行し、労働者が従う。こうした概念は、マルクス主義からも民主主義からもほど遠いが、ボリシェヴィズムの教義・実践とあらゆる文明諸国のプロレタリア組織の民主主義的形態とを分かつものであった」と指摘する。
三者は、ほぼ共通した方法で「レーニンとボリシェヴィキ党による独裁」を批判し、その根源にレーニンの党組織概念があるのだと主張している。
まずは、ポトレソフが取り上げている『何をなすべきか』で提起されている組織建設の方法が、本当にその後の官僚的独裁の呼び水になったのかということについて見てみたい。
『何をなすべきか』は、一九〇二年三月にシュツットガルトで出版された。その内容は、当時、ロシアで全国的に散在していたインテリゲンチャの社会主義者小グループによる、自然発生的で手工業的な活動を改めて、大衆の武装蜂起を準備しうる「単一の全国的な革命家の組織」を、非合法下で、いかに有効に作り上げることができるのかという提起であった。ポトレソフ自身も、「地下活動的条件に適合した正常な組織形態」と証言しているわけだが、こうした非合法活動を通して形成されたちっぽけなボリシェヴィキ党機構が、どのように「官僚独裁の萌芽」に変質していったのか論理的にはまったく説明されていない。あまりにも運命論的にしか語られていないのである。
つぎに、「レーニン――ボリシェヴィキ党――プロレタリアート」の関係性について触れてみたい。三者ともに、これらの関係性を上からの一方的で指令的な流れとして固定化しているが、それはまったくの間違いである。これらの関係性の中にも、現実の階級闘争の影響を受けて、生きた弁証法が貫徹されているのだ。たとえば、プロレタリアートの闘争が沈滞し、革命党も非合法地下活動を余儀なくされている場合、上からの流れが強くなるだろう。しかし、プロレタリアートが闘争を通して大衆的に革命化した場合、この流れは確実に、しかも劇的に変わるのである。ロシア革命は、そのことをみごとに証明している。
「四月テーゼ」と党内闘争
一九一七年のロシア二月革命は、臨時政府とソビエトの二つの権力を出現させた。一九〇五年以降、ボリシェヴィキ党は当面する革命の性格を「プロレタリアートと農民の民主主義的独裁」と規定し、革命の目的は「民主主義的共和制、地主の土地の没収、八時間労働」に集約されていた。そのためにボリシェヴィキ指導部は、すでに古臭くなった「定式」にしがみついて、巨大な二月革命がつくりだした現実を前にして、完全に踏みとどまってしまった。カーメネフ、スターリンらは、ボリシェヴィキとメンシェヴィキとの合併をまじめに考えて、臨時政府の野党の席に身を置こうとしていたのである。
こうした状況の中で、臨時政府に反対して「ソビエトが権力を掌握する必要がある」という決議が、ボリシェヴィキ派労働者の集会で決議されてゆく。この時、革命的プロレタリアートは、ボリシェヴィキ党のはるか左に位置していたのである。チューリッヒにいたレーニンは、この革命的労働者の側についた。
レーニンは帰国の翌日に、ボリシェヴィキ党に「四月テーゼ」を提出する。それは、プロレタリア革命への直接の移行をめざそうとするものであり、ロシア革命の性格をめぐって、レーニン自身がトロツキーの誤りとして批判してきたものであった。ボリシェヴィキ指導部の全員が、その「テーゼ」に対して敵意と抵抗を示した。四月八日付の党の中央機関紙『プラウダ』は「同志レーニンの全体的構想について言えば、それはわれわれには受け入れがたいものである。なぜなら、それはブルジョア民主主義革命が終了したと認めそこから、この革命を社会主義革命へとただちに変質させることをもくろんでいるからである」と、編集部の立場を表明した。
革命的労働者が開始した巨大な革命闘争は、レーニンを突き動かした。そしてレーニンは、その革命的労働者の闘いに依拠しながら、ボリシェヴィキ党の「再武装」のために闘ったのである。
これと同様の事態が、十月の蜂起―ソビエトによる権力奪取の直前にも再現された。ボリシェヴィキ指導部の中に、蜂起と権力奪取に対する日和見主義が首をもたげたのである。この時もレーニンは、革命的労働者に全面的に依拠することになる。レーニンは「手に入るあらゆる力と方法をもって党を大衆に、そして党の中央委員会をその平党員に従属させることに努力した……彼は、大衆は革命を完成させるだろうし、また完成させうるというゆるぎがたい信念をもっていた」(トロツキー『レーニン』)。
こうしたロシア革命における事実は、「プロレタリア革命党と労働者階級」との関係が、生きた弁証法の中に存在していることを端的に示した。その意味で、まさにロシア革命は、ロシアプロレタリアート自身による革命であった。そして、その中でレーニンが決定的な役割を果したのである。
トロツキーは『ロシア革命史』の中で、個人(レーニン)の役割について簡潔に整理している。
「個人の役割はここでわれわれのまえで真に巨大な規模で発揮される。ただし、個人を歴史の鎖の一環としてとらえることによって、その役割を正しく理解することが必要である。……レーニンは歴史発展の偶然的要素ではなく、ロシアの歴史の過去全体の所産であった。かれはそこにこの上なく深く根をおろしていた。……レーニンは外部から党に抵抗したのではない。レーニンは党のもっとも完璧なあらわれであった。党を育成しながら、党の中で育成されてきた。ボリシェヴィキ指導層とかれの不一致は、党のあすときのうとの闘いを意味した」。
レーニンは死の直前まで、革命の後退と対をなして進行するボリシェヴィキ党の官僚主義的な堕落と対決しようとした。しかし、レーニンの病状の悪化と死は、スターリンを頭目とする保守的な官僚主義者の勝利の決定的な要素となったのである。 (高松竜二)
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