| 「県民の会」第10回総会 かけはし2005.2.14号 |
【静岡】一月三十日、静岡市において「空港はいらない県民の会」第十回総会が開催され、一年間の活動の総括と向こう一年間の活動方針などについて討議が行われた。
昨年十一月十二日に石川県知事が土地収用法に基づく事業認定申請に踏み切ることを表明したことから情勢はにわかに緊迫、対県行動や事業認定申請のための事前説明会への行動、11・28現地集会、国会での院内集会など連日の行動を展開しこの日の総会を迎えた。
開会あいさつに立った島野房巳共同代表は、「静岡空港を阻止する闘いは、いよいよ決戦の時を迎えた。強制収用という暴挙をつぶすことは、空港建設の死命を制するにとどまらず、この国の行政における民主主義の前途に深くかかわっている」と述べた。
さらに、島野さんは「国が空港設置許可条件の担保として県に提出させた「全用地の任意取得の『確約書』を反古にする強制収用方針は、知事自らが空港設置許可の適法性の根拠を否定することにほかならず、国は事業認定どころではなく設置許可を取り消すべきであること。幾つもの巨大公共事業によって二兆円余の県財政赤字をつくりだし、憂慮される東海大地震のための基金すらあらかた空港建設のために投入し、知事自らも含めた県職員による税金の不正支出・横領で四度も五度も自らに懲戒を科して恥じず、権力にしがみつく傲慢・醜悪との闘いであり、力ずくの土地の取り上げに対しては、全国の世論を背景に、それが支持するあらゆる手段をつくして徹底的に抵抗し、収用を粉砕し空港の息の根を止めるまで断固として闘い抜く」と宣言した。
ダム反対運動・反
原発運動との連帯
来ひんのあいさつには、県内の県議・市議をはじめ、空港と並ぶ税金のムダ遣いの一つ太田川ダムに反対して運動を続ける岡本さん、「泉州沖に空港を作らせない住民連絡会」の根本さん、「浜岡原発を考える静岡ネットワーク(浜ネット)」の白鳥さん、「空港予定地の自然を守る会」の前田さんなどから連帯のあいさつが寄せられた。松谷県議は、「〇五年は空港をつぶすか静岡県がつぶれるかの年」として、石川知事の四選出馬表明が事業認定の許可を前提条件としていることから、許可を出させない、あるいは二カ月遅らせる取り組みが重要だと考えていること、そのために二月十八・十九日の島田市での公聴会に対する取り組み、国会での質問、県議会各会派に対する対策などを提案した。
浜ネットの白鳥さんは、スマトラ沖地震・津波に衝撃を受け、浜岡原発の耐震レベルを引き上げるとした中部電力の会見を、これまでM8・5に耐えられると豪語してきた中電の主張が迫りくる東海地震に耐えられる何等の根拠もないばかりか、津波に対しては十メートルの砂丘などひとたまりもないことが事実によって証明されていると弾劾した。
空港反対訴訟弁護団を代表して渡辺弁護士は、土地収用取り消し訴訟の準備状況を報告し、環境法律家連盟加盟の全国の弁護士に呼びかけを発したこと、二月二十六日にこの訴訟のための弁護団結成準備会を開くこと、原告となる人も含めて多数の参加が訴えられた。
総会では、この間の闘いを映像で振り返る「やっぱりいらない静岡空港」と題するDVD上映も行われた。このDVDは、県民の会の映像・記憶担当でドキュメンタリーでの賞を受賞したこともある仲間が制作したもの(頒価千円)。
不正・腐敗の県
政を変革しよう
活動報告・総括提案に立った桜井事務局長は、〇四年の闘いを振り返って、この一年の闘いは、県民の会十年間を集約する闘いとしてみることができ、県による土地収用申請によって大きく局面が変わることとなり、〇四年の活動で得た成果を生かしていきたいと簡潔に報告(一同あ然とし、その後爆笑)した。
引き続き活動方針の提案を行った桜井事務局長は、収用申請は石川知事が自らの延命を策したものであるが、絶体絶命の淵に立たされていることの裏返しであり、同時に四選に向けた狡猾この上ない宣戦布告ととらえ、三期十二年の間にどれだけ県民福祉・県民生活を犠牲にし、県財政を食いつぶし、莫大な負の遺産をもたらしたかについて県民の関心を集め、高めていくことができるかが課題である。
このことは同時に無責任・不正・腐敗の官僚県政を追放し真の県政改革に向けてスタートを切るカギを空港問題、土地収用をめぐる闘いが握っているということである。はからずも知事の年頭発言が示すように七月知事選の最大争点であることは明白であり、県知事選を回避することはありえないことも合わせて確認した。この闘いに向けた具体的な方針提起として第一に収用関係予算審議が行われる二月県議会に対する各県議、各会派への要請行動、議会傍聴行動、第二に収用手続き及び国会対策、第三に収用攻撃をはね返すための具体的な闘いと体制整備、第四に訴訟準備などである。質疑討論のあと全体の拍手で活動報告・活動方針が採択された。
四人の地元地権者(桧林、松本、大井、村田の四氏)がそれぞれから決意を表明した。松本さんは「この闘いが県民や地元の合意で公共事業が進められるようなシステム作りの礎になれば良いと思っている。いま、反対運動の新しい知恵を考えています」と述べた。
最後に共有地権者会共同代表の芳賀さんのあいさつを受けて閉会した。(M)
追悼 松江 澄さん
反戦・反核運動の支柱共産主義運動の大先輩
米占領下の労働
運動と反原爆運動
広島の反戦反核運動の理論的支柱であり、社会主義運動・共産主義運動の大先輩である、元広島県原水禁常任理事、元統一労働者党議長の松江澄さんが一月十五日未明亡くなった。享年八十五歳。
松江さんは、旧制一高を経て東京大在学中に召集され、中国大陸・満州に放り込まれた。その後、富士山麓の陸軍教育隊で敗戦を迎えた。自分たちの自由な空気が奪われることには学内で抵抗できたが、社会的に抵抗できなかったことを一生涯、原罪として背負い続けておられた。
被爆直後の二週間目あたりに広島に戻り、「広島駅に降り立つと目の前にいきなり(街並みが一つとして残らず)己斐の山が飛び込んできた」というその廃墟になった故郷の姿を脳裏に焼き付けたのであった。医師をしていた兄の死に場所は探したが判明しなかった。母を三年後、原爆症で失った。この戦争と原爆が松江さんを労働運動と反戦運動、そして革命運動へと導いた。
一九四六年、中国新聞社に入り中国新聞労組を皮切りに、戦後労働運動の真只中で、四八年に広島県労働組合協議会会長に選ばれる。また、内面の闘争を経て日本共産党に入党。四九年六月から一カ月の歴史的な日鋼(日本製鋼)闘争を指導し、連日一万人を動員した。闘争は敗北し国会考査委員会に引っぱられた。同志には詩人の峠三吉らがいた。五〇年にレッド・パージを受けた。被爆地で初めて「原爆禁止」を決議した四九年の平和集会「平和擁護広島大会」の議長を務め、五○年三月からのストックホルム・アピール署名運動、五○年八・六の非合法集会、五一年八・六屋内集会、五二年八・六屋外集会、五三年八・六屋外大規模集会と米軍占領期の反帝反戦反原爆闘争を担った。
原水禁運動の分裂
と松江氏の立場
五四年三・一の「ビキニ」被爆を契機に国民主義的な原水爆禁止運動が爆発した。六〇年安保に登りつめる過程での自民党、民社党の右からの分裂、そして、安保後の共産党の「左」からの分裂を乗りこえて、常に指導部として、原水禁運動の発展の力学を防衛し続けた(総評が組織的に右から分裂するように追い込んだ共産党の責任を捉える立場から、ここでは共産党の「左」からの分裂と捉える)。ソ連邦の核武装擁護という共産主義者の立場と米・ソ核実験を同列視しがちな大衆運動としての反核運動のエネルギーを結合しようとしたその苦闘の重さと堅実さが松江さんのポジションを確かなものにした。
松江さんには、アメリカ合衆国によって原爆を投下された日本の反核運動が大衆的である限り、それは帝国主義に一方的に打撃になるという客観的力学への確信があった。そうであるがゆえに、ソ連邦の核武装擁護が綱領的、政策的に正しくても、階級的革命的立場を大衆運動に対して一方的かつ教条的に押し付けることが百害あって一利なし、という立場に立ちきった。
この松江さんらの立場が、「いかなる国」問題での分岐において、総評でもなく、共産党でもない、被爆地の広島県原水協(後の俗称:広島県原水禁)の立場を不動のものにした。全国では総評が組織的に日本原水協から右分裂したものの、被爆地では、統一の隊列を守る粘り強い運動を実現したのであった。そして共産党は忍耐強く我慢することができなかった。稚拙な分裂を広島県原水協・被団協に対して行った。とりわけ被害者団体の被団協で強行したことは致命的であり、今日まで、被爆地での共産党の位置を低くするものとなっている。
大衆運動・組織建
設の経験から学ぶ
五九年に日本共産党初めての県議、以降通算五期で住民運動の先頭に立つ。六一年に内藤知周らと共に社会主義革新運動を結成。その後の労働者党建設の困難な道を歩む。一九四八年から一九六一年の共産党時代、三度の党内闘争で二回の除名、一度の機関罷免処分、ついに新党コースに飛躍した。しかし、その後の三十数年の党建設の闘いは、実を結ばなかった。長谷川浩、内藤知周をはじめ六一年以降の共産党内の批判的精神の潮流は、国際共産主義運動の総括を通して、トロツキズムに結びつくことはなかった。
広島の第四インター活動家は、七〇年代、松江さんや広兼さんから労働者党建設の方法を、その姿勢を、学ぼうとしたという。私は、松江さん支持者の方が経営する本屋で働きながら、松江さんを存じ上げていたが、親しくおつきあいさせていただくようになったのは、八〇年代後半からだった。反戦反核広島集会の流れでは、九六年まで代表を務めていただいた。
月一回の学習サークル、平和サークル(平C)では、日本近代史、戦後史、グラムシの獄中ノート、東欧改革・ゴルバチョフ改革、ソ連邦の総括、渓内譲氏の著書をめぐって討論し、いろいろとご教示いただいた。私のスタンスは、エルネスト・マンデルの受け売り一本であったが。九○年の正月には、沖縄で、ご一緒させていただいた。二〇〇〇年の入院の際は、毎日、市民病院に駆けつけさせていただいた。退院後、市民運動の拠点であった場所の高齢者デイサービスに通われるようになり、松江さんを尊敬するスタッフの介護の中で穏やかな晩年を過ごされた。
ソ連邦解体後、ソ連核実験場のセミパラチンスクを広島県原水禁として初めて訪問した際、松江さんは次のように述べられた。
「広島県の二倍もあるこの大草原のかなたで、四九年から四十年間にわたって三百二十回も核実験が行われた。二百八十回に及ぶ地下核実験は地底から草原を揺るがせて大地を割り、四十回の大気圏実験はそのたびにヒロシマと同じ『きのこ雲』をこの草原の空に噴き昇らせた。広島より何十倍も重い線量の放射能が草を侵し牛を侵し、風に乗って草原の人々を侵し続けた」。
松江さんの事実から学び、誤りから率直に転換する姿勢、大衆運動をご都合主義的に引っ張りまわす「指導」への徹底した嫌悪、「コシアン」より「ツブアン」という自立した人々の集合体、組織への熱烈な希望、これらを私たちは学んできた。
被爆六十年の節目に、広島の運動が飛躍するように、私たちに促すかのような旅立ちであった。
松江澄さん、長い間、ありがとうございました。あとは私たちが国際的で階級的なこの歴史的事業を引き継いでいきますから。
(1月31日 久野成章)
関西空港の軍事使用拒否を申し入れ
自衛隊第5次イラク派兵の物資輸送反対
【大阪】一月二十八日、泉州沖に空港を作らせない住民連絡会は、関西国際空港株式会社に関西空港の軍事使用拒否の申し入れを行った。
これは、十二月に中部方面隊からの第5次自衛隊イラク派兵のための物資の輸送を請け負った業者が岡山空港(第3種・県営空港)に使用を打診したところ、岡山空港は「危険物の輸送禁止の規定があり、小銃、拳銃など爆発物の輸送には使用させない」と回答したことが明らかになったことによる。名古屋・守山に近く、中部方面隊の範囲で三千メートル級の滑走路を持つのは、この岡山空港と、関西国際空港であるところから、住民連絡会の今回の申し入れになった。
住民連絡会、関西共同行動、石垣島・白保に空港を作らせない大阪の会などのメンバーでの申し入れに対して、関西国際空港会社総務部の二人は「岡山と同じ条件で申し入れがあった場合はこれを拒否する。関空は民間空港なので、軍事利用には反対する」と答えた。住民連絡会としては、情報公開の原則を守って、こうした動きがあった場合すぐに連絡するよう要求した。
その後、同趣旨での申し入れを国土交通省と大阪府企画調整室空港対策室にも行ったが、双方とも関連情報も知らず、「その件は、関空会社が判断すること」というだけで、ただ申し入れを聞くだけという姿勢だった。 (H)
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