| 表現の自由を侵害した政治家の介入と、NHKの偽証を断じて許さない!―徹底した真相究明とNHKの明確な責任を求める! |
1月17日、NHK番組改ざん控訴審で、VAWW―NETジャパン側の審理の続行をもとめる要求を裁判所が認めて、結審の予定を延期し、審理を続けることを決定した。同日開催された裁判報告集会記事は次号掲載。VAWW―NETジャパンの声明を資料として掲載する。(編集部)
衆議院議員 安倍晋三様
衆議院議員 中川昭一様
日本放送協会 会長 海老沢勝二様
本日(1月12日)の朝日新聞朝刊で、NHKETVシリーズ2001「戦争をどう裁くか」の第二夜「問われる戦時性暴力」(01年1月30日放送)の番組内容に対して、中川昭一、安倍晋三両自民党国会議員の圧力があったことが報じられた。
報道によると放送前日の二十九日午後、当時の放送総局長松尾武氏と国会対策担当野島直樹氏らNHK幹部が中川・安倍両国会議員に呼ばれ、議員会館で面会した。その席で両議員は「一方的な放送はするな」「公平で客観的な番組にするよう」求め、「それができないならやめてしまえ」と、放送中止を求める発言を行ったという。
番組改ざんについては、女性国際戦犯法廷を主催した国際実行委員会のメンバー「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW―NETジャパン)と同代表(当時)松井やよりが原告となり番組制作に関わったNHKとNHKエンタープライズ21、番組制作会社ドキュメンタリー・ジャパンを相手に提訴(01年7月24日)した。一審判決(04年3月24日)は責任を末端の番組制作会社に押し付けるものであり、NHKの行為については「編集の自由の範囲内」として責任が不明確にされたため、原告は控訴し、現在、控訴審を闘っている。
番組改ざんは、日本軍「慰安婦」制度が人道に対する罪で裁かれたことを覆い隠し、昭和天皇をはじめ被告となった日本軍高官に「有罪」が言い渡された判決結果を削除し、「慰安婦」被害者の証言や日本兵の加害証言、「法廷」の意義を伝える松井やよりのインタビューや「法廷」の基本的な情報をことごとく削除するものだった。また、「法廷」を評価するスタジオコメンテーターの発言も不自然な形でカットされ、放送数日前にスタジオ部分を取り直すなど、異常な改編は放送直前まで行われた。このことは、裁判を通して明らかにされた。
これまでの裁判の審議の中で、被告NHKは外部圧力は無かったと繰り返し否定し、番組の方針は当初から変わっていないとの主張を続けてきた。今回、政治家の関与が明らかにされたことで、これらが重大な偽証であったことは明らかである。
今回の番組放送を巡っては、放送中止を求める右翼の異常な抗議行動があった。中川・安倍両氏は「慰安婦」問題等の教科書記述を調べる研究会「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の幹部メンバー(中川氏は同会代表、安倍氏は同会事務局長)であり、番組への介入は、教科書問題や謝罪・補償問題、歴史認識の問題などと深く関わるものであり、政治家が番組の内容に介入した事実は、憲法が保障する表現・報道の自由を侵害した重大な違反行為であり、公共放送であるNHKが詠う「公平・公正」「不偏不党」の精神に反するものである。「裁き」をテーマにしておきながら、日本軍「慰安婦」制度が裁かれた事実が封じられた背景に政治家の圧力があったことは放送の自律を定めた放送法の精神に背くものであるだけでなく、国会議員と公共放送が憲法を踏みにじる行為を公然とおかし、市民を欺いたことは重大な違憲行為であり、断じて許すことはできない。
今回、こうした事実がNHKの内部告発により明るみに出たことに、私たちは大きな感動を持って受け止めている。裁判を通して、私たちはNHKの権力構造を目の当たりにし、制作現場の表現の自由が上層部の圧力により侵害されている事実をメディアの深刻な危機として感じてきた。このままの状況が黙認されていけば、真実の報道は制限され、市民の知る権利に甚大な影響を与えることは必至である。今回の内部告発者の勇気に心から敬意を表すると共に、内部告発者の正義と公正が「力」により潰されないことを強く願っている。
VAWW―NETジャパンは、NHKに対してこうした事実を隠し、司法の場において偽証を続けてきたことを強く抗議すると共に、番組改ざんを巡り何があったのか徹底した真相究明を行い、全ての真実を残すことなく市民の前に明らかにすることを強く求める。
また、これら事実を隠し、偽証し、責任を回避し続けてきた海老沢会長の責任は重大である。私たちは、即刻、海老沢会長が責任を取って辞任することを強く求める。また、国政を担う人物のこのような行為を許すことはできない。中川・安倍両氏が即刻国会議員を辞任することを強く求める。
二〇〇五年一月十二日
「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW―NETジャパン)共同代表:西野瑠美子・東海林路得子
同志ベルジャを追悼する
急進主義運動で成長しインターナショナルの再建を担う
ヤン・マレスキ
おそらく「かけはし」の若い読者には、同志ベルジャと言っても知らない人がほとんどだろう。第四インターナショナルが一九六〇年代の全世界的な青年の急進化の中で大きな成長を遂げ、ヨーロッパを中心ししてインターナショナルを担う新しい活動家層が形成された時代に、インターナショナルの成長と発展に大きな役割を果たしたフランス支部とインターナショナルの指導者の一人が同志ベルジャであった。彼はまた一九七一年と七三年の二度の来日を通じて、西ヨーロッパを中心とするインターナショナルの運動と日本のトロツキスト運動とを結びつけ、西ヨーロッパの若い世代の活動家と日本のトロツキスト運動との共通の問題意識を形成する上でも重要な貢献をしてくれた。われわれは彼のこうした功績を忘れないだろう――「かけはし」編集部
フランスJCRの
結成で中心的役割
一九六九年に当時のフランス共産主義者同盟が第四インターナショナル・フランス支部になるとの決定を行った時、「ベルジャ」というペンネームで知られていた共産主義者同盟の指導者の一人、ジェラール・ドゥ・ベルビツェは、当時第四インターナショナルが建設中だった国際機関へフランスからの最初の専従になるためにベルギーのブリュッセルに出発した。彼は、一九六八年五月を前後する時期の急進化の巨大な波の中でインターナショナルが急成長を勝ち取る上で大きな役割を果たした指導者の一人であった。
歴史学専攻の学生であった彼は、一九六三年にパリでフランス共産党傘下の学生組織、UEC(共産主義学生同盟)に加盟し、その後二年間にわたって、「イタリア派」から左派のトロツキスト潮流に至るありとあらゆる反スターリニズムの潮流を自分で検討した。
UECがフランス共産党指導部から政治的に決別した時、同志ベルジャはその中で主要な役割を果たした一人であった。フランス共産党と決別したこのUECが一九六六年にJCR(革命的共産主義青年同盟)を結成することになるのである。彼は、とりわけ自分の家族が住んでいたツゥルーズ地域で高校生を中心にJCRの最初の核となる活動家を結集した。
アジアのトロツキ
スト組織建設に尽力
人を魅了する巧みな語り手であった彼は、教育担当の任務をも引き受け、アルジェリア戦争、中東とパレスチナ問題、スリランカ、ベトナム民族解放闘争の歴史に関する報告を準備した。ダニエル・ベンサイドが彼について次のように書いていることから判断すると、彼の報告はすばらしいものであったに違いない。
「彼はときとして六時間以上もしゃべり続けたが、聴衆はさらに話を続けるよう要求した。かれは、まるでよくできた政治的な土木測定器具のように、ホーチミンやボー・グエン・ザップの思想をたくみに描き出してこの運動の本質を捉えることができたのであった。ジェラールは、われわれの文化をこの地上の現実の国際主義の中に定着させる上で決定的役割を果たしたのだった」。
彼はアジアに熱烈な思いを寄せていたので、世界のこの地域における第四インターナショナルの活動に自ら関わり、インド、スリランカ、日本のインターナショナルの支部の前進と失敗を追跡するようになったのはまったく当然であった。
中東において、とりわけ、レバノンとイスラエルで、彼はこの地域の活動家たちをインターナショナルに近づける上で重要な役割を果たし、レバノンでは一九七〇年に革命的共産主義グループが結成されて第四インターナショナル・レバノン支部になったし、イスラエルの急進的左翼グループ、マッペンのトロツキスト活動家がイスラエル支部を創設した。
病気と闘い映画と
歴史的研究に専念
一九七一年に、まれな遺伝性の、難聴や網膜の疾患、心筋と心臓の拍動の障害を伴う糖尿病におかされていることが明らかになり、ベルジャは自分の激烈な行動を中断しなければならなかった。一九七〇年代末から活動を少しずつ抑制していった彼は、映画と歴史的研究に専念するようになった。東欧出身のユダヤ人の革命運動に魅せられた彼は、『仕事も家族も祖国もなく FTP―MOI旅団の新聞、ツゥルーズ 一九四二―一九四四年』(カルマン・レヴィ社)――MOI(移民労働者)のユダヤ人グループのレジスタンスの歴史を描いたもの――の出版に力を注いだ。ポーランドについてマルセル・ロジンスキやアンヌ・デュルフレといくつかのドキュメンタリーの製作で協力し、またジル・シュヴァリエと協働でヴェル・ディヴ事件――ナチ占領下のパリでのユダヤ人の子どもの一斉検挙――を扱った「子供たちを忘れない」を作った。彼はまた、マルセル・トゥラードと協力して映画「自動車」(ルノー、フランスの自動車)を製作した。
その晩年、ほとんど耳が聞こえなくなり眼も見えなくなっても、そのユーモアのセンスを失わなかった。この気質は、彼が熱心に研究した東欧のユダヤ人社会から受け継いだものだった。このように眼も耳も不自由な容態にもかかわらず、彼は大声で「私はオーディオビジュアルの世界で働いているんだ」と宣言した。
同志ベルジャ、二〇〇四年七月二十五日、自分の誕生日にパリで死去。(『インプレコール』04年10月―11月号)
コラム架橋
『愛と怒り 闘う勇気』
年明けに、『愛と怒り 闘う勇気』(松井やより著、岩波書店)を読み終えた。二〇〇三年末に、「松井やより追悼一周年―女たちの戦争と平和資料館実現に向けて―」の集会に参加した時、この本を購入した。松井さんがアフニガニタンから帰国した〇二年十月七日に、肝臓がんでもはや治療が不可能とわかってからまとめたものだ。松井さんは十二月二十七日に亡くなった。
松井さんの生涯をつづったこの本で、印象に残る場面が随所に出てくる。
両親が東京山手教会を開いたこと。七〇年代初期、日本に欧米のフェミニズム運動を紹介し、これが日本のフェミニズム運動を作る重要なキッカケになったこと。
そして、一九七五〜七六年、中国で暮らした時の体験を松井さんはこう語っている。「とりわけ幻滅したのは、階級なき社会をめざしていたはずの中国がいかに階級的かということだ」、「徹底した相互監視・密告管理体制に恐怖を感じた」。
さらに、カンボジアについて。「日本で『ポルポト政権下の虐殺などという事実はなかった、帝国主義者の宣伝にすぎない』と政権崩壊後も主張し続けていた人がかなりいた。……私がカンボジアで自分の目で見たこととあまりにもかけ離れていた。……苦しんだ民衆のことは彼らの眼中にないのだろう。……自分自身で、現場に行って、当事者から確かめない限り信じないという私の原則はやはり正しかったと思う」。
松井さんはアジアなどの貧しい女性たちと出会い、その女性たちが貧困と差別から抜け出すための闘いを記者(朝日新聞)として記事にし、本として出版して、連帯の運動を作り出してきた。この運動の集大成とも言うべきものが、二〇〇〇年に行った「女性国際戦犯法廷」の実現であり、アジアからの元軍隊慰安婦の証言により、天皇と日本政府に有罪の判決を下したことである。
この法廷をNHKが改ざん放送したことで松井さんたちは裁判を起こしている。一月十二日、この番組担当者であった長井プロデューサーが「改ざんに自民党の安倍晋三、中川昭一の政治的圧力があったこと」を衝撃告発した。いままでは、右翼の圧力によるとされていたものが、明確に自民党大物右翼政治家による許し難い政治介入が明確になった。松井さんの軍隊慰安婦など戦争被害者への思いが、長井さんを告発へと動かした。
右島一朗かけはし編集長は、松井さんたちの運動に、共感し取材を重ねていた。戦犯法廷の取材のみならず、NHK裁判についても注目していた。この裁判に負ければ、「メディアの死」であるという強い危機感があった。昨年3・24判決、4・28控訴決定のシンポを解説付で長くとり上げた。そして、彼は7・28報告会を取材したが、自分の死によって報道できなかった。彼のカメラにはその時の写真が残されていた。昨日行われた1・17NHK裁判報告会には、若いアジア連帯講座の仲間たちが多数参加していた。 (滝)
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