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すべての米軍基地撤去を                かけはし2004.08.30号

米空母母港化阻止へ

原子力空母母港化阻止神奈川県集会に2800人
米空母キティホーク母港化6周年抗議


 【神奈川】八月十一日午後六時から、横須賀・ヴェルニー公園で「空母母港化31周年・キティホーク横須賀母港化6周年抗議・原子力空母母港化阻止神奈川県集会」が開かれた。反基地運動団体、教組、自治労、国労、私鉄など県内主要労組、単産、市民運動団体など二千八百人が結集した。市内目抜き通りをデモ行進して米軍基地撤去を訴えた。

基地再編強化
をねらう米軍

 「最初の十日間で戦地に展開し、次の三十日間で戦争に勝ちその後の三十日間で帰国して次の戦争を準備する」。〇三年米国防総省策定の「10―30―30計画」に沿って米政府が世界規模の米軍再編に向けた検討を進めている。その一環として、神奈川県全域(十六カ所)に展開する在日米軍基地(略図)再編についてもさまざまな案が顕在化してきている。

アジア全域へ
の即応体制作り

 キャンプ座間への米陸軍第一軍団司令部(ワシントン州)移転(十一月にも作業開始の情報あり)、厚木基地の岩国航空基地移転、そしてかねて指摘され続けてきた原子力空母の横須賀母港化などその主眼はアジア全域の紛争介入に即応できる機動性確保にあり、平時配置から有事(侵略)配置への転換をねらっている。

基地反対運動
の全県的広がり

 横須賀では今年三月のファーゴ米太平洋司令官の米下院公聴会での「高能力空母の横須賀配備」発言によって原子力空母母港化に対する地元市民の危機感が高まった。横須賀市議会は直ちに原子力空母母港化反対意見書を全会一致で可決した。
 五月には「原子力空母の横須賀母港化を止めよう神奈川実行委員会」と「原子力空母横須賀母港化を許さない全国連絡会」が結成されて全県的な運動への取り組みが開始されてきた。
 この日の集会はこうした原子力空母母港化阻止に向けた闘いの第一波として設定された。労働組合旗が林立し反基地スローガンの横断幕が並ぶ熱気ある集会となった。
 連帯あいさつ(現地報告)で、沖縄からは普天間抗議行動と辺野古をめぐる闘いの高揚、厚木からは県央百二十万県民の頭上でジェット機騒音をまき散らすキティホーク艦載機への怒り、在韓米軍基地視察と反基地日韓交流などについて報告があった。
 地元横須賀の「原子力空母の横須賀母港化を考える市民の会」代表は、「つい先日の福井県美浜の原発事故惨事と同じ構造の高濃縮機能を備えた空母が常駐すればどのような事態になるかを、頻発している原子力艦船の火災事故例を指摘しながら」米空母の母港化反対を訴えた。
 集会後のデモは米海軍基地正門前で母港化阻止・基地撤去のシュプレヒコールをあげた。
 「かけはし」神奈川読者会の仲間たちはアジア連帯講座の旗を掲げてこの日の行動をともにし、来る十月二日の全国集会(横須賀ヴェルニー公園・午後二時から)へむけた取り組みを確認した。(N)




今すぐイラクから米軍撤退を
元米兵が語るイラク戦争の実像
「戦争で人を殺したくない。私と同じような家族を作りたくない」


 八月十日、東京の中野区立商工会館で、集会「元米兵が語るイラク戦争」が開催され、六十五人が集まった。主催はアジア平和連合(APA)ジャパン、全国Fax通信、派兵チェック、日本キリスト教協議会(NCC)国際関係委員会、日本国際ボランティアセンター(JVC)などで構成する「元米兵イヴァン・メディナさんのお話を聞く会」。
 この日の集会は、自らもイラク侵略戦争に従軍し、双子の兄を戦場で失い、現在は「声を出す軍人家族の会」(MFSO)のメンバーとして反戦運動にたずさわっているイヴァン・メディナさんの報告を聞き、イラク戦争の実相とアメリカ国内の反戦運動について意見を交換するために設定されたもの。
 イヴァン・メディナさんは、広島での被爆59年8・6集会や、「日本の戦争責任を心に刻む会」の8・15大阪集会に参加するために訪日し、各地の集会で発言している。
 イヴァンさんは、パソコンを通してスライドを上映しながら、自らの経験を率直に語り、「市民には間違ったことを正す義務がある。私は戦争で人を殺したくない。私たちと同じような家族を作りたくない」と訴えて、いますぐイラク占領を終わらせ、米軍を撤退させるための活動に全力を上げることを訴えた(報告要旨は別掲)。
 報告の後、米大統領選への「軍人家族の会」の立場などについて質問が出た。イヴァンさんは、「軍人家族の会」は最悪の大統領であるブッシュを落とすという立場から民主党のケリー候補を支持しているが、ケリーが当選した場合は二週間の猶予を与えた後、彼が撤兵のための具体的措置を取らない場合には、ケリーに対しても自分たちの要求を突きつけて、運動を広げていくと説明した。(K)

イヴァン・メディナさんの報告から

戦闘員と非戦闘員の区別がつかず全員を攻撃した


 私は二〇〇一年三月に陸軍に入隊した。まだ十九歳だった。入隊から半年後に起こった「九・一一テロ」は第二次大戦後初めてといっていいほど「結束したアメリカ」を作りだすことになった。
 その中で、二〇〇二年十一月に「声を上げる軍人家族の会」(MFSO)が二家族で結成され、家族たちの反戦運動が始まった。それから二十一カ月後のいま、MFSOへの参加は千六百家族にまで拡大した。うち三十家族は「ゴールドスター勲章」(戦死者に与えられる勲章))を授与された兵士の家族だ。
 私の属する部隊は二〇〇三年三月十九日のバグダッド爆撃から六十八時間後に、クウェートから国境を越えてナジャフに侵攻した。最初に見たイラク人の死者は子どもだったが、多くの子どもたちは旗を振って私たちに「ありがとう」と話しかけてきた。
 私たちはいたるところに焼け焦げた死体を見た。ナジャフに着くまでに私たちの部隊も一人の兵士を失った。サダムのフェダイーン(イスラム戦士)部隊は、女性や子どもまで戦場に連れてきていた。われわれは、どんなイラク人にも食料や水を分け与えてはいけないという命令を受けていた。だからある友人の話では、おなかを空かしたイラク人の前で敵の食料を燃やしてしまったこともある、という。
 侵攻するにつれて、無辜(むこ)の市民たちが逃げようとするのを目撃した。われわれは戦闘員と非戦闘員の区別がつかず、全員を攻撃した。
 イラク人たちは政府機関の建物などから物を盗み出していた。私たちはそれを見逃しただけではなく、米軍兵士の中でも金品を盗み出す者がいた。私の知る限り、そうした窃盗行為によって罰せられた米兵はいない。
 昨年五月一日、ブッシュ大統領は「主要な戦闘は終了した。われわれは勝利した」と演説した。われわれは主要な作戦が終わったら本国に帰還できるという約束だったが、その約束はついに履行されなかった。ファルージャにも派遣されたが、その時は毎晩のように戦闘が行われ、銃声が止むことはなかった。
 私が除隊した後、昨年十一月十四日に双子の兄のアービングが戦死したという知らせを受け取った。姉と私たち兄弟の三人とも軍隊に入っていた。兄からは、爆撃を受けたイラク人の子どもが兄の腕の中で死んだという話を聞いていた。兄は即死したという知らせだったが、実際は十時間以上苦しんだ上の死だった。兄は二十四時間の警備任務についた後、すぐに移動し、十分な睡眠も休息も取らないまま銃撃を受けたのだという。
 兄の死を聞いたときに、かつてない苦痛が私を襲った。こういう苦しみを敵にも与えてはいけないと思った。PTSD(心的傷害後ストレス傷害)に襲われている米兵も多い。現在、イラク戦争開始後のイラク人一般市民の死者は、最低でも一万千三百一人、最高では一万三千三百五人に達している(七月末までの数字)。米兵の死者は九百二十五人になる。イラク人もアメリカ人もこの戦争の犠牲者だ。私たちは仲間の兵士たちをいますぐアメリカに連れて帰りたい。そしてイラクの真の再建を手伝いたいと思っている。
 市民たちには間違ったことを正す義務がある。市民が協力すれば世界を変えることができるという希望を私は持っている。私は殺したくない。私たちと同じような家族を作りたくないのだ。(報告要旨:文責編集部)                      

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