もどる

七月参院選と日本共産党の大敗             かけはし2004.08.2号

98年「不破政権論」以来の路線的誤りの根本的総括が必要である

樋 口 芳 広(日本共産党員)



はじめに

 二〇〇四年七月十一日に行われた第二〇回参議院議員選挙の結果、日本共産党は、比例代表選挙では四議席を確保したものの、選挙区選挙では七の現有議席をすべて失い、全体としては改選十五議席のうち十一議席を失うという大敗北を喫した。比例代表選挙での獲得得票は四三六万票(七・八〇%)であった。
 中央委員会常任幹部会は、この選挙結果について七月十三日付で声明を発表した。そこでは、訴えの内容は正しかったが「二大政党」の流れが強力につくられるもとで国民の世論を大きく動かすにはいたらなかった、とされている。この常任幹部会声明によれば、「この参院選の総括は、党内外のご意見やご批判に、真摯(しんし)に耳を傾けながら、きたるべき中央委員会総会でおこなう」とのことである。
 この中央委員会総会において、指導部のとった政治路線や方針は間違っていなかったが「二大政党」の強力な流れのなかで党の主張が届ききらなかった、というレベルの総括にとどまることは許されない。そのような思考の枠組みからは運動量を増やすという対策しかでてこない。こうした不誠実な総括の繰り返しでは、末端の党員を疲弊させるだけである。それは、より広範な党員の活動量の低下と一部党員への負担の集中という事態を招き、党組織の空洞化をいっそうすすめるであろう。
 一九九八年以来、不破=志位指導部がとってきた路線は、「二大政党」の流れの形成を後押しこそすれ、決して押しとどめるようなものではなかった。今回の選挙結果は、昨年の総選挙での敗北に続いて、不破=志位指導部の政治的路線の必然的帰結である。一九九八年以来の指導部の路線の誤りにまで踏み込んだ総括がなされなければ日本共産党の「反転攻勢」はありえない。
 憲法九条の改悪が本格的にねらわれている情勢のもとで、日本共産党がこのまま衰退の一途をたどることは、たんに日本共産党だけの問題ではなく、新自由主義と戦争に反対して闘うすべての勢力にとって重大な困難をつくりだすであろう。日本共産党が革命政党として再生する可能性があるかどうかということとは別に、日本共産党の一路衰退はなんとしても避けなければならない事態なのである。
 本稿では、一九九八年以来の不破=志位指導部の路線が「二大政党」の流れを結果として後押ししてしまったことをあきらかにし、指導部が最低限なすべき転換、左派党員にもとめられる行動について考えてみたい。

1 九八年以降の「過渡的状況」について

 不破=志位指導部は、一九九八年四月に開かれた二一回大会期二中総の不破委員長(当時。以下の肩書きについてもすべて同じ)の報告で、新進党の解体と国会での野党共闘の前進という事態を受けて、それまでの「総自民党化」という政党状況の評価を変更した。このときから二〇〇三年総選挙の直前までの不破=志位指導部による政党状況の見方の基本は、「わが党以外の野党が、『反自民』をかかげる限りでは野党性をしめすものの、国政の基本問題では自民党政治の枠内にとどまり、その枠組みを打破する立場を確立できていない――こうした二つの側面をもつ過渡的状況」(二〇〇三年十二月の二二回大会期十中総における志位委員長の報告)というものであった。
 当時の政党状況は確かに「過渡的状況」といえるが、一体どういう状態に向かう「過渡的状況」だったのか? 一九九〇年代以降、日本資本のグローバル化に対応して、新自由主義的改革と戦争国家化を強力に推進しうる政治体制としての保守二大政党制への志向は財界の中に強力に存在していた。一九九三年の細川非自民連立の成立や一九九四年の新進党の誕生などはその現れである。
 一方で、一九九〇年代を通じて、日本共産党だけでなく旧社会党も含めた革新勢力総体としてみれば得票数が傾向的に低下していた。一九九八年以降、自民党政権への対抗上、日本共産党を排除しない野党共闘が一定前進するという事情はあったにせよ、力関係からいって、この時期においても保守二大政党制の確立へと向かう流れが基本的傾向であったことは間違いない。このことをふまえるならば、この時期の「過渡的状況」とは、自民党と並ぶもうひとつの有力な保守政党がいまだに確立されていないという「過渡的状況」であると捉えられるべきであった。
 ところが、不破=志位指導部は、限定的な政策課題で日本共産党を排除しない野党共闘が少しばかり前進したことを、「自民党政治と国民の利益の対立の一定の反映」(二一回大会期二中総での不破委員長の報告)とし、条件次第では自民党政治の枠を抜け出す政策的一致点が広がっていく可能性があるかのように過大評価してしまったのである。
 この背景には、一九九五年以降の日本共産党の「歴史的躍進」についての甘すぎる見方があった。不破=志位指導部は、日本共産党の空前の得票増に浮き足立ち、一九九七年の第二一回党大会決議においては、「いまおこっている躍進の流れは、六〇年代から七〇年代前半の躍進とくらべても、いっそう強固な基盤のうえにたったものである」とまで言い切ってしまったのである。これは政治戦線における日本共産党の政治的比重を実際よりもかなり大きく見積もることになり、日本共産党を排除しない野党共闘の前進の政治的意義を過大評価してしまうことにつながった。
 しかし、冷静に考えてみるならば、この「歴史的躍進」の主要な要因は、日本共産党の綱領的路線への積極的な支持が広がったというよりも、社会党の与党化などによって行き場を失った反自民票の一部が一時的に日本共産党に流れ込んだことにあることはあきらかであろう。
 新自由主義的改革によって離反した自民党支持層の一部が共産党に流れたという要素があったにせよ、そのような要素だけでこの間の劇的な得票増の全体を説明できるわけではない。一九九五年以降の「歴史的躍進」は、革新陣営の全体としての衰退、大衆運動の停滞と後退、党組織の高齢化と空洞化がすすむなかで実現されたものである。それは、一九七〇年代とは比べ物にならぬほど危うい地盤の上に立ったものであった。

2 不破政権論以来の急速な右傾化

 このような厳しさを直視するのであれば、指導部のとるべき路線は、下からの大衆運動の再構築によって広範な無党派層に浸透するとともに、新社会党や革新無党派との選挙協力も含めた左派戦線の再構築によって、新自由主義的改革と戦争国家化に対決する護憲・革新の第三極づくりに取り組むという長期的戦略であった。ところが、実際に不破=志位指導部が取った路線はそれとはまったく異なるものであった。その画期をなすのが、一九九八年の不破政権論である。
 これは、同年の参院選の大躍進を受けて不破委員長が発表したものであり、二一回大会期二中総における政党状況の見方の転換を土台として、野党による暫定連合政権の樹立の可能性について触れたものである。これは直接的な政権構想の提唱ではないとされたが、近い将来に安保廃棄を棚上げにして民主党などと政権が組めるかもしれない、との思惑があったことは間違いない。これ以降、不破=志位指導部は、民主党との連立政権の可能性に幻惑され、民主党への批判を弱めると同時に、急速に路線の右傾化を進めるという二重に誤った路線に深く足を踏み入れることになる。
 民主党は、旧社会党出身の議員を一定数抱えるなど複雑な要素をもってはいたものの、そもそもの出発点からして、都市部の大企業正規労働者を主要な支持基盤にした新自由主義的な志向性の極めて強い政党であった。
 経済政策の面では、自民党の不徹底さを右から批判し、「小さな政府」の立場からもっと大胆に規制緩和や民営化や社会保障予算の削減を主張し、消費税増税にも賛成であった。また、外交・安保政策の面でも、民主党は有事立法に賛成し、自衛隊の海外派遣にも反対していない。「論憲」として憲法「改正」に向けた世論づくりを画策してきたし、一九九九年には、鳩山由紀夫党首が、憲法「改正」を全面的に主張する論文を発表しさえした。しかし、不破=志位指導部はこれといって目立った批判をおこなっていないのである。
 二一回大会期五中総(二〇〇〇年一月)で志位書記局長は、「野党共闘の政治的一致点は現状では大変部分的なものですが、それを大切にしながら誠実に共闘を積み重ねていくならば、さらに一致点が広がっていくことはありうることであり、わが党はそのために力を尽くすものであります」と述べている。不破=志位指導部は、民主党の反動的本質に対する系統的な批判よりもむしろ、民主党との政治的一致点のいっそうの拡大の追求を優先したのである。
 しかも、民主党との政治的一致点の拡大は、民主党を左傾化させる――そもそもそれはムリな相談だったが――努力よりもむしろ、日本共産党自身が右傾化することで追求された。二〇〇〇年の第二二回大会決議における自衛隊活用論や、愛子誕生の際の国会での賀詞決議への賛成、海上保安庁法「改正」への賛成、海上保安庁による不審船撃沈への沈黙など、革新の諸原則を次々と投げ捨てて一連の「現実的」対応をすすめるのである。これは、民主党に連立相手として認めてもらうための涙ぐましい努力だったといえるだろう。
 また、不破=志位指導部は、財界団体との懇談も積極的にすすめて「日本改革」の提案を説明し、日本共産党が財界人にとっても安心して政権を任せられる党であるとのアピールもおこなった。二二回大会決議では、「わが党は、この間、幅広い経済人、財界人と懇談や対話をおこなってきたが、そこでは日本経済の現状をたてなおすには、わが党が提唱している経済の民主的改革しか道はないという、広範な認識の一致がえられた」など、およそ共産主義を標榜する政党とは思えないことを誇らしげに述べるまでに至る。
 さらに、二〇〇一年五月には、志位委員長や穀田国対委員長らが、財界団体の中でも保守「二大政党」づくりにもっとも熱心であった経済同友会の代表幹事たちと懇談し、「日本共産党が『大企業は敵』と考えているのは誤解」と述べて「日本経済の健全な発展」のために「相互理解を深めて真剣に議論して一致点を見いだそう」と訴えたのである(「しんぶん赤旗」01年5月10日付)。

3 路線的誤りへの警告は行われてきた

 二〇〇〇年の総選挙における日本共産党の議席減と二〇〇一年の小泉政権の発足によって、民主党との暫定連立政権構想が現実味を持たなくなってくると、それはほとんど問題にされることはなくなった。不破=志位指導部は、異常に高まった小泉人気の中で、新自由主義的な小泉「構造改革」と戦争国家化にたいする対決姿勢を明確にするようになった。
 この段階で、それまで急速にすすんでいた右傾化にはさすがに一定の歯止めがかかったといえる。しかし、基本路線の右傾化が根本的に見直されたわけではなく、二〇〇四年の二三大会で、綱領の全面的な改良主義的修正がおこなわれた。これは、自衛隊活用論などを後景に退かせてはいるものの、基本的にこの間の右傾化路線を綱領レベルにおいて確認するものとなっている。
 不破=志位指導部が、民主党への批判を本格的に始めたのは、二〇〇三年十一月総選挙の直前である。民主党と自由党の合併による新民主党の誕生という事態を、「二大政党」を目指す財界戦力による政党状況の激変ととらえ、これへの批判を徹底的におこなう、という戦術をとったのである。これは適切な戦術だったが、転換があまりに遅すぎ、そのツケはあまりに大きかった。このことへの総括はいまだ極めて不十分にしかなされていない。
 総選挙での惨敗を受けて開催された二二回大会期十中総では、志位委員長が、「この財界戦略が、政党地図――政党状況の変化という形で顕在化したのは解散の直前のことでした。しかし、財界戦略そのものは、昨年来からのものでした」として、財界戦略は二〇〇二年から現れ始めていたのに党中央はこれに気づかず的確な分析と批判が遅れた、という自己批判をおこなった。
 このような自己批判は異例のことであり、それ自体は評価できるが、反省すべき期間を二〇〇二年以降に限定している点で、極めて不十分なものである。遅かったというのは二〇〇二年以降というレベルではなく、少なくとも一九九八年の不破政権論にまでさかのぼっての総括がもとめられるものである。
 そもそも「二大政党」を目指す財界戦略は一九九〇年代前半以来一貫したものであり、自民党にかわりうるもうひとつの保守政党づくりがさまざまな形で模索されていた。二〇〇二年以来、それがいっそう露骨な直接的な介入の形態を取り始めたということにすぎないのである。
 このこと自体は志位委員長も認めている。しかし、一九九八年以来、保守「二大政党」を目指す財界戦略の危険性を暴くことよりも日本共産党の政権入りを財界に容認してもらうことに力を入れてきたのは、ほかならぬ不破=志位指導部自身なのである。これは、危険な財界戦略に抵抗する足場を自ら掘り崩すことになった。
 また、民主党についていえば、この党は自由党との合併によって突然に反動化したのではない。その反動的な本質がよりはっきりと示されるようになっただけのことである。しかし、不破=志位指導部は、一九九八年から二〇〇三年にかけて、民主党にたいして系統的批判を本格的におこなうことはなかった。このことが、労働者市民の間に民主党への幻想を蔓延させることに一役も二役も買ったことは間違いない。
 一九九八年以来の不破=志位指導部の路線が、結果として「二大政党」の流れの形成に加担してしまうことになったのはあきらかである。これは決して後知恵からする批判ではない。こうした不破=志位指導部の路線に対する批判は少数ながら確実に存在した。
 一九九九年二月にインターネット上に登場した現役党員による批判的サイト『さざ波通信』は、一九九〇年代後半の「歴史的躍進」なるものは全体としての革新勢力の衰退の中で実現された一時的なものにすぎないこと、民主党が反動的な本質を持った政党であり日本共産党にとって政権共闘の相手にはなりえないことを繰り返し指摘し、不破=志位指導部が一九九八年以来の路線をとり続けるかぎり、致命的な結果を招きかねないことを警告し続けた。
 また、渡辺治氏も、民主党の新自由主義的傾向について繰り返し指摘し、二〇〇〇年総選挙における日本共産党の後退については、「自民党政権打倒最優先の立場から、民主党が新自由主義改革を掲げていたにもかかわらず、野党共闘を配慮して批判を抑制し、自民党批判に終始した」(『「構造改革」で日本は幸せになるのか?』萌文社、二〇〇一)として、不破=志位指導部の路線に対する慎重だが公然たる批判をおこなった。ところが、不破=志位指導部はこれらの批判を無視し続け、自ら致命的な結果を招いてしまったのである。不破=志位指導部が、「二大政党」の流れの強まりを自らの主体的行動とは無関係な客観的要因であるかのようにいうことは断じて許されない。

4 指導部と党員に何が求められるか

 日本共産党のこれ以上の後退を避けるために、いま、指導部には最低限以下のことがもとめられている。
 第一に、新自由主義的改革と戦争国家化への対決姿勢を明確に保ちつづけ、「二大政党」の反動的本質をねばり強くあきらかにしていく長期的戦略を持つことである。この点で、常任幹部会声明が、憲法九条改悪や消費税増税反対のたたかいを展開することで「二大政党」の本当のねらいをあきらかにしていく、という方針を提起していることは基本的に評価できるものである。
 第二に、以上のような方針から動揺しないための保障として、不破政権論以来の民主党への系統的批判の弱さ、財界団体への擦り寄りが、今日の強力な「二大政党」の流れの形成を後押しする結果になってしまったことを明確に認めて総括することである。
 第三に、社民党や新社会党、革新無党派などと協力して、革新勢力全体の底上げと再編に努力することであり、選挙戦術の面でもこれら諸勢力との積極的で大胆な協力をすすめていくことである。
 左派党員は、きたるべき中央委員会総会に照準を合わせ、支部会議をはじめとする党の各種会議で以上のようなことを主張し、可能ならば常任幹部会にたいして決議を上げ送付するよう努力すべきである。
 さらに、中長期的にいえば、左派党員には、以下の諸点での取り組みがもとめられるだろう。
 第一は、下からの大衆運動の再構築に率先して取り組むことである。その際、他の革新的諸党派や市民運動などとの従来の枠を超えた共同を意識的に追求しつつ、各種の運動課題を反戦と反グローバリズムの国際的な視点からとらえる必要性についてあきらかにしていく努力が必要である。
 日本共産党の新自由主義的改革と戦争国家化への対決姿勢は、改定された綱領にあらわれている不破哲三の特異な帝国主義論――経済的土台における資本輸出と政治的上部構造における戦争政策の機械的切り離し――による制約という根本的弱点を持っている。たとえば、憲法九条改悪の策動がもっぱらアメリカからの要求のみにもとづくものとしてとらえられ、日本資本のグローバル展開と関連するものとはとらえられないのである。具体的な運動での取り組みをつうじて、こうした弱点を実践的に克服していく足がかりを築いていく必要がある。
 第二に、こうした運動の構築を通じて若い活動家を獲得し党組織の若返りをはかることである。そのためには、若者の不安定雇用の問題を取り上げた運動の発展は極めて大きな意義があるだろう。
 第三に、党運営の民主的改革をはかることである。最低限、機関紙誌上で、党の路線・政策について、指導部への公然たる批判も含めて、日常的にオープンに議論できる状況の実現をもとめていかなければならない。これは極めて困難な課題だが、従来の枠を超えた共同の広がりによる大衆運動の構築と党組織の若返りがそのテコになりうるだろう。また、この課題の実現は逆に、他の革新的諸党派や市民運動などの中にある日本共産党への不信感の解消と若い活動家の党への獲得にとって大いにプラスになるであろう。
 以上のことは、日本共産党が革命政党として再生する可能性があるかどうかということとは別に、日本共産党の一路衰退を避けるためには、最低限必要な行動である。たとえ、結果として党全体の革命的再生が不可能であったとしても、その努力は新たな反資本主義的な左翼政党の結成のたたかいの過程でかならず生きてくるはずである。必要な努力を惜しんではならない。


もどる

Back