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 コラム「架橋」                           かけはし2004.08.23号

「かけはし」編集長の死



 八月十一日午後九時十五分、右島一朗(「かけはし」編集長)の連れ合いさんが泣きながら「右島さんが死んじゃったよ」と電話があった。それから八月十三日、右島はお骨となって東京に帰ってきた。お骨はまだ火葬したばりで熱く重かった。右島の思いがここにこめられているようであった。
 私が右島と別れたのは八月六日であり、その日の夜に右島は静岡の赤石岳に向かった。「かけはし」休刊日が当初予定より、一週間早くなったからだ。もし発行日がずれなかったら、今回の遭難はなかったのかもしれない。
 八月五日の「かけはし」発送作業の時、いつになく右島は興奮していた。
 「次号一面に憲法改悪阻止決戦について書かなければならない。政府は憲法改悪によって9条改悪だけでなしに、政治・社会構造全体を天皇制を『国柄』として戦前型の天皇制を『国体』とする右翼的・戦争のできる体制として確立しようしている。これを許すかどうかは、今後の階級闘争にとって決定的なメルクマールになる。われわれはこの点でとらえ方が不充分だ」と右島は強調した。私が、その「『戦前のような』というとらえ方は少し違うのではないか」と意見を言うと、顔色を変え「なぜ、お前はわからないのか。『日の丸・君が代』だって強制がこれほどになるとは予想できなかった。しかし、それが現実になっている」と即座に反論が返ってきた。
 「オレの気分は完全に戦闘モードに入っている」と高揚しながら、あれもこれもやりたいと右島はしゃべりまくった。
 今回の事故を当人もまったく予測していなかっただろう。右島から、山登りで命を落としそうになった事態について何回も聞かされてきた。その度に「娘と連れ合いさんのことを考えろ。彼女たちを悲しませていいのか」「『かけはし』はどうするんだ。お前に代わることはだれもできないぞ」と私は、口をすっぱくして危険を回避するように言った。彼は黙ってうなづくのみであった。
 日本支部の崩壊以後、「かけはし」編集は、編集長たる右島に過度に集中した。彼は「かけはし」編集に手をぬくことを一番きらった。遅くまで「かけはし」の割付・見出しつけをし、原稿を書きまくった。週刊で出す新聞の編集は一時も休む暇がない。一年中緊張しっぱなしである。この緊張感から意識を解放し、次のために英気を養うのが「山登り」であった。それもロッククライミングであり冬山であった。ここでも彼の性格は妥協を許さず、絶えず肉体のギリギリのところまで自己を追い込むような「危険」な登山であった。右島にとって「山は命の泉」であり、活動と切っても切り離せないものとなっていた。
 東京駅で右島を迎えた仲間たちに対して、連れ合いさんは「右島は今まで赤石沢に行きたかったが、行くことができないでいた。こんな結果になってしまったが、その願いがかなえられてよかった」と気丈に語った。
 右島は趣味人でもあった。クラシック、特にモーツアルトを愛し、ゴッホやモジリアーニの模写をした。切り絵はお姉さんの話では子どもの時にテレビに出たことがあるほどのプロ並みだった。料理の揚げ物は「天才的」だと評価もされた。もちろん、写真は言うに及ばず、立て看や横断幕は下書きなしでスッーと書いてしまう。なんでもこなす器用さだ。
 毎週月曜日、朝早く私と右島で原稿の入り具合いなどを打ち合せして一週間が始まった。その右島はもういない。この難局を同盟一丸となって乗りきっていくしかない。
        (滝)

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