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メキシコからの便り                  かけはし2004.07.26号

新自由主義経済の夢と現実

1 貧富の階段


 例年よりも一カ月近くも早く、雨季に入ったクエルナバカの町は、鮮やかな緑の木々の中に沈み、その所々から教会の丸屋根や尖塔をのぞかせている。メキシコシティを取り囲む三千メートルを超す山々から南へと流れ落ちる水流は、山肌を削り取り、小さいが深くて急峻な谷、バランカを作り出す。
 この幾筋かのバランカに刻まれた、千五百メートル近い高原の上にクエルナバカの町は広がっている。バランカの底には細い水流が、おそらくクエルナバカには下水道設備がなく、家庭排水や汚物のすべてがバランカに流れ込むのだろう、たくさんのゴミを含んだ汚い水流が流れ、雨で増水した後は、合成洗剤の泡が水面を覆ってしまう。
 その汚い、腐臭さえ発する水の流れのすぐそばには、もちろん人が住んでいる崩れかけた家やバラックが立ち並び、その上部にはもう少しましな家が、その上にはもっとましな家がと階段のように続いている。そしてその最上部のきれいな家のその奥には、高い石の塀とバラ線と緑の巨木に囲まれた、プール付きの広い庭のある豪邸が隠れている。
 クエルナバカを森の中の町のように見せている、巨大な木々の多くは、それらの豪邸の庭木なのだ。クエルナバカ、人口三十二万人、メキシコ革命の英雄、エミリアーノ・サパタが拠点としたモレーロス州の州都。メキシコシティの金持ちが大気汚染の首都と避けて、週末を過ごす町であり、アメリカの年金生活者が多く住む町でもある。
 メキシコは豊かになったのか。
 相変わらず町の角には物乞いの人たちがたたずみ、ソカロ(町の中心にある広場)では、大人たちに混じって多くの子どもたちが土産物を売り歩いている。観光対策とかで道路から追い出された小さな露天は、ソカロに場所を移して密集し、メキシコシティの地下鉄の車両にはひっきりなしに物を売る人たちが入ってくる。そして道路の交差点にも停止した車のフロントガラスを拭いたり、芸ともならない芸をして車の窓に手を伸ばす若者や子どもが立っている。そこには十三年近く前に訪れたメキシコとなんら変わらないメキシコがある。
 メキシコは豊かになったのか。
 緑の木々の奥にたたずむ豪邸のあちこちには「VENDE」(この家売ります)の看板が貼り付けられ、その数も並大抵の数ではない。メキシコが新自由主義経済の寵児だった一九八〇年代の終わりから九〇年代の初めにかけて、クエルナバカには別荘の開発分譲ブームが訪れる。そして九四年のメキシコの通貨危機。
 南国の、それも雨の多いクエルナバカでの草木の成長は早い。「VENDE」の看板の掛かった住む人のない外壁や石塀はブーゲンビリアの花やツタで覆われ、それは歩道にまで達している。そして庭木は屋根を覆い、これまで枝を大きく道路へとはみ出させ、まるで廃屋を思わせるものまである。
 これらの豪邸が売れ残ったものなのか、持ち主が維持できなくなって手放そうとしているものなのかは、もちろん私にはわからない。しかし買い手がつかないことだけは確かであり、メキシコ経済のバブルの夢とその結果の夢の一つであることは間違いない。
      (尾形 淳)

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