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韓国はいま                       かけはし2004.6.21号

87年6月民衆抗争の歴史と意味は
新自由主義体制内部に吸収された



6月抗争―独裁との死を賭した闘い

 解放以後、帝国主義と独占資本、そしてそれらの支配権力を維持してきた各独裁政権は、ひたすら韓国民衆の背骨の中に食い込んで寄生してきた一握りのゴミのような集団だ。資本と政権に踏みにじられてきた労働者民衆は恒常的な暮らしの危機と苦痛の中におかれていた。したがって彼らの怒りもまた常に彼らの胸に中に刻み込まれていた。怒りに満ち満ちた労働者民衆は、これらに立ち向かい、おびただしい血を流し、また数多くの烈士や犠牲者を残したが、支配勢力の歴史は卑劣にも繰り返された。
 イ・スンマン独裁に抗拒した4・19革命は、パク・チョンヒの軍靴によって未完の革命として残るとともに、革命のしんがりにしがみついていた幾人かは支配勢力の一部として加担した。革命の主体たる労働者民衆は再び支配と圧制の泥沼の中で息をひそめて生きなければならなかった。
 維新政党を追い出して軍事独裁に終止符を打とうとして立ちあがった5月光州の革命的闘魂は、凄絶な戦闘の末にチョン・ドゥファン軍事独裁の火力によって再び踏みにじられてしまった。労働者民衆の5月光州の凄惨さを抱いて再び暴圧的支配に耐えなければならなかった。
 そしてついに87年6月がやってきた。チョン・ドゥファン独裁権力はパク・ジョンチョル、イ・ハニョルという若き2人の青春を奪ってまで権力を維持しようとした。すでに何千人も殺して権力を獲得したのだから、2人の命を奪うぐらいは何でもなかったのだろう。
 怒った民衆は連日、街頭を埋め尽くし、彼らの怒りは火炎ビンや石つぶてとなって支配勢力の心臓に向かって飛んでいった。奴ら支配勢力は催涙弾と白骨団(戦闘警察)によって荒っぽく弾圧してきた。奴らのうちの強硬派は軍隊を投入しようとした。抵抗する民衆は、いつでも死を辞さずとの態勢で立ち向かった。支配と抑圧に立ち向かった不退転の民衆、このように民衆の力は実に偉大だった。

議会政治の枠に溶解した革命的怒り

 6月の抗争は「6・29宣言」によって一段落した。7月9日のイ・ハニョル烈士の葬列式を最後に、もはや大規模な群衆集会は消えさった。人々はノ・テウの「宣言」を降服として受けとめた。人々はそれぞれに勝利を祝い、今度こそやっと民主主義が花開くだろうと考えた。残ったのは年末の大統領選挙で「民主主義の人士」を大統領として選ぶこと以外にはなかった。
 官権と金権を武器とする軍事独裁支配勢力に対決して3人のキム氏が立った。人々は声高に「候補の単一化」を叫んだが、民族主義陣営では、いわゆる「自主的民主政府樹立」のためにDJ(デジュン)への批判的支持を宣言した。軍事独裁の完全な解体と民衆の民主主義争取と独自的政治勢力化を訴えていたペク・キワン先生は、これらの小ブルジョア勢力によって挫折せざるをえなかった。
 6月抗争で表れた民衆の怒りは、このように運動陣営の内部から崩れて行き、「大統領選」という空間で解体されてしまった。だが振り返ってみれば、このような「民衆の怒りの解体」は当然の帰結だった。労働者民衆の本質的根源は帝国主義超国籍資本と南韓独占資本の搾取と支配秩序によってひき起こされたものであるにもかかわらず、それに抵抗するやり方は「護憲撤廃、独裁打倒」という民主主義的制度の争取運動に限定されたものであったからだ。
 これは、だれの責任でもない。運動を率いていた当時の「国民運動本部」の指導部をはじめ、運動に参加した大衆のすべてが自分たちが持った怒りの本質を理解できなかっただけだ。そして何よりも、これらの人々すべてが自らを「民衆」というよりは「民主市民」と呼び、またそう呼ばれることを一層、好んだからだ。根本的に6月抗争は民主的変革を最後まで完遂する変革的な階級の主体が形成できなかった状況、そしてその状況にあっていくばくの小ブルジョア的運動指導部による路線設定が持っている限界を示している。
 7〜9月に労働者大闘争があったとは言うものの、その闘争は労働3権にもとづいた民主的権利争取の運動であったのであり、この闘争によって労働者階級が1つの勢力へと成長したとは言えるが、その勢力は政治的に意味のある階級的変革の主体としての勢力にはなれなかった。6月抗争と12月の大統領選挙は連結できる性質のものだが、7〜9月は6月および12月と連結できない限界があった。当時の労働者階級は韓国社会において意味ある勢力となれなかった。
 こうして見るなら、遠くは4・19から、近くは5・18から続いてきた民衆の民主・変革的熱望は6・10において限界に到達したものと見なければならないだろう。それまでの革命的抵抗はすべて暴圧的な支配勢力から直接的な弾圧によって挫折させられたけれども、6・15が提起した民主的擬制と大衆の怒りは支配勢力が作った迂回路の中で消えてしまったからだ。
 革命的怒りが民主主義代議制度の中で溶解してしまったという事実は、韓国において新たな支配秩序が成立可能だとの事実を物語っている。実際にノ・テウ政権以後の韓国の政治地形は労働者民衆には背信とギマンの政治史にほかならないことを見せつけている。6月抗争はキム・ヨンサム、キム・デジュン、そしてノ・ムヒョンに至るまで、ブルジョア自由主義の政治勢力が登場できる背景となってしまったのだ。


支配勢力の分派となった民主化勢力

 87年12月は、いわゆる「民族民主運動勢力」にとっては悪夢のような分裂と敗北の辛い記憶を残した。軍事独裁の延長であるノ・テウ政権はアメとムチによって自らの支配体制を構築していった。執権初期、与小野大の政局を迎え、各種の民主的措置を施恵的に持ち出した後、ムン・イックワン牧師の訪北を起点に公安政局へと方向を変えたりしもした。けれども与小野大の政局にあって無差別的な公安弾圧によっては効率的な支配秩序を形成しがたいという事実に、資本と政権は遂に「3党野合」を挙行した。
 自称「文民政府」の頭目キム・ヨンサムはこのように軍事独裁との野合によって権力の座に昇るとともに、こうすることによって軍事独裁を「確実に」終息させた。このギマン的な政権に数多くの学者、文人、企業家、弁護士などなどが「文民政府」の走狗になろうとして、群らがらるハエのように飛び込んだ。そして「改革」を主唱し、ふれ回った。
 これらの人々は、いまや国家が民主化されたのだから新しい時代にふさわしく変化しなければならない、と主張した。グローバル化の時代には「国家の競争力」が最も重要なので全国民は力を合わせるべきであり「苦痛の分担」をしなければならない、と語った。6月抗争が生んだ最初のパロディであり、「民主化闘争勢力」が「支配勢力」に転換した最初の事例はこのように推移した。
 続いてキム・デジュンの「国民の政府」が誕生した。人々は今度こそ初めて政権交替が実現されたのであり民主主義勢力が完全に勝利した、と語った。けれどもこの場合も実際には維新政党キム・ジョンピルとの野合によって政権を創出したのだった。また、キム・デジュンの周辺にいた、いわゆる「東橋洞の家臣」たちは、かつて維新独裁に抵抗した民主化の闘士と言うよりはブルジョア議会政治の中で腐りに腐った「利権政治屋」にほかならなかった。
 それにもかかわらず、これらの「国民の政府」にも権力を追い求める燈蛾が群がった。学界や芸術界、女性界などからはもちろん、民族主義勢力や労働運動圏など、いわゆる「在野運動勢力」も大挙(?)結集した。彼らの名分は「民主主義と市場経済の併行発展」であったのであり、実際のところ、その本質は労働者民衆に対する暴力的な構造調整にほかならなかった。
 民主化勢力の執権の2度目は笑いのネタとして嘲笑するどころではなかった。労働者民衆は、これらの民主化勢力から手ひどい血涙を強いられたのだった。

ついに新自由主義的支配者となった

 先の4・15総選挙では、「民主勢力」が名実兼ね備えた支配勢力として登場することとなった。「参与政府」という行政権力とともに議会権力まで争取したからだ。またさらに重要なのは、かつてのキム・ヨンサム、キム・デジュン政権が行政府や議会で守旧反動勢力と結託したのとは違って、それらと完全に絶縁して独立的に政府や議会を掌握したからだ。こうしてノ・ムヒョン政府と開かれたウリ党は実際に韓国の支配権力の地形を「親日・崇米―守旧・保守―権威主義」から「親米―合理的保守―自由主義」へとひっくり返す一大事に成功した。
 ノ・ムヒョン政権と開かれたウリ党は過去のどの政権、どの執権与党とも違って、爆発的な大衆的支持を得ている。彼らは権威主義と縁故主義を拒否する新たな時代の新しい期待を全身に抱えており、過去の古い支配勢力の痕跡を一挙に吹きとばすかのような勢いで「改革のドライブ」を加速化する態勢だ。インターネットの大衆化と市民社会の発展によって彼らの「改革」は社会の文化的な変動とともに呼吸している。先般の弾劾政局でのキャンドル集会で示されたように、彼らの「民主主義」と「改革」は実に恐ろしいほどに成長した。
 人々は「今度こそ本当に」全国民の願いで民主主義を達成し、これらの民主勢力が過去の守旧的・権威主義的勢力を完全に追い出し、本当の「参与政治」を実現できるだろう、と語る。各種の自由主義の新聞や放送はもちろん、あまつさえ当の開かれたウリ党の間でも、彼らは6月抗争の真の継承者であり「民主主義と改革の化神」であることを何はばかることなく語っている。
 キム・グンテを初めとする在野派や全大協出身の10余人は実際に6月抗争を率いた指導部だった。したがって彼らが6月抗争をめぐって持っている感懐は特別なものであり、マスコミからそのようにスポットライトを浴びるのも決してオーバーとは言えない。結局、韓国の政治史においてノ・ムヒョンと開かれたウリ党の成功は、6月抗争が生んだ大衆の民主的熱望を制度的に完成させたことを意味する。
 けれども、それは明らかに「制度的」完成であるにすぎず、それは同時に6月抗争当時の民衆の怒りを制度を通じて体制内部に吸収したことを意味する。帝国主義と独占資本の暴圧的搾取の秩序に抵抗してきた全民衆的闘争を、10数年の代議制を通じて危険な要素をさらしにさらして遂に支配体制への包摂を完成したのだ。
 こうして「自由主義的民主勢力」は韓国の政治権力の最大の勢力であると同時に、韓国支配階級の最大勢力となった。ところでこれは、まさにこれらの人々によって労働者民衆に対する支配や統制が実施されることを意味する。こうして彼らの本質は新自由主義の支配勢力なのだ。


階級闘争の政治構造を鮮明に!

 いまや新たな支配勢力は「民主主義」とともに全面的な政治的、経済的、社会的「改革」を語ることによって資本の新自由主義的支配秩序を正当化して踏み出すだろう。「相生」と「和合」の政治を語りつつ、新自由主義に対して死をもって抗拒している階級闘争をなだめすかそうとするだろう。新自由主義に抵抗する労働者民衆の闘争を社会全体の公共性と共同のラインを害する利己的な集団の行為と決めつけつつ、資本による搾取の秩序を擁護するだろう。新自由主義が生んだ弊害を何がしかの施恵的措置によってなだめつつ「改革」のためならば労働者民衆の犠牲も必要だ、と力説するだろう。おっと、6月抗争はこのように洗練された支配勢力を生んだんだっけ!
 労働者民衆にとって明らかなのは、これらの新自由主義支配勢力とはいささかの妥協も不可能だということを明確にしなければならない、という点だ。「相生」と「和合」と言うのなら奴ら資本の分派たちの間で、もはや政争を越えて体制の安定を図らなければならないという意味にすぎず、新たに成長した新自由主義への反対闘争勢力を無力化するために流布したイデオロギーにすぎないことを正確に見抜かなければならない。
 現段階の情勢は全世界的に新自由主義のグローバル化と、それに反対する勢力の闘争によって形成されているのであり、韓国社会でも最も明らかな対立の構図は新自由主義勢力対反新自由主義勢力、すなわち、あの新自由主義「改革」勢力―合理的保守勢力対労働者民衆勢力であることは自明だ。したがって、労働者民衆勢力の一部が議会に進出したからといって労働者民衆の大衆的階級闘争を議会内部に包摂しようとする一切の試みを許してはならないだろう。ただ労働者民衆自身の力によって新自由主義を越え、真の民主主義を達成できるという事実を忘れてはならない。87年6月の過誤を繰り返してはならないだろう。(「労働者の力」第55号、04年5月21日付、ソン・ソッキョン/会員)


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