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韓国はいま                      かけはし2004.05.31号

光州民衆蜂起から25年

「解放光州」が全国的に再現されるその日まで「光州」は終わらない!

                                   
 1997年キム・デジュンの執権、それに続く光州民主化運動(?)補償法制定など、公式的に光州民衆蜂起は終わった。政権と警察の絶えざる監視や弾圧に苦しめられながらも、闘争の涸れることのない源泉だった望月洞は、疎ましいコンクリートの固まりの新墓地に押されて「旧墓域」という、みすぼらしい名前で残った。復権した光州で、いまや5・18記念日は1つのショーにすぎない。
 だが光州は終わってはいない! いや、終わることはできない。虐殺の主犯たちは形式的な裁判の政治ショーによって免罪符を受け、彼らを背後で支配した帝国主義の政治的軍事的支配の手が韓(朝鮮)半島から消えない限り、光州は終わることはできないし、また終わりもしない。
 だが、だれがその未完の課題を完遂するのか? まさにこれが問題だ。1年に1日、1回の記念式や、ありきたりの追悼の辞や中味のないいくばくのスローガンによって光州民衆抗争の精神は継承されるだろうか?
 まず考えなければならないのは、光州抗争の主体たちの個人的あるいは集団的な悲劇だ。基本的に、光州抗争は自然発生的な蜂起だったために、だれにとってもその大きな激変に堪える準備ができてはいなかった。早い話が、少数の先進的活動家たちでさえそうだった。そして彼らの闘争は以後の運動へと結びつかなかった。もちろん、光州は1980年代の反軍部独裁民主化闘争を通じて生きていたけれども、人的にあるいは組織的には明確な断絶があった。
 これは一方では事件の発端がキム・デジュンと連結しているという大衆的認識のためでもあるけれども、それと同時に運動陣営内部で絶えず自由主義との連帯または一体化を推進するさまざまな勢力によって、組織的にその変革的意味が損なわれた。これらの人々にとっては、キム・デジュンの執権とそれ以後の名誉回復および法律的補償の過程は事件の実質的終了も意味した。歳月が変わっても烈士らが生じ、彼らが光州にやって来るのは心に負担となるものだった。
 したがって光州から1980年代の大衆的学生運動が始められ、それは80年代後半の本格的な労働運動の登場をもたらしたけれども、以降の南韓運動の展開過程において抗争の主体たちは個人史的悲劇を超えられなかった。他方、大衆的制度政治のレベルでは形式的民主主義の下で地域主義という新たな怪物を生み、大衆的階級意識の発展を阻む要因として働き、それはいまなお依然として強力な要素として作用している。
 制度圏では、民主化運動としての正当性の認定ならびにそれにもとづいた経済的補償として光州抗争は締めくくられはしたものの、2004年現在、光州抗争の政治的課題は決して完遂されてはいない。キム・デジュンを頂点とした自由主義的ブルジョアジーの執権によって解決されはしないのだ。むしろ、彼らは新軍部ファシズム勢力に事実上の免罪符を与え、このような妥協を通じて民衆の願いに顔をそむけたまま、執権の道を追求しただけだ。
 むしろ、キム・デジュン―ノ・ムヒョンへと続いている自由主義勢力はグローバリゼーションの攻勢の前で新自由主義的改革の主導勢力へと変身し、帝国主義の露骨な協力者となった。彼らは光州蜂起の革命性を消し去り、歴史の彼方に追いやった共犯者だった。
 この過程で、光州の悲劇は抵抗の主体たちには個人史的悲劇として、同時代人たちには独裁時代の偶発的な悲劇的事件として記憶されることを強要されていた。光州抗争のおかげで執権に成功したキム・ヨンサムとキム・デジュンの両人はいずれも、このような光州抗争のはく製化、形骸化、制度化に共同の階級的利害を遂行した共犯者たちだった。
 決定的なこととして、一部の抗争主体たちの制度圏への編入は光州抗争の制度化に並々ならぬ寄与をした。光州抗争の変革的含意や蜂起の正当性は徹底して無視したまま、闘争の意味も「民主化」に封じ込め、また変革の主体の論理ではなく被害者の論理に立脚した補償政策を物乞いした。その結果、光州抗争は特定の少数被害者団体の占有物に転落し、実践的運動との戦闘的連帯は徹底して排除された。

 80年代に活動家たちによって繰り返し語られていた光州の教訓とは何だったのか? 南韓での変革の可能性と革命的指導力の重要性!
 だが80年代と90年代の運動はその激しさや献身性にもかかわらず、この教訓を実践することに失敗した。80〜90年代、前衛政党を建設するための企図は失敗し、特にソ連社会主義陣営の崩壊以後、巨大な方向旋回の中で、光州の教訓は廃棄・処分された。
 このような困難の中でも、労働者階級の大衆闘争を通じて続けられた変革運動の潜在力は労働者階級の政治勢力化という旗じるしの下、前進した。だが階級的政治勢力化は制度政治圏への進入の論理によってまた再び歪曲された。現在、民主労働党の議会進出によって、合法的進歩政党の成果は可視化されたものの、光州の教訓ははるか昔の話となった。
 だが今日、光州の教訓を再び語る人々を見つけるのは難しい。その理由は何なのか? それはまさに変革運動の急激な退潮と合法主義、改良主義のはびこりと緊密に結びついている。これらの制度圏勢力には過去の歴史をよみがえらせ大衆の変革性を刺激する理由は全くないからだ。また、その教訓を継承しようとする実践的変革運動陣営もまた深刻な混乱や脆弱な組織力量によって苦悩しているために、状況はいっそう暗鬱なのだ。
 光州抗争は決して光州だけの闘争ではなかった。80年代の闘争は全国的な現象となり、今日では国際的闘争と行動をともにしている。光州蜂起の国際的意味は、一方で東アジアをまき込んだ民主化闘争のドミノ現象を触発する契機として働いた。1986年のフィリピンのピープルズ・パワー、88年ミャンマーの反独裁闘争、92年タイの民主化闘争、98年インドネシアの反スハルト民主化闘争などへと続く巨大な歴史の流れの先頭に光州民衆抗争は立っているのだ。
 そればかりか、全世界的に1968年の世界革命が退潮している中で、第3世界の全域で軍事的反動が圧倒的な時期に人々の闘争を鼓舞刺激する中心に光州民衆抗争があった。光州の真実を知らせるための闘争は、アルゼンチンの軍部独裁下でほしいままになされた数多くの失踪に抵抗し真実を叫んでいた5月広場母の会の闘いと脈を通じていた。
 だが不幸なことに制度圏内の研究の幾つかのケースを除いては、そのような国際的意味を生かすための努力に失敗した。また光州抗争の変革的含意や国際的意義についての制限的研究さえ「人権」と「民主化」の概念に狭められた枠の中でなされていった。さらに、実践的運動陣営の場合も光州抗争の政治的―歴史的意味をよみがえらせることに極めてなおざりなものがあった。その結果、光州抗争についての研究が制度圏に吸収されるや、その変革性や国際的含意を生かすためのいかなる組織的努力も運動陣営から失われてしまった。
 いまなお虐殺犯に対する処断や真相究明、軍部独裁の清算は解決できない課題だけれども、制度圏に編入された一部の抗争主体たちによってその問題解決の道が封鎖され、いまも光州虐殺のトラウマから脱け出せない人々によってその真実は依然として皮相的に包まれたまま、被害者の論理の枠組みから脱け出せない周辺的問題提起だけが間けつ的になされているばかりだ。
 1980年5月、解放光州で実現された民衆解放の世の中が全国的に再現される時まで、光州は終わってはいないし、また終わることはできない。1980年の光州は孤立の中で荘厳な最後を迎えたけれども、次の光州は全国的抗争とならざるをえない。1987年の6月抗争と7〜9月の労働者大闘争、96〜97年のゼネストなど大衆闘争の発展の中で光州は部分的に再現されたものの、これらの闘争は決して光州の革命性を乗り越えることはできなかった。
 制度政治に決して収れんできない抗争の歴史は80年代の民主化闘争、90年代の労働者民衆闘争へと結びつくとともに、解放のその日まで継続するほかはない。ただ闘う労働者民衆だけが抗争の歴史を継承できる。光州は25年前の悲劇的歴史ではなく、今日、闘っている労働者階級の中に生きていることを覚えておかなければならないだろう。(「労働者の力」第54号、04年5月7日付、ウォン・ヨンス編集委員長)


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