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                           かけはし2004.05.24号
立川反戦ビラ弾圧―3人の仲間を奪還/NTT不当配転取り消し訴訟/レラ・チセ10周年/横山好夫さん追悼



立川・反戦ビラ入れ弾圧事件

3人の仲間の保釈かちとる

 五月十一日夕方、私たちは三名の不当に拘留されていた仲間をとりもどしました。大西は少し頬がふくらみ、高田は獄中での筋トレの成果あり、大洞はいつもの様子で、拘置所の玄関から出てきました。迎えの仲間との抱擁と涙、ビールでの乾杯と記念写真、そして西東京法律事務所への御礼参り……。いつもながら、仲間の解放はうれしいものです。
 保釈を求める署名は五千筆を越えました。二回目の保釈申請書に添えて出されたこの分厚い署名簿は、全国のみなさんからの激励であり、仲間を解放する力になったと思います。四月三十日の提出、五月六日第一回公判当日の署名簿追加と裁判所折衝、五月七日の検事抗告を受けて、十日には雨の中を東京高裁前の情宣に三十名が参加してくださいました。その日夕刻、更に内田、虎頭弁護士による裁判所折衝が行われました。翌日の審理は長引き、保釈への期待が高まりました。五時直前に抗告棄却が知らされ、救援会・テント村・職場の仲間が八王子拘置所前に荷物運びの大型車を並べて待ちました。
 七十五日間にわたる長期拘留はまさに不当なものです。証拠隠滅の恐れも、逃亡の恐れもありえない。残る理由として考えられるのは、精神的ダメージを与え転向を迫ることだけです。三名は、第一回公判にむけて、筆記用具の使用は前日に届ける、一日一時間しか執筆時間を与えられない、そのときも刑事訴訟法などの参考文献を見ることを禁じられるなど、公判準備に対する妨害の中で、力をこめた意見陳述書を書きました。彼らの保釈は、第一に彼ら自身がかちとったものです。
 この二カ月半、ファルージャの包囲と虐殺の中で、人質事件が起こりました。私たちは圧倒的な米軍の軍事的攻撃に抵抗を続けるイラクの人々に思いを馳せ、闘いの場こそ異なりますが、「人質たち」の「イラクの友」としての存在に連帯の感を深めました。最近発覚した捕虜虐待事件は侵略の軍隊の必然的な腐敗を示すものです。ベトナム戦争、さらに日本の中国・アジア侵略の歴史の中で、どれほどの兵士がこうした虐待・虐殺に手を染めどれほどの人々が犠牲になったことでしょう。イラク反戦の声をさらに広げ、深めていかなければならないと思います。
 激励とカンパ、そして救援活動、情宣活動や激励行動、集会・デモへの参加、公判傍聴など、全国のみなさんのご支援に官舎(あ!まちがえた感謝です)します。反戦ビラ入れ弾圧は、イラク反戦にかけたれた時代を画す攻撃であり、新たな銃後をつくり出す試みでもあります。公判闘争ははじまったばかりです。今後とも注目とご支援をお願いします。
 イラク戦争反対!ポスティング無罪!自衛隊はイラクから撤退せよ!
 二〇〇四年五月十二日   立川自衛隊監視テント村



不当配転取り消しNTT裁判
第4回口頭弁論│50歳リストラの根拠を示せぬNTT

 不当配転を受けた電通労組九名の組合員が起こしたNTTリストラ反対!不当配転の取り消しを求める裁判の第四回口頭弁論が、四月十五日午後、東京地裁で行われた。被告NTTから、あらためて準備書面が提出された。
 第二回弁論で被告側から提出された準備書面は、大雑把なものであった。そのため、原告は、争点を明確にし、被告の反論を促すための準備書面を前回提出した。今回は、それに応える内容が出されるはずであったが、肝心の五十歳で雇用選択を迫るリストラを会社が選択した根拠を示さず、あいまいな反論に終始した。
 原告代理人の新美弁護士は「分厚い書面であるが、わかりにくい」「業務が残っているのに、なぜ、人と切り離したのか」「なぜ、『構造改革』が必要だったのか明確でない」と批判した。裁判長も「私も準備書面を読んだが、(49歳以上をリストラするという構造改革の)デザインをした理由が書かれていない」と指摘した。被告NTTに対して、構造改革にいたる合理的な根拠は何か、なぜ五十歳なのかを質問したが、明確な回答はなかった。
 被告NTTは「広域配転もある雇用選択をした」だから「配転は妥当」と、『構造改革』リストラを争点から切り離そうとしているのだ。
 論点がかみ合わないため、裁判所から「争点整理」の協議を法廷外で行なうという提案があり、五月二十七日に予定されていた次回口頭弁論の日程は取り消された。なお、第五回口頭弁論は七月以降になる見込みだ。       (T)



横山好夫さん追悼

 四月二十七日、元ゼネラル石油労組事務局長で、元『労働情報』編集人であった横山好夫さんが、心筋梗塞で急逝された。六十四歳だった。
 去年から今年にかけて「米軍のイラク攻撃に反対する集会」で何度か顔を会わせたがすこぶる元気で、「定年退職したって、やることがいっぱいあるから変わりなく忙しいよ」と笑顔で話していたのが忘れられない。
 横山さんと私との関係は、いつも私の方から「原稿の依頼、集会への参加要請」というように、一方的にお願いする関係であった。その都度、会社近くの新橋や浜松町の喫茶店で待ち合わせたが、横山さんは煙草も吸わず、酒席につき合っても酒量の多い人ではなかった。どちらかというと酒をあまり飲まなかった。多忙という以外は結構身体には気をつけている人であった。
 私が横山好夫さんと会ったのは、私が上京して間もない一九七四年春の「ゼネ石労組の解雇撤回を求める集会」であったと思う。
 私たちの世代にとって七〇年七月のゼネ石の川崎・堺製油所での全面ストは、「反公害スト」と報じられただけではなく、「あこがれの闘い」であった。総評をはじめ、日本の労働組合が企業内労働組合主義に深く染まっていた時代、企業の経営方針と対決する「公害追放」のスローガンとしてストライキを打ち抜いたのである。
 この闘いの結果、多数の仲間が解雇され、多数派の第二組合が結成され、長期にわたる困難な闘いを強制されたが、七年八カ月後の七八年四月に解雇者九人が職場復帰を実現したのである。それは輝かしい勝利であったが、闘う者をなによりも感動させたのが、七年八カ月の解雇撤回闘争の間、ベトナム反戦、地域の仲間の支援闘争、三里塚闘争に組合をあげて取り組み続けたことである。横山さんはこの闘いの中でリーダーとして一貫して闘い続けた。柔和な笑顔の下に不屈の意志を持った人であった。
 七八年三・二六管制塔占拠闘争を受けて四月二十七日に「第四インター中央政治集会」を開催したが、この集会での発言要請のために横山さんと会った時、「労働情報や労働組合の肩書きなしでもいいなら、あいさつしてもいいです。職場復帰のお礼もありますから」と言ってもらった時には小躍りしてしまったことを覚えている。内心では断られると覚悟していたから。
 「実は、私もいろんなところに顔を出していますが、このように党派の政治集会であいさつするのは全く初めてです。……私たちの職場の仲間も三・二六闘争に参加しました。……自分であの歴史的闘争の現場に居合わせただけで満足だと言っていました」。
 電通労組の結成のために当時の全電通の仲間と相談に行った時も、「官公労の中での最初の少数分裂組合となるわけですから、覚悟もいるし、しんどいと思います。しかし進まなければ道は開けられませんよ」とあまりにあっけらかんと言われてびっくりしたこともあった。
 横山好夫さんは積極的な意味で「新左翼労働運動の顔」であったと思う。七〇年七月の川崎・堺製油所での全面ストから、三十年間、「新左翼労働運動の最先端」を走り続けたといえる。心からご冥福を祈ります。
 五月十七日
        大門健一
 


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