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投 稿                      かけはし2004.04.19号

民主主義的中央集権をどのように総括すべきなのか

『検証 党組織論』を読んで

                                   景 清

リゾーム型党組織論の提唱

 社会批評社から出版された『検証 党組織論』は、第一章から第六章まで六人の共著として発表されている。それぞれの論者がさまざまな観点から研究しているが、全体を概括すると「リゾーム型」党組織の構築を模索しているように思われる。そうした結論に向かったのは、スターリンに簒奪されてきた共産党や内ゲバ党派の実態への研究が影響している。それは著者の多くが内ゲバ研究会員でもあることとも無関係ではない。
 第六章では木畑氏が世界社会フォーラムなどを対象にリゾーム型組織について詳細に研究しており、その成果がスターリン式「民主集中性」組織に代わる新しい組織論として各著者の注目を受けているようである。

民主主義と中央集権の関係


 以下に私の感想を述べていくが、これは「試論」であって、必ずしも確信をもって提示するものではない。
 これまで世界の共産主義者はレーニンによる「何をなすべきか」やボリシェヴィキの歴史を基本に置いて党組織論を論じ、党建設をおこなってきた。それが民主集中性、あるいは民主的中央集権と呼ばれるもので、民主主義と中央集権とを総合した「議論−決定」と「決定―行動」とを支配するメカニズムとして理解されてきた。
 トロツキーは、民主主義を党の決定に関する下から上への議論の体系として位置づけ、中央集権を決定事項の上から下への伝達体系として位置づけ、両者の関係(どちらを主としどちらを従とするか)は情勢の変化に応じて変動すると説いている。
 党の決定に際しては全党における民主的で徹底的な討論が必要であり、決定事項は全党で取り組むという事である。またトロツキーは社会民主党第二回大会の分裂以後、統一のためにいくつも論文を書いているが、この中で分派の連合制という意見に反対し中央集権の優位を主張している(『トロツキー研究』No.36)。

中央集権的官僚組織の波及


 民主主義と中央集権の関係はスターリンによる党の実権掌握とともに破壊され、簒奪され、党は事実上スターリン個人を頂点とする官僚のヒエラルキーによる支配体制に変質していった。そしてこの体系はコミンテルンを通じて世界の共産党へと拡大波及し、非民主的で軍隊的な「鉄の規律」を強制するスターリン式党組織論が「レーニン主義組織論」とされていった。
 日本新左翼の多くも、共産党スターリニズムからの決別をめざしながら、組織建設においてはスターリニズムを踏襲していたのである。本書において、小西氏(第一章)、生田氏(第三章)は中央集権主義を否定し、リゾーム型党組織の建設を提案している。両氏はそれぞれかつて中核派、ブントに所属していた経験があるが、この両組織とも組織内民主主義が機能していなかったことは、これまでの両氏の著作からも明らかとなっている。
 両氏がその悲惨な経験から「中央集権否定」に傾くのは無理もない。しかしトロツキスト青年組織に所属してきた私は、中央集権を否定することには納得できない。中央集権は民主主義と協働するメカニズムの中で、党と大衆運動に貢献する「本来的役割」を取り戻すことができると考えている。

民主主義の利用による抑圧


 まず「民主主義」について。本書ではスターリンによる共産党簒奪の方法を「民主主義の否定と中央集権の拡大」というように分析しているが、果たしてそうだろうか。スターリンは民主主義の一面をも利用したといえるのではないだろうか。なぜなら、「民主主義」とは言い換えれば「多数決原理」だからである。これは運営の方法次第では少数派を抑圧する手段ともなりうる。つまり「多数による暴力」である。
 第二章で吉留氏が明らかにしているように、スターリンは書記長の任命権を悪用して地方書記や地方指導部に自派を送り込み、党指導部の多数派工作を強行していった。また異論を党内外に公表することを妨害しトロツキーの反撃を封じた。こうして正確な情報を与えられない多数の党員に対して反トロツキズム・キャンペーンを繰り広げて擬似的「多数派」を形成し、「多数の暴力」によって反対派を追放・粛正していったのである。
 党内部、階級内部における民主主義は、ブルジョアジーに対する「多数の暴力」=「独裁」とは違った方法で実践されなければならない。つまり、多数決原理だけではなく、少数者の権利の擁護を伴う充分な配慮をもって実践されなければならないのである。しかしスターリンは、本来は敵階級に対して執行されるべき多数決原理の「多数による暴力的抑圧」の側面を党内反対派に対して適用した。つまり民主主義を否定したのではなく、その二面性を利用して運用方法を「すり替えた」のである。スターリンは権力掌握のために「中央集権」と「民主主義」の両方を利用したのである。したがって、本書が示唆する「中央集権は悪、民主主義は善」という図式には同意できない。

民主主義・独裁・暴力革命


 民主主義とは「多数決原理」であり、多数が少数を抑圧することである。これはすでにこのブルジョア社会において日々実践されている。今日では多くの国々の政体が「民主主義」にもとづいており、労働者階級も含むすべての人々に平等の政治的権利が与えられている。しかしこれは政治的建前にすぎず、経済の実権をブルジョアジーが握っている資本主義社会においては、多数決原理は正しく反映しない。少数であるブルジョアジーが金の力で買収した「政治委員会」を通じて国家権力を握っているのである。
 そこでこうした「資本の独裁」に対抗して労働者は階級的に団結し、資本家の私有となっている生産手段を公共的共有物として社会化しなければならない。しかしブルジョアジーが自発的に生産手段を差し出すはずもなく、これは強制的な接収となるだろう。……極めて単純に言えば、以上がブルジョア民主主義(独裁)に対するプロレタリア民主主義(独裁)の実践であり、ここには「多数者による少数者への暴力」の意味が込められている。プロレタリア独裁の執行の過程で、「強制」と同等の意味において「暴力」が遂行される。したがって「暴力革命」とは、階級間における呵責なき「多数決原理の実践」なのであって、必ずしも流血を意味するわけではない。
 ロシア十月革命は「民主主義的に選出されたソヴィエトによって中央集権的に運用され達成された」と総括できる。

中央集権は不必要だろうか

 次に「中央集権」について。中央集権は不必要なのだろうか。それには党の役割を考えていかなくてはならない。小西氏は党の必要性を説き、中央集権に代わるリゾーム型組織を提唱している。大衆運動の分野では、リゾーム型組織は世界中の反戦運動の高まりのなかで既に実践されている。それは中央集権ではなく、分権的である。世界のどこかの地域で誰かが有意義な提案をすれば、それはインターネットを通じてたちまち世界中に広まり実践されていく。そのような提案者は世界中に無数にいる。また私たちひとりひとりが、そうした提案の権利と可能性を持っている。こうした大衆運動に「党」が必要であるとすれば、どのような意味において必要なのであろうか。それは大衆運動とどこで区別されるのだろうか。
 党は大衆にとって階級闘争の「手段」と規定される(トロツキー)。大衆運動が、その決定的な瞬間に、敵権力に勝利するためには全国のすべての人々が共同の目的に向かって集中し殺到しなければならない。しかし敵が国家権力(行政組織、軍隊、警察組織など)を中央集権的に運用している現在、はたしてリゾーム型組織で勝てるだろうか。敵に個別撃破されるのではないだろうか。これは極めて実践的な問題である。革命が「軍事」の段階へと転化した時、中央集権的組織でなければ対抗できない。大衆運動が「手段」として党を必要とする理由がこれであり、トロツキーが「連合型」ではなく「中央集権型」を支持した理由もここにある。

中央集権をどう実践するか


 第四インターナショナルにおいて、この原理はどう実践されてきたか、経験とこれまで知り得た情報をもとに述べてみる。
 一般に労働者組織の多くが指導部を選出し、その指導部の指令のもとに組織の力で加盟者を防衛する仕組みになっている。同じ原理は大学自治会にもある。しかしそうした組織のほとんどは多数派による指導部の独占という方法を採用している。選挙がいかに民主的に行われたとしても、選出される中央委員や自治委員は全員が多数派に占められ、少数派の意向は指導部内にはまったく反映されないのである。
 しかしトロツキストは、党組織の運営においてもっと柔軟な方法を採用した。党内分派が党内外に自己の主張をする権利を保障し、中央機関紙はそのための場を提供したのである。たとえば日本では現在三つに分裂しているどの分派も、またいまは存在しないPD派も、かつて党内分派であった時には中央機関紙『世界革命』紙上で意見を公表し、それは全国の同志・読者のもとに届けられた。
 また、定期的に開催される大会では中央委員が選出されるが、その選出は多数派による中央の独占という方法を極力回避するように努めている。フランスLCR全国大会やインターナショナル世界大会の報道を見ると、少数派も大会議案を提出し、各派議案は大会前に充分な期間をとって全国(全世界)のメンバーによって平等に検討されるのである。こうして討論と選挙の結果、たとえば「A派六〇%、B派三〇%、C派一〇%」になったとすれば、それに応じた人数の中央委員が各派に配分されているようである。こうした方法よって、一部の勢力が中央組織の独占を通じて全党を支配する事を回避している。

組織人の人格をどう作るか

 私はこうした組織の体制を現在でも非常に優れたものと評価している。今まで出現したどの組織と比較してもそう言える。しかし、それでもこの組織は過去、世界中で多くの誤りを経験してきた。とりわけ旧日本支部は女性差別問題を契機として崩壊し、多くのメンバーが挫折し去っていった経緯がある。組織にとって「何」が欠けていたのか。
 この総括を規約や民主主義といった組織のメカニズムの問題に帰することはできない。そうした面もあるかも知れないが、むしろ主要には、われわれがどのような理想を持つべきであり、そのためにどのような規律を自らに課していくのか、という「作風」の問題へと意識を向けざるを得ない。そして、どのように党員の政治的人格教育をしていくべきかを考えるべきだったのではないか。その観点から考えてみると、われわれもやはりスターリン式「レーニン主義組織論」に冒されていたのであり、人格的に言えば、決して他の党派よりも優れているとはいえなかったのだ。
 たとえどんなに優れた設計による安全装置の万全な飛行機でも、操縦者に欠陥があれば墜落する。小西氏による組織の問題点の洗い出しと新システムの提案は無意味ではなく、われわれに新しい視座を提供してくれるものであるが、組織を構成するメンバーの主体的意志やモラル、運動の展望の問題に踏み込み、「党組織運用論」を明らかにし、これらとセットで語らなければ「党組織論」は机上の空論になるのではないだろうか。

タマネギ型党組織論の展開


 トロツキスト組織の歴史は挫折と分裂と試行錯誤の歴史であった。トロツキスト組織は戦後世界の重要な革命的瞬間に何度も登場しながらチャンスを逃して来た。そしてまた際限のない分裂を起こしてきた。戦後の三十年間はトロツキストにとって不幸な時代であった。
 しかし、八〇年代からこの傾向は反転を開始した。いくつかの組織の合同が始まったのである。ドイツ支部の旧アルバニア派共産党との合同を皮切りに、デンマーク、イタリア、イギリス、ブラジル、トルコ、オーストラリアなどで「統一戦線党」が作られていった。
 それらがすべて成功したとは言えないが、こうした状況によって左派は力を拡大し自信を取り戻してきた。しかし同時に、こうした組織の出現はわれわれに新しい疑問を提示している。「党」とはどこまでを言うのだろうか、という疑問である。例えばイギリスの例を挙げるなら、トニークリフ派や国際社会主義グループを「党」と言うべきなのか、それともそれらを始めとする左派組織の連合体である社会主義連盟を「党」というのだろうか。あるいはその外側に共産党や左派労組とともに作られようとしている新しい労働者党を「党」というのだろうか。「ここまでが党で、ここより先は党ではない」という区別があいまいになってきている。まるでタマネギの皮のように、むいてもむいても「党」が出てくるのである。

党と大衆運動の新しい関係


 同じく区別の曖昧化が第四インターナショナル第十五回世界大会によって宣言された(それは第十三回大会において方向づけられていた)。インターナショナルはもはや「単一の世界党」規定を放棄し、世界の反資本主義左翼の統一戦線となることを宣言したのである。トロツキストはその中の少数派フラクションでいい、というわけだ。
 こうして見ると、党と大衆の区別がぼやけてきたように思う。それは大衆の運動参加への選択肢が広がったということでもある。タマネギ型党組織(しかも多中心の)にあって、だれでも「どのレベルの党員か」を自由に選ぶ事ができるのであるから。そのことによって、大衆と党との新しい関係の構築が可能になった。また、こうした組織の形態は、グローバリズムの進行によりますます経済的崩壊を促進させていく今日の世界情勢にうまく適合する組織形態ではないだろうか。しかもそれは力の集中と、そのための「中央集権」を可能とする。リゾーム型組織の柔軟性には優れたものがあるが、それは統一した強大な力を結集して敵に対抗できるかどうかという点に疑問が残る。
 複数主義でタマネギ型の二重・三重の統一戦線党は、トロツキストや左翼党派が初めから意図していたとは思われないが、試行錯誤の中からそのような組織が形成されてきたことは、世界の反グローバリズム闘争を前進させるのに役だってきたと言っていいだろう。

結語・討論を巻き起こそう


 以上述べたように、私は本書の著者諸氏が研究してきた党組織論を、「新しいシステムの提示」として集約することには不満である。またボリシェヴィキ党組織論の根幹である「民主主義的中央集権」の分析・放棄についても納得できない。だがそれでも本書は、多くの人々に新しい視点を与えるきっかけとなるだろう。私が以上のような試論を書いたのも、本書を読み啓発されたからなのであるから。
 現代世界のグローバル化の進展の中で、「党組織論」の問題は、あらためてすべての党派経験者に自己の再点検を迫る。本書はそれを深く考えさせる契機となる本である。すべての「ボリシェヴィキの末裔」にとってボリシェヴィキ組織論は再検討されなければならない。本書を読み、討論を巻き起こしていくことが望まれる。
 なお、私は本書について「システムとしての組織論への集約」を批判したが、それを補うものとして、同社から昨年出版された『新コミュニスト宣言』を併せて読むことを薦める。


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