闘争の歴史そのものの全面的復権を
03年10月31日、大統領が謝罪した。大統領は済州4・3に関連して「国政に責任を持っている大統領として過去の国家権力の過ちについて遺族や島民のみなさんに心から謝罪と慰めの言葉をささげる」として初めて国家レベルの過ちを公式謝罪した。4・3が起きてから55年ぶりのことだ。
半世紀が流れ行く間、済州島民の願いはただ一つ、「罪なき良民らがパルゲンイ(アカ)とののしられ虐殺された。無念の思いで死んだ済州島民のハン(恨)を解いてくれ」というものだった。いまや長きにわたって待ちに待った末に、たとえその内容が不充分なものとは言え済州島民は国家の公式的な回答を手にしたのだ。無惨に死んでいったにもかかわらず歴史の闇に眠っていた怨魂たちのための鎮魂曲が半世紀ぶりに「特別法」と「大統領の謝罪」という曲名で演奏されているのだ。
大統領の謝罪は1999年12月16日の国会で通過した「済州4・3特別法」にしたがって各界の人士で構成された「済州4・3真相究明ならびに犠牲者の名誉回復委員会(委員長は国務総理)」が2年余の調査を経て昨年03年10月15日に政府レベルの謝罪表明を建議したことにともなったものだ。済州4・3特別法は済州4・3事件を「1947年3月を起点とし、1948年4月3日に発生した騒擾の事態および1954年9月21日まで済州島で発生した武力衝突や鎮圧の過程で住民らが犠牲となった事件を言う」と定義している。これにしたがい委員会を組織し、真相調査報告書を作成して犠牲者たちの名誉回復や慰霊の事業などを施行することを規定した。その結果、2003年10月15日、済州4・3を「国家の公権力による人権じゅうりん」と規定した「済州4・3事件真相調査報告書」が最終確定した。
この半世紀の間、済州4・3を歴史の舞台の上に登場させるための真相究明運動は実に涙ぐましいものだった。筆禍事件やいくばくの済州出身の人々がこっそりと行っている慰霊祭によってその命脈を受け継いできた真相究明の努力は80年代の民主化運動とともに済州島以外の人々にも知られ始まった。学界でも済州4・3を韓国現代史に正しく位置づけようとの努力が始まった。
けれども東欧社会主義国家の没落や変革運動の沈滞という90年代の社会的変化の中で、政治的イシューとしての4・3、抗争の歴史としての4・3が色あせ始め、これにともない4・3に対する関心は40余年前の状況とは異なった地点ではあるものの、済州島民だけのものへと帰着した。
民衆抗争に焦点をおいた1980年代とは違い1990年代の4・3真相究明運動は人権とヒューマニズムのレベルとしての「良民虐殺」に重点をおいて進められた。これは80年代にも済州地域を中心とした側では、ずっと堅持されていた立場でもあった。多くの人々が死んでいった現場であるがゆえに「無念の死を解怨する」という作業がより大事なことと考えられていたからだ。したがって済州地域や済州出身の人々によってなされた90年代の真相究明運動の陣営は4・3を制度圏内で公論化し、国家が直接乗り出して4・3問題を解決することを主たる目標とみなした。そしてそれを実現するために「4・3は良民虐殺だ」という人権とヒューマニズムからの論議を導き出した。つまり良民虐殺論は大衆の呼応を受けることができ、さらには政治的レベルで4・3を解怨できる現実的な方法として認識されていたのだ。その結果、99年12月16日に「済州4・3特別法」が通過し、結局、大統領の謝罪という、大韓民国ではまれに見る成果を挙げた。
特別法の通過以後わずか数年の間に生じたさまざまな変化は世の中が変わっていっていることを実感させる。済州での4・3は政治的選挙ともあいまって、だれもが無視することのできないひとつの権力となっている。国会議員や道知事が先を争って4・3関連の行事に参加し、これまで恐怖と不安とに陥っていた遺族たちも、いまでは4・3の痛みを語り、真相究明や名誉回復を声高に叫んでいる。また平和公園が造成され追悼行事や遺家族の生計費支援など政府レベルの目に見える動きがなされている。済州島は、もはやパルゲンイの島ではなく平和の島(?)に生まれ変わっているのだ。
だが、それが済州4・3の真相究明や名誉回復のすべてなのか? 特別法に表現されている済州4・3の真相、当時の済州島民は共産主義の暴徒すなわちパルゲンイではなかったということ、良民として無念の死を被ったということ、それが4・3のすべてなのか?
あるいは慰霊碑や記念館を建てて被害者への補償をしてやること、国家の責任を問い、さらには米国に責任を問うこと、それが4・3の本当の名誉回復なのか?
現在の真相究明・名誉回復運動は幾つかの問題点をかかえている。その第1番目は良民虐殺をしでかした主体が国家だという点を語りながらも、その問題は大統領の謝罪ひとつで余りにも軽く切り抜けている。虐殺の主体である人物たちばかりではなく、その構造の一掃は陰険にも、するりと避けているのだ。
これは今日までの真相究明を要求している談論の構造が「いかにすれば4・3を公的領域に引きあげることができるか」という点に必死になり、国家の責任問題はある程度、不問に伏すという妥協をしたからだ。よしんばその内容は不充分でも4・3真相究明運動の責任者となることを自任して乗り出した訳だ。だがその瞬間、国家は免罪符を手にしている。そうして一般大衆の闘争の結果物である特別法がいまやあたかも国家の施恵であるかのように変貌しているのだ。いまや国家は暴力的な過去の歴史を相生と和合の論理で代替することによって国家の暴力性を巧妙に回避し、犠牲者を哀悼する人権国家だという二重の効果を得ることとなったのだ。
だが赦しと和合は加害者ではなく被害者が求めるときにのみ有効だ。もちろんその前に、だれによって、どのように、どんなことが行われたのか、という歴史的事実を明らかにすることが先行されなければならないことは言うまでもない。
もうひとつの問題点は歴史的事実の一部分を意図的に排除しているという点だ。4・3当時、重要な役割をはたした勢力、すなわち南労党と名づけられている左翼勢力との連関関係を無視している。もちろん、これは当然の結果であるかも知れない。わが社会において蔓延したレッド・コンプレックスの中で左翼との連関を、どこのだれがおいそれと語ることができるだろうか。けれども厳然として存在していた歴史的事実を闇の中においたまま現在に有利な面だけを記憶しようとするのは4・3の真実とは遠い隔たりがある。
これと関連してもうひとつの問題は左翼については語らないながらも、良民虐殺を主張するときには必ず「左翼と罵倒されて無念のうちに死んだ。共産主義の暴徒ではなく良民だった」と語っている点だ。そう語りつつ、被害者らは良民だったのであって、仮に左翼だったとしても思想的にはそれほど透徹はできなかったということだけを印象づける。これは危なっかしく見えつつも、一方では極めて暴力的だとさえ思う。なぜなら――もちろん意図してのことではなかったろうが――万一、「透徹した左翼」なら虐殺してもよいということを逆に語っているからだ。
けれども、何にもまして今日の真相究明、名誉回復運動のもっとも大きな限界は済州4・3という歴史的事件をひとつの良民虐殺と定義しようとすることによって、民衆が歴史の中で抗争の主体として存在していた過程を排除する、という点だ。民衆が味わわざるをえなかった苦痛や受難に重きをおくことによって真の抗争の歴史を叙述するというよりは無念の思いの良民たちが死んでいったということを暴露することにとどまっている。そうすることによって民衆の抗争の歴史ではなく受難の歴史、重ねて言えば加害者の歴史から脱け出せずにいるのだ。
当時、済州島民は強大国を相手に無謀な抵抗をしようとする左翼勢力のそそのかし(?)にはまるほどに無知だったのか。そうではなかった。4・3で命を奪われた数多くの人々は決して上から下りてくる指令を単純に受け入れるカカシでもなかったが、ただ虐殺される良民だけというわけでもなかったからだ。当時の済州島民はふたつに分れるのではなく統一独立国家の樹立を望んでいたし、この点において左翼が主張していた(南韓だけの)単独選挙反対闘争に同意することができた。それだからこそ済州島民は済州島を単独選挙を阻止した唯一の地域とすることができたし、劣悪な状況の中でもそれ以後の抗争を1年余も持続することができたのだ。つまり済州島民は抗争を通じて統一政府を渇望する民衆の意志を代弁してくれたのであり、この点において4・3は韓国現代史において最も重要な転換点となっているのだ。
「どれほど多くの人々が虐殺されたか」をあばきだすことにのみ身を入れる受難の歴史ではなく、抗争の歴史が書かれていかなければならない。抗争の歴史に覆いをしたまま4・3を苦痛と受難の歴史としてのみ眺めるのを語ることは、ともすれば抗争の主体たちにもう一度の暴力を加えることなのかも知れない。4・3の怨魂たちの真の名誉回復は、無念のうちに死んでいったのではなく、彼らが闘い取ろうとしていたものが何であったのかを、そしてそれが正しかったのだということを明らかにしようとする過程の中で実現されなければならない。無念の死を被りはしたものの、一方ではよりよい世の中を夢見ていた彼らを堂々と歴史の舞台に登場させなければならない。(「労働者の力」第51号、04年3月20日付、ヤン・チョンシム/歴史学研究所研究員)
映画紹介
ボン・ジュノ監督作品
『殺人の追憶』
連続性暴力殺人事件 悲劇、無念さ、警察の闇
シネ・アミューズ(渋谷)のイーストで「殺人の追憶」(ポン・ジュノ監督作品)を見た。
ストーリーを簡単に紹介したい。一九八六年、ソウル近郊の農村で若い女性の変死体が発見された。手足を拘束のうえ強かんされており、その後も同じ手口の連続殺人事件が相次いで発生した。現地には特別捜査本部が設置され、地元の刑事パク・トゥマン(ソン・ガンホ)、チョ・ヨング(キム・レハ)、ソウル市警から派遣されたソ・テユン(キム・サンギョン)らは、この事件に挑むことになる。警察は焼肉屋の息子ペク・クァンホ(パク・ノシク)を連行する。そして、拷問したり証拠写真を捏造したりしてペク・クァンホを犯人に仕立て上げようとする。だが、ソ刑事は「ペク・クァンホは犯人ではない」と考えていた……。
この映画は、韓国で実際に起きた未解決連続殺人事件(ファソン連続殺人事件)をもとにして作られている。ファソン連続殺人事件は八〇年代韓国軍事政権下で発生した。佐野眞一さん(ノンフィクション作家)は、この映画のパンフレットの中で、八六年から九一年までの六年間に十人の女性が殺害されるという韓国史上はじまって以来の凶悪事件は、軍事政権に対する民主化要求が全国的な広がりをみせ、直接選挙によるノ・テウ政権が誕生するまでの時代に発生した、と述べている。
この映画は「当時の警察が抱えていた闇の部分」(横山秀夫さん)を描いている。この映画を見ていると、警察と民主主義の問題を考えさせられる。同時に「犯人は捕まってほしい」と心の底から思えてくる。人間はなぜ凶悪犯罪(強かん殺人という性犯罪)を犯すのか。どうしたら凶悪犯罪(強かん殺人という性犯罪)をなくすことが出来るのか。この映画は、そんなことも考えさせる。
この映画は、凶悪犯罪(強かん殺人という性犯罪)の被害者となって殺されていく女性の無念さやそのような凶悪犯罪の犯人を捕まえることが出来ない刑事の無念さを描いている。
「JSA」(パク・チャヌク監督作品)が「同じ民族が殺しあうことの悲劇」を描いているとしたら、「殺人の追憶」は「人間が人間を殺すこと(人間が人間に殺されること)の悲劇」(強かん殺人という性犯罪の悲劇)を描いていると言えるかもしれない。
門間雄介さん(『CUT』編集部)は、この映画のパンフレットの中で、この映画について「『踊る大捜査線』の五万倍おもしろい」とコメントしている。井筒和幸さん(映画監督)は、同じパンフレットの中で、この映画について「ニッポンの薄っぺらな刑事映画ばかりを眺めてきた観客たちも、この大問題作には腰を抜かすことだろう」とコメントしている。
この映画はとても面白かったが、ぼくの誤解でなければ、この映画には「障害者」(「知的障害者」「精神障害者」「聴覚障害者」など)を差別しているような部分があった。その点が残念だ、と思った。
なお、この映画の小説化されたものがアートンから発行されている(『殺人の追憶』薄井ゆうじ超訳/シナリオ原作ポン・ジュノ、シム・ソンボ)。また、この映画に関係する本が辰巳出版から翻訳・出版されている(『華城(ファソン)事件は終わっていない 担当刑事の綴る『殺人の追憶』』ハ・スンギュン著、宮本尚寛訳)。
この映画のパンフレットによれば、「殺人の追憶」は、韓国で「『シュリ』『JSA』さらには『マトリックス』シリーズをも超える五百六十万人を動員し、二〇〇三年興行収入bPを記録。作品が大ヒットするとともに、事件の再捜査を求める市民運動が起きるなど、映画の枠を越え社会現象にまでなった」という。(投稿 S・M)
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