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映画紹介『アフガン零年』               かけはし2004.0412号

悲劇は過去だけでは現在も続いている


「なんて悲しく、救いのない映画なのだろう」。「アフガン零年」│同伴した友人は上映後、絶句してしばらく席を立つことができなかった。本作は、アフガニスタン│タリバン政権下で、生きるために少年に扮装した少女の過酷な運命を描いた作品である。
 物語は、戦争で夫を亡くした女性たちの仕事を求めるデモで幕を開ける。全身にブルカをまとったデモ隊に、タリバン軍は発砲と放水を繰り返し、女性たちは悲鳴をあげながら逃げまどう。主人公の少女マリナもこの騒動に巻き込まれ、ずぶ濡れで家に着く。
 女性に対する厳しい抑圧政策を敷いたタリバン政権下では、一家に男性がいないことは家族全員の死を意味していた。戦争で父親を失い祖母と母親の三人で暮らすマリナ。困窮する親たちは、マリナを少年に変装させて働かせることを思いつく。見つかれば殺されるかもしれない。だが「虹をくぐると少年は少女に、少女は少年になれる」と、祖母はおとぎ話でマリナを説得し送り出す。
 親のその手で長い髪を切られ「少年」になった十二歳の少女は、悲劇の運命に身を投じていく。ミルク屋の店番、宗教学校(マドラサ)での男たちだけの儀式。不安と恐怖の連続のなかで、マリナはやがて周囲の少年たちに「女ではないか」と怪しまれる。そんな時、いつも彼女を助けたのは、おどけた「お香屋」の少年だった。だがタリバン兵は懲罰でマリナを井戸に吊るし、その恐怖からマリナは、自らの肉体が女性であることをさらけ出してしまう……。
 「復興アフガニスタン第一作」と位置づけられた本作のラストシーンは、少女が虹をくぐって自由になる設定だったという。だがセディク・バルマク監督は、悩み抜いた末にそのシーンをすべてカットした。「アフガンの悲劇はまだ終わっていない。いま、虹を描くのはウソになる」というのがその理由だ。
 主人公の少女「マリナ・ゴルバハーリ」は実名。監督が三千四百人の少女と面接した後に、偶然に出会った。二人の姉を空爆で亡くし、父はタリバンの拷問で大怪我をした。幼い弟とともに五歳のころから物乞いで生計を支え、読み書きがほとんどできず、口移しでセリフを覚えた。なによりも本人の正確な生年月日さえわからないという。
 主役には即決したマリナは撮影中、自身の戦争体験を思い出して何度も泣き崩れ、収録はしばしば中断した。制作中、家族には食べ物と燃料が与えられ、半年分の生活費を「出演料」として得た。マリナにとってこれが、物乞い以外で手にした初めての収入だった。
 本編のキャストのほとんどが、作品中の配役とほぼ同じような実生活を送っている。この事実を取り上げても、本作が「創作」を超えた普遍のコンセプトを持っていることがわかる。八十二分という短い上映時間ではあるが、同じくアフガンを描いて話題になった映画「カンダハール」が色あせるほど、底知れない力量がこの映画にはある。
 シンプルなストーリー、明快なその主題│寡黙な少女が投げ出された運命の渦。これでもかこれでもかとスクリーンからあふれだす悲しみと絶望は、観る者を圧倒する。少女の美しいけれど、決して癒されることのない悲痛な瞳、わき役「お香屋」の少年の立ち回りも効果的だ。しかし一般的な「感動」を超えたところにこそ、この映画の主張がある。それは観客に涙すら流させないほど重苦しい、救いようのない冷酷な現実そのものである。
 女性たちの悲劇の元凶は、本編に描かれた過去一時代の恐怖政治・タリバン政権にのみ、あるのではないだろう。二十三年間の戦争と内戦。進歩と後退の連続が、アフガニスタンの国土と、そこに生きる人々にもたらしたものは何か。
 モスクワで映画の基礎を学び、マスード・北部同盟に参加してドキュメンタリーを手がけ、タリバン時代にはパキスタンに亡命したセディク監督は訴える。「悲劇は過去ではなく現在も続いている」と。
 現地アフガンでは喝采をもって迎えられ、国際的にも注目を集めたこの映画。ラストシーンに「虹」を架けるのは、ほかでもない。アフガン人民に心を寄せ、イラク人民に心を寄せ、大国による無差別テロに反対して立ち上がる、全世界の勇気ある人々なのだ。
        (佐藤隆)



反グローバリゼーション運動のための三つの読書案内

アルンダティ・ロイ著 本橋哲也訳 岩波新書 740円

『帝国を壊すために――戦争と正義をめぐるエッセイ』 

 アルンダティ・ロイはニューデリーに住むインド人作家で、一九九七年に書いた最初の小説『小さきものたちの神』でブッカー賞を受賞した。彼女は、今年・ムンバイで開かれた第4回世界社会フォーラムのスピーチで、参加者の熱烈な共感を獲得したスターの一人だった。
 二〇〇一年から二〇〇三年までの八つの政治的エッセイを集めた本書の中で、ロイは新自由主義的グローバリゼーションが「南」の世界にもたらした差別と貧困を痛烈な皮肉とユーモアをもって批判し、帝国主義者の多国籍企業の偽善をあますところなく暴露する。とりわけ「9・11」以後のブッシュの「対テロ戦争」に対する、しなやかな文体による糾弾は、帝国主義者の驕り高ぶった「強さ」の裏に秘められた弱さをつき、虐げられた民衆が自らのモラル的優位を獲得するための優しい励ましに満ちあふれている。
 「たしかにまだわたしたちは帝国の歩みを阻止できていないかもしれない――でも――それを裸にすることはできたでしょう? 帝国の仮面を剥がすことはできた。その素顔を晒させたのは、わたしたち。帝国は、いま、わたしたちの目の前、世界という舞台の上で、その残忍な醜い裸の姿のまま、立っている」(「帝国に抗して」、二〇〇三年一月、ポルトアレグレ・第3回世界社会フォーラムの締めくくり集会での演説)。
 「わたしたち自身が〈帝国〉に直接対峙することができる、と考えるのはナイーブに過ぎよう。むしろわたしたちの戦略は、〈帝国〉を動かす部品がどこにあるかを見きわめ、それを一つずつ役に立たなくさせていくことにある。どんな標的も、小さすぎる、ということはない。どんな些細な勝利も、意味を持たない、ということはない。〈帝国〉とその同盟者たちが、貧しい国々に押しつけた経済制裁という発想をひっくり返すことが、わたしたちには可能なのだ」(「帝国製インスタント民主主義」、二〇〇三年五月、ニュヨーク・ハーレムのリヴァーサイド教会での講演)。
 ロイの批判の視線は、自国インドの核兵器開発や、二〇〇二年にグジャラート州で起こったヒンズー原理主義者たちによるイスラム教徒への大虐殺に対しても向けられる。ロイは今年の世界社会フォーラムのスピーチで、戦争との闘いが、同時に社会の中での暴力的支配や差別の構造、とりわけジェンダー差別との闘いぬきには真に有効なものたりえないことをえぐり出している。


ナオミ・クライン著 松島聖子訳 はまの出版 1600円
『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』


 一見きわもの的な余りにも直截な邦訳題名だが、原題は「フェンスと窓」。シアトル以後の反グローバリゼーション運動に直面した資本の側が抗議するデモを弾圧するために張りめぐらした厚い「フェンス」と、運動の側がその中からこじあけた「新しいもう一つの世界」へ通じる「窓」を象徴的に示したタイトルだ。著者はこの「窓」をサパティスタのマルコス副司令官の言葉を借りて「歴史の裂け目」とも表現している。シアトル以後の反グローバリゼーション運動のレポートとしてはおそらく最良のものの一つで、「おすすめ」の本。
 著者のナオミ・クラインは一九七〇年生まれのカナダ人若手ジャーナリストで活動家。ナイキなどに代表される多国籍資本のブランド商品が、いかに「南」の低賃金労働・児童労働の酷使の上に成り立っているかを、「スウェットショッブ(超搾取工場)」反対運動の中から明らかにした前作の『ブランドなんかいらない』(はまの出版刊、原題は『ノー・ロゴ』)で世界的に著名になった。
 本書の最大の特徴は、彼女が若々しい行動力で、シアトル、トロント、ワシントンからヨーロッパの各都市へ、そしてサパティスタ行進が入場するメキシコシティーからポルトアレグレまで飛び、催涙ガスやバリケードの中で、シアトル以後の新しい行動様式と価値観を深めながら拡大していった反グローバリゼーション運動の現場レポートを生き生きと伝えている点だ。実際、本書に収録された文章の多くは「ワシントンやメキシコシティで抗議のあと、ホテルの部屋で夜中に、あるいは最寄りのインディペンデント・メディア・センターで、あるいは飛行機で移動中に急いで書き上げられた」ものだ。
 彼女の批判の矛先は、WTOからNAFTA、そして企業のマーケティング戦略から遺伝子組み換え作物、そして民主主義を破壊する「反テロ戦略」から反アパルトヘイトを闘った南アフリカのANC政権の新自由主義的民営化路線にまでおよぶ。
 彼女は訴える。「ネオリベラルの経済は、すべてのレベルで集中、統合、均質化をめざす傾向にあるが、これは『多様性』にしかけられた戦争である。それに対抗するには、多様性を奨励し、厳しく守る運動が必要だ。文化の多様性、生物学的多様性、農業の多様性、そして政治の多様性も。……目指すべきは、より良い指導者やルールではなく、地球に根ざした直接的民主主義である」と。

W・F・フイッシャー/T・ボニア編 日本経済評論社 2500円

『もうひとつの世界は可能だ世界社会フォーラムとグローバル化への民衆のオルタナティブ 』

 前に挙げた二冊の本が、手軽で読みやすいものだったとするなら、この書はポルトアレグレで開催された第2回世界社会フォーラム(二〇〇二年一月)で討議された諸問題の報告・記録文書を編集したものであるため、やや読みづらいかもしれない。しかしその分、世界社会フォーラムやグローバルな社会運動の問題意識と、なにが焦点になっているかを包括的に理解するためには非常に便利なテキストブックとして使うことができる。これもまたおすすめ本。
 第一部「富の生産と社会的再生産」、第二部「富の入手と持続可能性」、第三部「市民社会の主張と公共圏」、第四部「新しい社会における政治権力と倫理」の四部構成で、二十五章に分かれて、対外債務、金融資本、労働、連帯経済、環境、医療、食糧、先住民、メディア、教育、暴力、差別、軍国主義、人権、民主主義などのテーマで、全世界の多様な社会運動が今日のグローバル資本主義と戦争・暴力の構造に対してどのようなオルタナティブを提示していこうとするのかを、さまざまな角度から切り込んでいる。
 一致点、対立点などについても簡潔に整理されており、「もう一つの世界」に向けていまなにが問われているかの全体像を示してくれる。本書編集の中心を担ったトーマス・ボニアはアメリカの大学院生で第2回世界社会フォーラムのボランティア・スタッフをつとめた。また訳者のグループも、全員が一橋大学の大学院生。今日の世界的運動に理論的・実践的に関わろうとするアクティブな問題意識が本書を刊行した原動力だろう。
 編者たちは序論「世界社会フォーラムと民主主義の新たな創造」の中で述べている。
 「多くの活動家たちは、世界社会フォーラムを、あたかも、新しい政治主体であるかのように語る。しかしそれは、政治主体ではなく、学んだり、ネットワークを作ったり、政治的な組織化を行ったりすることを可能にする、教育的・政治的空間なのである」「これらの記録文書は、新しい左翼とグローバルな文明の建設のプロセスが、始まっていることを示している。この新しい文明は、二〇世紀の社会主義、あるいはアイデンティテイの諸言説を超えたものを、目的としている。ポスト資本主義的な生産の民主化を求めるだけではなく、エコロジー的、認識論的、ジェンダー的、人種的、民族的、性的、文化的、社会的、政治的な民主化、世代間の、諸個人の関係性の民主化を、求めている。急進的なプロジェクトの中心に、労働組合やアイデンティティ・グループがあるのではなく、それはすべての進歩的勢力がネットワークに結集し建設するための、差異の民主主義を求めるのである」。
 共産主義者組織=「アイデンティティ・グループ」としての私たちが、自己を不断に刷新しつつ「差異の民主主義」を求めるグローバルな空間に、どう主体的に関わるのか。これは私たちの共通の挑戦だろう。 (純)                     


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