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読書案内『トロツキー研究』特集 ソ連国家論とトロツキズムの分裂44号
編集発行 トロツキー研究所 発売 柘植書房新社 1800円+税
      
かけはし2004.12.13号

ソ連邦崩壊という歴史的現実に立った論争の再点検


「独ソ不可侵条約」の締結

 『トロツキー研究』44号は、一九三九年の独ソ不可侵条約の締結と、それに続くナチス・ドイツのポーランド侵略=第二次世界大戦の勃発を機にした、ソ連論をめぐるアメリカ社会主義労働者党(SWP)内の大分裂を特集している。この号には「戦争におけるソ連邦無条件防衛」という従来の立場を守ることに反対してSWPと第四インターナショナルから分裂したシャハトマンやバーナムらの主要論文が収録されている。
 スターリンがヒトラーに対してポーランドに対する「行動の自由」を保障したばかりか、ナチス・ドイツとともにポーランドの分割占領に踏み込んだ事実は、結成されたばかりの第四インターナショナルの「労働者国家ソ連の無条件防衛」の立場をめぐる深刻な内部論争を引き起こしたことは当然であった。この対立は当時のトロツキスト運動最大の勢力と影響力を有していたアメリカSWPを真っ二つに引き裂くこととなった。
 トロツキーは、アメリカSWP指導部のジェームズ・キャノンとともに、第四インターナショナルの綱領的立場を防衛するための論戦の先頭に立った。私たちは、この問題に対するトロツキーの立場を現代思潮社版第1期『トロツキー選集』9巻「ソヴィエト国家論」に収録されている「マルクス主義の擁護」と題した著作の諸論文、ならびに柘植書房『トロツキー著作集 1939〜40・上』に収められた「戦争におけるソ連邦」などの論文で知ることができる。

シャハトマン、バーナムの見解

 トロツキー、キャノンらに反対して「戦争におけるソ連邦防衛」の立場を放棄したシャハトマン、バーナムらの見解については、私たちはこれまで「プロレタリアートと世界革命に対する確信を放棄した小ブルジョア知識人の動揺」と見なしてきた。実際、バーナムが第四インターナショナルから離脱するや、シャハトマンとも決別し、『経営者革命』を著すブルジョアイデオローグに転向したことは、彼のソ連=「官僚的集産主義」論の誤りを立証するものだと考えてきたのである(私たちの考え方については『トロツキー著作集 1939〜40・上』に収められている酒井与七による解説参照)。
 しかし実際のところ、私はバーナムやシャハトマンの論文について全く読んではいなかった。シャハトマン自身、ソ連はもはや「労働者国家ではない」と主張しつつも、ブルーノ・リッツィやバーナムのように「官僚的集産主義社会」論を明確に主張したわけではなく、そのあいまいさが本号所収のジョゼフ・カーターの「官僚的集産主義」論によって批判されてきたことも、私は初めて知った。
 湯浅赳夫の『トロツキズムの史的展開』(三一書房刊)では「新党の書記長シャク(ハ)トマンは、トロツキーが予測したとおり、事物自体の論理に従い、《第三陣営》について語り始め、やがてソ連邦=労働者国家説を否定し、労働者国家でも資本家国家でもない第三のカテゴリーとしての《官僚制集産主義》説を主張するのである」と書いているが、それは正確ではない。むしろシャハトマンは、ソ連は労働者国家ではないとしてもロシア革命が打ち立てた「集産主義的所有形態」の進歩性にこだわっていた。
 バーナムは先述したように早くも一九四〇年には、完全にブルジョア陣営の側に移行したのであるが、シャハトマンも戦後の冷戦期においてはマルクス主義の立場を放棄し、AFL―CIOのマフィア的ボスであるミーニーの顧問になったことは、トロツキーとキャノンらによるバーナム、シャハトマンへの厳しい批判の正しさを確証しているように見える。しかしシャハトマン本人は別として、シャハトマン派の一部は、戦後もマルクス主義者としてアメリカ労働運動の一角に止まり、その流れを組む潮流は今日も第四インター派とともにアメリカの左派社会主義組織「ソリダリティー」(機関誌「アゲンスト・ザ・カレント」〔流れに抗して〕)の一翼を構成している。
 いま私たちは、ソ連・東欧のスターリニスト体制の崩壊の中で、あらためて当時の論争の性格を検証することができる地点にいる。ソ連邦の性格規定をめぐる論議は、トロツキスト運動の歴史的分裂の重大な要因の一つになってきた。そして中国、北朝鮮、ベトナム、キューバの問題をふくめ、それは決して過去の出来事ではない。
 バーナムらの「官僚的集産主義社会」論の是非について、ここで結論を出す必要はないが、彼らの主張についての歴史的資料が今回の特集で体系的に紹介されたことは、歓迎すべきことである。それは私たちの潮流の歴史的位置を考えていく上で、資するところ大である。

「戦争におけるソ連邦防衛」


 バーナムは、独ソ不可侵条約とヒトラーのポーランド侵攻直後の一九三九年九月五日、SWP政治委員会に提出(後に撤回)した「ソ連問題に関するテーゼ」で次のように述べている。
 「ヒトラー=スターリン条約の締結は、ソ連内部で生じていた一連の発展過程の一定のクライマックスを画するものであった。この発展過程は、スターリンの台頭からはじまり、この五年間に急速な体制転換の段階に突入した」。「ソヴィエト連邦をいかなる意味でも『労働者国家』とみなすことは不可能である」。「現在のソヴィエト国家の事実上の性格と、その抑圧と搾取が行われている様式とは、『官僚国家』という用語がその最も適切な定義であることを示唆している。政治的および経済的な権力と特権は、その国家機構とともに、官僚とその手先の所有物となっている」。
 そしてこのような搾取国家に転化したソ連邦が、現在の戦争に武力介入することは不可避であり、「この介入は、全体としての今回の戦争の全般的な帝国主義的性格に完全に従属したものになるであろう」。したがって、これまでの「戦争におけるソ連邦防衛」のスローガンは「社会愛国主義になるであろうし、その他の戦争当事国の人民の中で革命的発展を勝ち取る上での大きな障害物となるであろう」として、トロツキーならびにSWP多数派の立場を拒否したのである。
 シャハトマンが九月二十八日に提出した「現在の戦争におけるソヴィエト国家――少数派決議」は、この「ソ連無条件防衛」の放棄についてさらに次のように述べている。
 「われわれの運動によって理解されているとおり、この概念(「ソ連の無条件防衛」)は、ソ連がスターリニスト官僚によって支配されている場合でもソ連の防衛を呼びかけるということを意味するだけでなく、赤軍がどのような戦闘に従事していようとも赤軍を支援すること、すなわち、いわゆる『防衛』戦争であろうと『攻撃』戦争であろうと、どんな状況下でも赤軍の支援を支援する立場をとることを意味した。しかし、その革命的・国際主義的役割に忠実であるためには、第四インターナショナルは今や、ポーランドの労働者と農民に、革命的闘争に決起し、自らの武装力でもって、民族の抑圧者どもを、すなわち国の片方においてはヒトラーを、国のもう片方においてはスターリンをたたき出すよう呼びかけなければならない」。
 「このことは、ドイツ帝国軍に対しても赤軍に対しても闘争することを意味する。この闘争においては、革命的国際主義者は赤軍の勝利を支持することはできないし、しないだろう。なぜなら、この赤軍はスターリニスト官僚によって、帝国主義および民族抑圧者の手先として行動するよう強制されているからである」。
 しかしシャハトマンは、きわめて慎重に「現在の帝国主義戦争がソ連への干渉戦争に転化する可能性」を想定して、その場合には「必ずしもソ連防衛のスローガンを放棄するという結論が生じるわけではない」と付け加えていた。

「労働者国家」と「過渡期論」


 「ソ連の無条件防衛」を否定したシャハトマンは防衛主義の理論的根拠たるトロツキー=キャノンの「ソ連=堕落してはいるが労働者国家論」をどのように批判したのだろうか。
 シャハトマンは、述べている。
 「プロレタリアートは権力に到達し、社会主義への進化の基礎を築く。そして財産を国有化しその所有権を国家に与えることによって、それをまず前段階として国家所有にし、その次にそれを社会的所有に転換する。国家は階級ではなく、強制の諸機関の(軍隊、警察、監獄、官僚など)の複合体である。いったん生産・交換手段が国家所有になったならば、『誰が支配階級か』という問題は、ただ『国家は誰の手中にあるのか』という問題に答えることによって簡単に答えられる」「問題は次のように提起されなければならない。――『所有を自分のものにしている国家は誰の手中にあるのか』と。さらにいっそう単純かつ直接的に言えばこうなる――『誰が政治的に支配しているのか』」(シャハトマン「国家を所有しているのは誰か――トロツキーの手紙について」)。
 シャハトマンは、この国家所有形態について、トロツキーはそれを「労働者国家」であるための「必要条件」から「十分条件」に転換してしまった、と批判する。「トロツキーは、国内の政治体制がどれほど堕落し反プロレタリア的で反革命的にさえなろうとも、それにもかかわらずロシアは、財産(生産・交換手段)が国有ないし国家所有であるかぎり、(堕落した、ないし『反革命的な』労働者国家であり続けると主張した」(前掲論文)。
 シャハトマンは、こうした主張はトロツキーの元来の主張とは異なっている、と指摘する。もともとトロツキーは、社会主義プロレタリアートが権力を握る、ないしは官僚を改良の手段によって自己の統制下に置くことができることが、「労働者国家」であることの条件であると考えていたのではないか、と。ここからスターリニスト官僚体制をもはや改良の手段によってではなく「革命」によってしか取り除くことができない、と決断した段階で、ソ連はもはや「労働者国家」ではないという決断を下すべきだった、とシャハトマンは訴えたのである。
 シャハトマンは、ナチス・ドイツとの対比においてソ連国家の特殊性を強調した。ヒトラーは権力を奪取し、独裁体制を樹立し、社会を全体主義的に組織したが、その支配体制は資本家階級の所有関係を擁護し、大資本の利害を防衛するためのものであった。その意味でナチスの国家官僚は、独自の階級ではない。しかし生産手段を集中した国家を簒奪し「所有」したスターリニスト官僚は、自ら自身の利害のために支配を行う「階級」に転化したのだ、とシャハトマンは強調した。
 このようなシャハトマンの主張について、どのように評価すべきなのだろうか。今日、私たちはソ連=スターリニスト官僚支配体制の崩壊という歴史的現実に立って、一九三〇年代から現在にいたる論争を点検していかなければならないが、とりあえずカトリーヌ・サマリの「マンデルと社会主義への過渡期論」(『エルネスト・マンデル 世界資本主義と二十世紀社会主義』所収、柘植書房新社刊)を参照することが有益だろう。
 私たちは、自らの理論的蓄積と発展を検証しつつ、決して「護教論」的ではないやり方で論議を深めていかなければならない。そのためにも今号の特集は、重要な討論素材を提供している、と私は思う。
 なおこの号には、アメリカ・トロツキズム運動の分裂過程への一知半解と歪曲から生じた、きわめて無責任な「ネオコン=トロツキスト」論への批判が、山本ひろし「シャハトマン派とアメリカ知識人」(特集解題)、アラン・ウォールド「トロツキストはペンタゴンを動かしているのか」の二つの論考として収録されている。   (平井純一)      



投 稿

「モンスター」を観て
タイトルが投げ掛ける人間の尊厳と重さ痛み
                       S・M

実在した女性連続
殺人犯がモデル

 九月にシネマライズ2F(渋谷)で「モンスター」(パティ・ジェンキンス監督作品)を観た。
 ストーリーを紹介したい。一九八六年のアメリカ・フロリダで、アイリーン・ウォーノス(シャーリーズ・セロン)という女性は自殺を考えていた。ヒッチハイクをしながら体を売る生活に絶望したアイリーンは「最後の五ドルを使い果たしたら死のう」と考えてバーに入る。だが、アイリーンはそこで、親から同性愛の治療を命じられフロリダに来ていたセルビー(クリスティーナ・リッチ)という女性と出会う。
 アイリーンとセルビーは、恋をする。そしてアイリーンはセルビーに「二人で一緒に暮らそう」と提案する。そのためにはカネを稼がなければならない。アイリーンは再び道路に立つ。一台の車に乗ったアイリーンは、人里離れた森の中で男に凄まじい暴力をふるわれる。死の恐怖を感じたアイリーンは、とっさに男を撃ち殺してしまう。
 アイリーンは何も知らないセルビーを連れ出し、二人の楽しい生活が始まる。しかし、アイリーンが殺した男から奪ったカネは尽きてくる。セルビーはアイリーンに「約束どおり自分の面倒をみてほしい」と不満をもらす。
 アイリーンは「カタギの仕事」に就こうとするが、希望どおりの職は見付からない。娼婦を辞めたことを責めるセルビーに、アイリーンは男を殺したことを告白する。それでも「娼婦を続けて」とセルビーはアイリーンに懇願する。「セルビーとの暮らしを続けるためには客を殺してカネを奪うしか方法はない」と考えたのか、社会(男たち)への復讐のためか、アイリーンは犯行を重ねていく。
 だが、そんな生活が長く続くはずもない。警察は二人の人相書きを手配する。もはや捕まるのは時間の問題だ。そう感じたのか、アイリーンは、セルビーを彼女の故郷オハイオ行きのバスに乗せるのだった……。
 この映画は、実在した女性連続殺人犯アイリーン・ウォーノスについて描いた劇映画だ。アイリーンは、不幸な環境で育つ。売春でカネを稼ぎながら恋人と全米を放浪し、一年間で七人の男性を殺害した。一九九一年に逮捕され、二〇〇二年十月九日フロリダ州刑務所で薬物注射によって処刑された。
 これは、特権階級や「中間階級」のための映画ではない。「虐げられた階級」のための映画だ。
 セルビーは、アイリーンを人間として扱った。アイリーンが「男も女も嫌い。だけど、あんたは好き」みたいなことをセルビーに言うシーンがあったが、そのセリフが良い、とぼくは思った。スケート場の外でセルビーと別れた後のアイリーンがとても幸せそうなしぐさをするシーンが、ぼくは好きだ。「妻も娘もいる。孫も生まれる(生まれただったか)。だから助けてほしい」みたいなことを言う男性をアイリーンが悩みながら殺すシーンがあったが、被害者と加害者の苦しみが同時に伝わってきて、とても悲しくて、とても痛々しかった。
 アイリーンは子どもの頃は女優になることを夢見ていた。人間は、誰もが幸せな生活をしたい、と思っているはずだ。どこに好き好んで殺人を犯したいと思う人がいるだろうか。民衆間の殺人は、殺人を犯す個人が悪いのか、それとも民衆を殺人者にさせてしまう社会が悪いのか。この映画を観ると、そんなことを考えさせられる。
 ぼくがアメリカ人で裁判官だったとしたら、死刑制度に賛成する愚かな人間だったしても、アイリーンの死刑には反対した、と思う。刑罰の未来はどうあるべきなのか。そもそも人間が人間を罰するということをどう考えるべきか。そういう問題もあるが、女性が男性よりも抑圧されている社会においては、女性に対する刑罰は男性よりも軽くすることが法律で保障されるべきではないか(マイノリティに対する刑罰も軽くすることが法律で保障されるべきではないか)。娼婦の人権についても光が当てられるようになっていいのではないか。ぼくは、そんなことを考えた。
 「アフガン零年」(セディク・バルマク監督作品)を観た時、ぼくはアフガニスタンというのは、なんて酷い社会なんだろう、と思った。映画を観ている間、口をぽかんと開けたままだった。だが、「モンスター」を観て、アフガニスタンのみが女性を抑圧しているのではないこと、アメリカもまた女性を抑圧する社会なのだ、ということを思い知らされた。この映画を観て、ぼくはアメリカ社会というものが同性愛者に冷たい社会でもあるということを感じた。
 この映画には、よく分からないところがあった。(アイリーンの)一人目の殺人は、ある種の正当防衛だった。一人目の殺人はよく理解出来た。だが、二人目以降の殺人は、今一つ「なぜ殺さなければならなかったのか」が、よく分からなかった。また、セルビーの裏切りも、よく分からなかった。アイリーンには、トーマス(ブルース・ダーン)という友人がいた。そのことがとても良かった、と思った。
 この映画のプログラムの「アイリーン・ウォーノス 年表」には「処刑前の数時間、アイリーンが共に過ごす相手として選んだのは、学生時代の旧友で、獄中生活の最後の数年間文通を続けていたドーンという女性だった」と書かれている。ドーンという女性は、アイリーンの良き話し相手になってあげただろうか。ぼくがアイリーンと同じ立場だったら、処刑前の数時間、誰と共に過ごすことを望むだろうか。そんなことを、ぼくは考えた。

モンスターの本当の意味は何か


 この映画には、ぼくの誤解でなければ、「精神障害者」を差別するような表現があった。その点が残念だ、と思った。
 三人の言葉を紹介したい。未唯(みい)さん(歌手)は、新聞の「広告特集」の中で、この映画について、「映画を観たあと、悲しくて、切なくて、ふるえながら試写室を出てきました」というようなことを述べている(『朝日新聞』9月16日夕刊)。また、モンスターというレッテルについては、「人間って、自分の予想を超える存在とか想像もつかないものをそう呼んで、それ以上考えることを放棄するものです」と述べている。「モンスターっていうのはその人本人ではなくて、彼女を追い払い、突き放してしまう周囲とか社会であるとも言えると思うのです。臆病な私たちの心の中に、傷ついて痛みを抱えている人を拒絶するエゴが潜んでいる」とも述べている。
 「モンスター」でアカデミー主演女優賞を受賞したシャーリーズ・セロンは「今までの役は、男性スターのガールフレンドとか妻で、美しくチャーミングにしていればよかった。女優としてどこかに物足りなさを感じていた……」とコメントしている(『SCREEN』10月号、近代映画社)。また、ロジャー・エバートは、「シャーリーズ・セロンは映画史上最高の演技を残した!」と評している。
(11月7日)
 「モンスター」/2003年/アメリカ映画/原題 MONSTER


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