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山と芸術を愛した右島一朗同志を偲ぶ          かけはし2004.10.25号

社会主義再生への志と苦闘を継承しよう

情勢に切り込む尖鋭な問題提起党派・無党派を超えた深い信頼

懸命に携帯電話を探した

 十月十日、山で滑落死した本紙編集長右島一朗さんをしのぶ会が行われた。東京・日本教育会館には、主催者の予想を超える百五十人余の人々が続々と訪れ、革命運動の再生に尽力した故人をしのんだ。会場には、右島さんをしのぶ写真、登山用具、CD、彼の模写した絵画が飾られ、音楽も流された。右島一朗追悼集も配られた。
 はじめに一分間の黙祷が捧げられた。そして静岡の桜井建男さんから、事故直後の捜索の経過が語られた。
 「連れ合いの政子さんは『無宗教』なので、荼毘に付すときは線香ではなく、たくさんの花で送った。彼女は遺品の中から、懸命に携帯電話を探していた。最後の瞬間に、右島君が自分宛に電話をしたのではないか、という気持ちからだ。しかし赤石沢は非常に深い沢で電波は届かない。そのことは彼も十分知っていたのだろう。電話は使った形跡はなく、ザックの中にしまわれていた」。

彼を写真の師匠と仰いだ


 日本革命的共産主義同盟(JRCL)を代表して、国富建治さんが発言した。
 「彼が『世界革命』紙の編集に関わるのは、戸村一作選挙の頃だったと思う。それから約三十年間、機関紙の編集発行に関わってきた。現在は全国の人々の力でなんとか発行を維持しているが、高島論文はもう読めない。これは大きな空白である」「彼は一年間で原稿用紙千枚を越える量の執筆をしていた。これは決して義務感からではなかったと思う。彼はあれもこれも言いたくて、書きたくて仕方なかったのだ。それを紙面で発表しなければ、いてもたってもいられなかったのだ。こうした意欲を、論理的な検証に足るひとつの論文として作り上げていく努力や能力は、並大抵のものではなかった」。
 協同センター・労働情報の浅井真由美さんが、故人との思い出を打ち明けた。
 「私はひそかに右島さんのアングルを真似ていた。彼を写真の師匠と仰いでいた。二人でデジカメで、どちらがよく撮れたかと競い合っていた。労働情報が今日まで続けてこられたのはみなさんのおかげです。強力な協力者が一人いなくなってしまった」。
 反天皇制運動連絡会の天野恵一さんが回想した。
 「私たちはニュースを出しているが、集会報告などの記事に困ったときの合言葉は『かけはしを探せ』だ。それは政治主張への共感というより、客観的な報道をする『かけはし』というメディアへの信頼なのだ。そこから事実関係を流用している。それは僕たちの関係を象徴するエピソードだ」「山をやっていた彼は、もしかすると厭世観を持っていたのだろうか。そうではないと思う。彼は『自民党改憲プロジェクト』が出した『論点整理案』を批判する論文を書いていた(本紙04年7月26日号掲載)。おそらく彼の最後の大論文だろう。自民党のそれは『読売試案』を超える、信じ難い天皇主義的な反動的な改憲論だ。これに反対する大衆運動をどう作っていくか、真剣に考え抜いて書かれているのだ。僕はそれを読んで大いに共感した。これを書く人が厭世観を持っているわけがない」。

「もう一度山に行こうな」

 原水禁国民会議事務局の井上年弘さん。「右島さんとは十年前に一度ザイルを握ったことがある。谷川岳に二人で登った。体型がまったく変わらない彼は『クマさん。君があと十キロ痩せたらもう一度行こうな』と言ってくれた。結局約束は果たせなかった」「反原発や日市連の運動では、大変お世話になった。運動にも山にも、さまざまな場面で誠実だった。不誠実なことが多いなかで、誠実な人が亡くなるのは本当に残念だ。彼の気持ちを代弁しながら、これからも運動を続けていきたい」。
 司会者が「各種の裁判や運動を通じて、いつも温かくお世話になっている弁護士の内田雅敏さん」と紹介。内田弁護士は次のように語った。
 「人の死に触れるたびにいつも思い出す言葉がある。ヒットラーに反対した作家の言葉だ。『人が死んでも、生きている人間が覚えていてくれれば、本当に死んだことにはならない』。これから私は集会に行ったとき、山に行ったとき、しばしば右島さんのことを思い出します。右島さんは私たちの心の中に生きている」。

内ゲバを非常に嫌っていた


 許すな!憲法改悪・市民連絡会の高田健さん。「山から下山した時、彼の死を知った。先の発言でも出たが、彼が自民党の『改憲論点整理案』に注目し、批判したことは非常にうれしかった」「私たちは所属は違うが護憲運動では共通し、彼との議論はいつも参考になった。彼も私を理解してくれていると内心心強かった。この悲しみを力に変えていく。彼が生きようとした道を、私自身のエネルギーに取り込んで前進することで、彼ともう一度しっかりと結び合うことができると思っている」。
 東京薬科大学時代の友人笹本和彦さん。「右島は在学五年目で三年生になった。ろくに学校に行ってなかったのに、なぜ卒業できたのか」「彼は立て看書きがうまかった。私とは最初はヘルメットの色が違っていたが、一緒に活動していた」「彼は内ゲバを非常に嫌っていた。それは彼の信念だった」「彼は非常に頑固者である反面、ウソがなく間違いもすぐに認めた。私にとって兄貴のような存在だった」。

彼に追いつき追い越そう


 元労働情報編集長の樋口篤三さん。
 「私は二つの編集長(季刊労働運動、労働情報)をやった。『かけはし』は実に新聞らしい新聞だった。編集長の右島はたいしたもんだ。革命的ジャーナリズムなしに革命運動はない。ジャーナリストは常に現場にいなきゃだめだ。彼はそれを体現したまれな人物だった」「今日は若い人も来ているが、彼を目標にして、追いつき追い越そうとしてほしい。先日民主労総の幹部と話をしたが、われわれは今や韓国の労働運動の後塵を拝している。力を合わせて『組織・宣伝・財政の統一』を実現し、革命運動を再生しなければならない。これが右島君への追悼の言葉だ。みなさんの中から後継者が出ることを期待している」。
 日本陳独秀研究会会長の佐々木力さん。
 「右島氏とは最近もっともし烈に論争し合った仲です。彼は日本のトロツキスト運動のなかでは、もっとも立派な機関紙を作った。彼の著作集の計画が進んでいるようだが、彼に対する最高の贐(はなむけ)になる。財政的にも協力したい。そのことを誓って『右島よ安らかに眠れ』と言いたい」。

「幸せなことだ、そう思うしかない」


 トロツキズム運動の大先輩であり、トロツキー研究所の所長でもある塩川喜信さん。
 「彼の遭難死を知って非常に驚いた。いつかこういう日がくるという不安が、現実のものになった。彼とは一九九〇年からの付き合いで、よく山の話をしていた」「彼は一番好きな山で死ねた。私の父も一九三九年、戦争が激しくなるなかで山で遭難して死んだ。それはきっと幸せなことだ。そう思うしかないだろう。彼の人柄や実績を引き継いでがんばって欲しい。僕も彼から学んだことを生かしていきたい」。
 新時代社の大門健一さんから「著作集出版」についての報告があった。「刊行準備委員会を作りました。彼は膨大な論文を残している。来年八月をメドに立派なものをつくりたい。ぜひご協力とカンパを」。

カーテンが風に揺れて


 弔辞の最後にパートナーの政子さんが登壇。
 「いろんな人から、私の知らない彼の話を聞いた。ホントにひどい人だと思った。私たちは東薬の頃からずっとつきあってきた。今でも学生の頃のままだ。娘が今、私たちが知り合った年頃になった」「右島さんが私の家に来た時、父に『とにかく卒業だけはしてくれ』と厳しく言われた。だから、なんとか一緒に卒業した」
 「六月にその父が死に、八月には娘が中国に留学した。久しぶりにのんびりできるので、前から行きたがっていた赤石沢に行ってきたらと私から言った。私は母が一人残る実家に帰るので、彼には『鍵と窓を閉めて出掛けるように』ときつく言い残した。帰ってくると南側の窓が開いていた。『あれほど言ったのに……』と思ったが、風に揺れるカーテンがすごくきれいだった。その時、何か不思議な気持ちがした」
 「彼は、体力があるうちに赤石沢に行きたい、と何度も言っていた。好きな運動も山も、心おきなくやったと思う。死の直後は、なぜ私だけ残して逝ったのかと恨んだが、今は、私は私で楽しく生きようと思っている。みなさんからたくさんの励ましをいただき、どうもありがとうございました。彼の思い出と共に、これからは楽しく生きていきたいと思っています。今日は本当にありがとうございました」。

「千の風になって」で送る

 発言予定者のすべての弔辞が終わった。「インターナショナル」「千の風になって」を、参加者全員で合唱した。最後に順番に献花を行い、追悼式は閉会した。この後、懇親会として場所を移し、引き続き右島さんの思い出が語られた。(S)


人間の輪ができあがった!

滞日外国人の権利を保証し長期収容をやめろ

 十月十三日夕方から、滞日外国人の権利と長期収容ストップ、一四三五人の収容者との連帯を掲げ、法務省を取り囲む人間の輪行動が取り組まれた。主催は「1435虹の架け橋・人間の輪実行委員会」で、移住労働者と連帯する全国ネットワーク、APFS(アジアン・ピープルフレンドシップ・ソサイアティ)、全国難民弁護団連絡会議など四十団体の賛同をもって準備されてきた。
 その結果、当日は寒風が吹く中でも、法務省前は足の踏み場もないというくらいの人が集まり、目標六百人を超えて七百五十人にのぼる人々が、法務省を囲む行動に参加した。ケミカルライトや虹のプラカード、そして、虹のビニールテープ、虹の旗がはためく中、警察の不当な規制によって、法務省を囲む完全な輪はできず、道路をはさんでの輪となった。
 午後六時からのイベントでは、当事者たちのリレートーク(難民、家族の在留特別許可を求める子ども、長期単身滞在者など)、福島瑞穂さんら国会議員のアピール、そして、喜納昌吉さんやイイダコス・バンドのミニ・コンサートが行われ、大変な盛り上がりを見せた。喜納さんの「花」の歌に合わせて、大きなウェーブと合唱もあった。
 また、一四三五人といわれる入管収容所に収容中の人たちとも連携できた。東日本入国管理センター(茨城・牛久)、東京入管収容所(東京・品川)では、十三日、当事者の二四時間のハンガーストライキが行われたこと、そして、西日本入管センター(大阪・茨木)から十九人の要請書、牛久のセンターから収容者四十九人の署名、品川収容所から、収容者二十八人の署名と九通の要請書が、五時から行われた交渉において法務省に手渡されたことが報告された。
 移住労働者を囲む状況は、「対テロ戦争」の下で世界的にも厳しい現実がある。日本でも「五年間で『不法滞在者』を半減させる政策」が公表された昨年末以来、法務省入国管理局のホームページで「不法滞在等の外国人情報」のメール受け付けなどが公然と行われ、オーバーステイの外国人を摘発・強制送還するケースが激増している。
 その中で、人権のルールは万人に共通のものだと訴え、多くの人々を集めることができた本キャンペーンの成功は、次の行動と日本政府の政策転換への現実的展望につながるものであった。      (北野)
【法務大臣に提出した要請書の内容】
○収容について○
 不必要な収容はしないでください。とりわけ、難民申請者、家族のある者、長期滞在者、病気・怪我治療中の者、子ども、高齢者、裁判係争中の者、妊婦、送還の目処がつかない者…の収容は絶対にやめてください。無期限収容はやめてください。
○在留について○
 難民、家族、子ども、長期滞在者、そのほか人道上の配慮を要する外国人に対し、在留を許可してください。
○難民について○
 難民鎖国をやめ、日本をようこそといえる国にしてください。 迫害を止めさせるための平和外交をしてください。
○差別禁止及び多文化共生について○
 多民族・多文化共生社会を目指した施策を立案・実行し、人種差別禁止法を制定してください。


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