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ドイツ                        かけはし2004.09.20号

深まりを見せる社民党と労働組合運動との亀裂(上)

新自由主義政策に対する抵抗が発展している


                          ティース・グライス

 伝統的に強い紐帯で結ばれていたドイツ社民党(SPD)とドイツ労働総同盟(DGB)との間に深い亀裂が入り出した。ドイツ統一以後の新自由主義政策はシュレーダー、フィッシャーの社民・緑政権によって継承され、いっそう強化されている。労働時間延長、賃下げ、年金改革の攻撃に対する一般労働者の抵抗はATTACなどの社会運動と結びつき、労組指導部をも突き動かしている。「インターナショナルビューポイント」5・6月号より。



 欧州の経済的に最も重要な国であるドイツで、労働組合の最後の大闘争が行われてから二十年後に一つの闘いが始まった。その結果はドイツの国境を越えて波及しようとしている。

20年前の週35時間労働要求スト


 一九八四年に、ドイツ労働総同盟(DGB)に組織されていた組合の大多数は、週三十五時間労働を要求して闘った。六週間のストライキとロックアウトがあり、労働組合内の公然たる分化が発生した。当時「五組合集団」と呼ばれた少数派組合(主として化学労働者および鉱山労働者の組合)は組合の統一に挑戦し、労働時間短縮に関する妥協を求めてキリスト教民主同盟/自民党政府と交渉した。
 労働大臣でありキリスト教民主同盟(CDU)のメンバーであったノルベルト・ブリュムは早期退職のためのいくつかの法律を通過させた。今日では、このような臆病な労働時間の短縮でさえ非難されているが、実はそれらは大量失業に対して闘っていた労働組合の大多数が支持していたもっとラディカルな要求に対する政治的反応であったことは多くの場合忘れられている。
 IGメタル(金属産業労組)、印刷労働者組合、およびその連帯組合は、やや保守的な指導部の躊躇にもかかわらず、社会的連合を形成して一日労働時間および週労働時間の短縮を要求して闘った。連邦議会選挙での緑の党の成功(初めて国会での議席を獲得した)に勇気づけられた反核運動や巨大な反ミサイル運動(すでに衰退の過程にあったが)が豊かな可能性を開いていた。
 これらの社会に深く張られた社会的運動の根がなければ、週三十五時間労働を要求する闘いは、昨年の東ドイツにおける週三十五時間労働を要求する闘いのように、惨めな敗北に終わっていただろう。コール首相は週三十五時間労働を「愚かで馬鹿げている」と非難したが、雇用者団体は彼らの「タブー集」への違反にかまわず前例のない対応をした。
 闘争中の労働者と特に政治的左派にとっては、長期の厳しいストライキの後の有望な情勢の中であったが、一九八五年の妥協(十年間に段階的に三十五時間労働を導入する)は大きな失望をもたらした。この批判は正当ではあったが、それでもやはり、このストライキは階級間の力関係を変化させ、ほとんど全欧州に影響を及ぼした、と言うべきである。
 いずれにせよ、労働組合は、(一九八二年以来権力の座にあった)キリスト教民主同盟/自民党の連合が自らに課した中心的政治的プロジェクト「モラルと精神の変革」に大きな打撃を与えた。資本主義社会の枠組と潜在的に衝突する週三十五時間労働の概念は、大量失業に反対する非常に強力な闘争が欧州的課題として推進してきたものであった。

ドイツ統一後に「冬の時代」到来


 しかし、この希望あふれる春の後に続いたのは、暑い夏や秋ではなかった。労働組合指導部は、「永久政権」首相コールの政府に対して妥協的になり、特に一九九〇年のドイツ民主共和国(GDR)の終焉とドイツ再統一後はいっそう妥協的になった。契約が予想していた労働時間短縮の緩やかなリズムは、合理化や柔軟性の拡大処置や労働のリズムの強化によって相殺された。労働の再分配は相対的にわずかしか実現しなかった。組合自身でさえ、週三十五時間制の導入後作り出された働き口は約十四万人分に過ぎなかったと言っている。このようにして、約一〇%という長期大量失業が西ドイツ社会の深刻な現実となり、ドイツ統一後、この状況はさらに悪化した。
 東ドイツでは、「併合」後の意図的な産業破壊政策が終わって「特別経済地区」となり、そこでは実質失業率は労働人口の四分の一と三分の一の間であり、若者は国を出て西に移り、どこよりも労働時間は長く、賃金は低く、資本家の傲慢さはひどくなった。一九九〇年夏の東ドイツ・マルクと西ドイツ・マルクの一対一交換比率の導入は、東の経済的崩壊と西の消費財産業の経済的ブームをもたらした。
 物言わぬ組合指導部と恒久的大量失業は、賃金に対する圧力を上昇させた。二十年にわたって、事実上購買力は停滞した。多くの労働者は、柔軟性拡大に関する契約や「年間労働時間」制の実施のために残業手当を失った。
 一方では、郵便や電気・ガスのような公共サービス料金や民営化されたサービス料金は毎年上昇した(例外は電話料金だけ)。健康サービスの「改革」はさらに可処分所得を減少させた。さらにその上に、賃金労働者は十四年間にわたって、東ドイツにおける資本主義的リストラの資金をまかなうための「連帯補助金」と呼ばれる追加税を払っている。

労働組合員数は急激に減少した


 これらのすべてが、労働組合運動の物質的基盤を絶えず掘り崩している。IGメタルが二年前に行った世論調査は、紛れもない状況を明らかにしている。組合員の圧倒的多数、および非組合員や元組合員の多数は、指導部に対して、賃金の上昇をもたらす政策を推進することを期待している。しかし、この労働力の集団的販売という労働組合の第一義的な任務は、ますます果たされなくなっている。
 ほとんどすべての団体交渉の過程において、同じ儀式が繰り返されている。悪い取り引きを受け入れる可能性はないという宣言が何週間も繰り返されたあと、インフレ率が穏やかに留まっているとはいえ実質賃金の低下と見習い労働者の状況の悪化をもたらす長期協定が結ばれる。このことが若者と職場の労働組合構造の中に怒りをもたらしている。なぜなら、組合指導部は、何百もの職場評議会や下部組合集会の決定を無視しているからである。下部の集会は、全員の(定率ではなく)等額賃上げと短期協定を繰り返し決議している。
 このことが、ドイツの労働組合員数の減少を説明する(警察組合、列車運転士、航空機パイロットやその他の特殊な従業員の職業別組合を除く)。大部分の賃金労働者は、DGB(ドイツ労働総同盟)の労働組合が賃上げにとって依然として役立つ手段であるかどうかについて正当な疑問をもっており、若者はより良き未来のために闘うあらゆる意志を失っている。
 DGBの労働組合は、一九九一年以降、組合員数の三分の一を失った。東ドイツの古い労働組合との統一によってめざましく増えた組合員数は、十年間でゼロに戻った。特に失業者は大量に組合を離れ、労働組合内の失業者のための組織はわずかしか残っていない。仕事を失ったものは、同時に組合をやめるのが一般的である。
 二十年間の組合指導部の反応は、組織の「穏健化」であった。複数の組合が合同してより大きなグループを形成した。たとえば、IGメタル(金属産業労組)は木材および繊維の組合を吸収し、化学労働者と炭鉱労組が合同した。
 もっとも目立ったのは、公共サービス労組(OTV)とメディア労組が合併して巨大なヴェル・ディ連合が形成されたことである。これにともなって「構造改革」と新組合員獲得のキャンペーンが行われたが、具体的内容はますますなくなっていた。
 「労働アカデミー」のような組合カードルの訓練学校やその他の研修施設や研究所は、閉鎖されるか、組合から分離され、多くの場合民営化された。このこと以上に、コール時代以来さらに強力になった新自由主義的イデオロギーの圧力は、ベルリンの壁崩壊以降、恐るべき政治的退廃をもたらした。
 大部分の労働組合指導部は、活動の中心を職場における活動に戻したいと考え、これが最も重要な下積みの依頼人である熟練非移民男性労働者の利益になると考えている。しかし、この短期的な計算でさえ挫折している。
 政治的分野では、大部分の組合指導部は官僚的に社会民主党に結びついているが、幻滅が広がっている。CDU/FDP(キリスト教民主同盟/自由民主党)政府に対する不適切な野党としてのSPD(社会民主党)の役割は、しぶしぶではあるが忠実に受け入れられた。
 一九九八年の選挙運動においては、組合指導部は、ゲルハルト・シュレーダーのSPDとジョシュカ・フィッシャーの緑の党に対して四百万ユーロ以上の支援を約束した。しかし、赤と緑の連合の勝利の後、失望が急速に広がり、組合は何度も「われわれの」政府によってだまされた。

シュレーダーと「第三の道」路線

 一九九〇年代半ばにIGメタル(金属産業労組)のトップであるツヴィッケルの提案から始まった「働き口のための協定」は、実りのない交渉の後、挫折した。「社会的パートナー」(政府、組合、雇用者団体)の会議は何ももたらさなかった。雇用者側は会議を重視せず、組合代表には譲歩の用意がないことを強調して、会議に関心がないことを示しさえした。一九九八年の働き口のための協定更新の試みの後、シュレーダー首相はこの概念に対する関心が非常に低いことを示した。緑の党の中には労働組合の敵が多いが、緑の党は協定を公然とけなした。
 シュレーダーがトニー・ブレアから借用した「第三の道」の理論では、社会的協定の考え方は非難される。なぜなら、組合指導部の奴隷根性と協力の望みにもかかわらず、社会的協定の考え方は社会階級に分裂し利害の敵対に引き裂かれた社会の見方に基づいているからである。シュレーダーは、専門家による議会特別委員会や、交渉なしに提案を「一対一」で行う彼の「倫理評議会」に頼ることを好むようになっている。「働き口のための協定」をめぐる交渉が挫折したとき、シュレーダーはいらだちを示し、労働組合代表を軽蔑を持って扱った。
 ヘルムート・コールの支配の十六年間が、労働組合運動の腐朽が始まった年月だったとすれば、赤と緑の連合は、恒久的な屈辱であった。二〇〇二年の選挙運動による中断はあったが、赤と緑の連合は新自由主義的、反労働組合的政策を発展させた。それは前任者がそこまで過激には決してやれなかったようなものであった。このようにして社会民主党と緑の党は、まさにドイツに「モラル的精神的」変革をもたらした。
 基本的には、この政策には二つの綱領的立場が含まれている。
1 賃金と社会保障費を削減し、私的資本の利潤率を高めるプログラム。
2 経済的、外交的手段と共に軍事的手段を通じて、「新世界秩序」の中でのドイツの地位を防衛し発展させる一貫した努力。
 少なくとも、二〇〇二年のシュレーダーの再選以降、「われわれの労働コストは高すぎる」という表現が、ドイツの政治的議論を支配するようになった。この主張には、あらゆる戦線での賃金労働者に対する攻撃がともなっている。それは、賃金労働者は賃金の一部、すなわち「第二の賃金」と呼ばれる年金、社会保障、失業手当などを放棄すべきである、というものである。この額は総額で千八百万億ユーロに達する。経営者たちは、これは高すぎると考える。原則的には従業員と経営者たちが半分ずつ負担するが、実際には、これは将来のために積み立てられた賃金額の一部である。年金や医療費払い戻しの削減は、すでに民間保険会社に利益を与えている。しかし、これは雇用者側にとっては十分ではない。彼らは年金および医療保険制度の民営化が、保険会社と銀行にとってもうかる分野であると考えている。

週35時間労働は事実上「空文化」

 一九九八年以降、労働組合運動は、社会保障の分野で重要な妥協を何度も行った。年金の部分的民営化を受け入れ、医療費の一部支払いと十ユーロの初診料支払いに対する抵抗の高まりをなだめた。労働組合指導部からのこのような妥協は、綱領や以前に行われた組合大会の決定を修正するのが不可能なほど迅速なものであった。しかし、最も深刻な問題は、組合が「法外な第二の賃金」という論理を受け入れたことである。
 賃金労働者に加えて、仕事のない若者や退職者がシュレーダーの「第三の道」の第二の標的になっている。
 大量失業は年間六百五十億ユーロの費用を社会に負担させ、年金はそれ以上を負担させている。雇用者側の負担の削減の他に、年金の削減およびとりわけ失業手当の削減に関する政治的決定が行われた。すなわち、失業手当は、三十二か月ではなく、最大十二か月(五十五歳以上は十八か月)支払われる。
 ハーツ法の枠組みの中で、失業者は三方面から攻撃を受けている。手当ての額と期間が削減された。失業者個人が新しい仕事の受け入れに関して要求できることを管理する規則が厳しくなり、今や場合によっては強制労働に近いことも行われている。失業者は、ボスや専門家や政府が発展させたいと望んでいる「低賃金部門」に向けられている。この部門は、パートタイム労働や臨時雇用がつきものであり、労働市場に圧力を及ぼし、全体としての賃金を押し下げている。
 ハーツ法に基づいた交渉に合意する中で、労働組合指導部は大会の決定や以前に決定した政策とは正反対の政策を受け入れた。特に、臨時雇用についてこのことが当てはまる。あらゆる世論調査において、このことが不信の的になっており、事実上すべての人々がこれを拒否している。SPDの現在の綱領でさえ、依然として臨時労働の禁止を予想している。
 最近、第三帝国時代以来はじめて、資本と国家は一日の、週の、年間の労働時間の延長を目指す攻勢を開始した。言い換えると、資本は絶対剰余価値を増加させようと試みている。マルクスならそう言うであろう。すでに、いくつかの州は公務員労働者について週四十一時間または四十二時間労働を導入した。この労働時間の延長は、全体としての公共部門に拡大されようとしており、次には民間産業に拡大されるだろう。銀行法定休日数や年間休日数の削減に関する議論も行われている。また、退職年齢を六十七歳以降に延長する計画もある。
 これらのすべての計画の背後には、ひとつの考え方、すなわち賃金の引き下げが存在する。この春の団体交渉の中で、雇用者側はIGメタル(金属産業労組)が賃金引き上げなしの労働時間の延長を受け入れるように要求したが、これは拒否された。
 残念ながら、組合指導部は会社が困難に陥っている場合は例外であることを認めた。これは、直接的攻撃をはね返したとしても、今や三十五時間労働の一般規則の例外が存在することを認めたことを意味する。(つづく)


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