| 民主党「憲法提言中間報告」批判 かけはし2004.09.13号 |
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自民党案を補完し、「憲法を国民から取り上げる」改憲構想 |
自民党と民主党の改憲案の差異
二〇〇四年八月三〇日、岡田克也が民主党の代表に再選された。岡田が代表選立候補にあたって発表した「2015年、日本復活ビジョン」では、「成熟した民主主義国家だからこそ、必要に応じて憲法改正することは当然」と述べられている。民主党は、昨年の総選挙に際して、それまでの「論憲」から「創憲」へと立場を転換したが、自民党が来年の結党五〇周年にあわせて改憲草案を発表するとしているのに対抗して、民主党も来年には改憲案を発表するとしているのである。
民主党は一体どのような改憲案を考えているのか。民主党憲法調査会が六月二十三日に発表した「憲法提言中間報告」(以下、「中間報告」とする)がその手がかりになる。
六月十日に発表された自民党憲法改正プロジェクトチームの「論点整理(案)」が、「わが国の歴史、伝統、文化」を前面におし出した復古的色彩の極めて強いものであった(「かけはし」04年7月26日付 高島義一論文を参照)のに対して、ここに見られる民主党の改憲構想は、その冒頭の「グローバル化・情報化の中の新しい憲法のかたちをめざして」という言葉に象徴されるように、はるかに現代的でスマートな印象を与えるものとなっている。
このような差異が生まれたのは、自民党の改憲構想が、新自由主義的「構造改革」の推進の結果として引き起こされる社会統合の危機への対応に重点を置いているのに対し、民主党の改憲構想が、新自由主義的「構造改革」の推進・貫徹そのものに重点を置いているからだと思われる。また、改憲の最大の焦点になっている九条改憲についても、自民党の改憲構想が日米同盟重視の集団的自衛権論を打ち出しているのに対して、民主党は国連重視の集団的安全保障論を打ち出している。
このような保守「二大政党」間の改憲構想の差異は、現代日本の支配層にある二つの路線――相互に対立しながらも補完しあう二つの路線――の反映であるといえるだろう。
「構造改革」の体制づくり
「中間報告」では、統治機構について、「官僚主導」を排するという観点から一連の改革を提起している。より強権的な政治体制の確立を目指すというのは自民党の改憲構想にも共通した性格ではあるが、民主党の改憲構想の場合は、それがあくまでも官僚機構の主導性の打破という観点から打ち出されているところに、この党の新自由主義的傾向を見ることができる。
「構造改革」の推進にとって、官僚機構の主導性がなぜ問題になるかと言えば、それが自民党の族議員とむすびつき、既存の利益誘導政治の維持をはかっていると考えられるからである。官僚機構は、自らの権益維持のためにも、「構造改革」がめざす財政支出の削減や規制緩和に抵抗する。くわえて、各国務大臣が行政いいなりになっているようでは、たとえ首相が改革の意志を持っていても、その貫徹は難しいと考えられるのである。ここから、官僚機構の主導性を打破して首相の強力なリーダーシップを確立することが「構造改革」推進・貫徹のために不可欠だという発想が出てくる。
このような考え方にもとづいてのことだと思われるが、「中間報告」では、議院内閣制について、「首相主導の議院内閣制の確立」のため、「行政権」ならぬ「執行権」が内閣ではなく首相に属することを明確にするとしている。また、閣僚となった議員以外が行政へ関与することを厳しく制限するために、与党議員は政府の大臣を通じて、野党議員は野党第一党のシャドーキャビネット大臣を通じて以外の議員の公務員への接触を禁止することも提起している。
このように、「中間報告」の記述からは、官僚機構の政策決定過程への介入を極力排除することで首相の強力なリーダーシップを確立しようというねらいを見て取ることができる。
では、国会についてはどうか。「中間報告」は、参議院議員の大臣指名を廃止すること、参議院から予算審議権を奪い決算審議のみを分担させることなどを提起している。事実上の一院制化に近いところまで衆議院の権限を強化しようというのである。こうなれば「構造改革」推進のために必要な立法活動が迅速に行えるようになる。
さらに驚くべきことに、「中間報告」は、選挙制度の基本についても憲法に規定すべきとしている。さすがに、具体的にどのような選挙制度が望ましいかについてまでは言及されていないものの、これまで民主党が望ましいと主張してきた選挙制度は、言うまでもなく小選挙区制である。「中間報告」は、「二大政党」化を促す小選挙区制を憲法レベルで固定化することをねらっているのである。
この他、違憲立法審査権を持つ独立機関として憲法裁判所あるいは憲法院の設置も提起されている。それが実際に設置されるならば、世論を二分するような法律については早々と合憲の判断を下すことによって、違憲論に依拠した反対運動を封じる機能を果たすことになりかねない。
このように、「中間報告」は、「構造改革」の効率的な実施を可能とする強権的国家体制づくりを提起している。首相が強大な権限を集中した議院内閣制の下、事実上の一院制国会は保守「二大政党」によって独占され、憲法との絡みで問題になりそうな法律については憲法裁判所によって早々に合憲判断が下される――これが「中間報告」の描く新しい統治機構の像である。それは、「中間報告」の「憲法を国民の手に取り戻す」という美しい言葉とはまったく逆に、「憲法を国民の手から取り上げる」ものとなるであろう。
生存権否定の「地方分権」
「中間報告」は、「都道府県を広域的に再編して道州を設け、司法・外交・出入国管理など文字通り国家主権に関わる行政を除く大半の広域的行政を道州に移管する」とした上で、「地方自治体が自らの事務・事業を適切に遂行できるよう、その課税自主権・財政自治権を憲法上保障する」としている。
一般的に言えば、それぞれの地方自治体が国家への依存を脱却して、行政的・財政的に自立性を確保してゆくことは望ましいことである。しかし、現代日本資本主義において地域経済の不均等発展――一方における都市の過密化と他方における農村の過疎化――が避けらず、各地方自治体間での財政力の格差の存在が避けられない以上、労働条件・福祉・教育・環境など生存権保障の最低水準を全国的に確保するためには、少なくとも財政面においては、地方自治体の国家への依存もまた避けられないのである。
中央政府には「国家主権に関わる行政」のみを残して後は地方自治体に振り分けるという「中間報告」の主張は、端的に言えば、国=中央政府は生存権の保障に関わる責任を持たないということである。これは「地方分権」の名による生存権の否定に他ならない。「地方分権」という美しい言葉が「構造改革」推進の強力な梃子となっているのである。
「集団的安全保障」論の意味
「中間報告」は、改憲の焦点になっている九条について、国連の集団安全保障活動を明確に位置づけ、「国連憲章上の『制約された自衛権』」について明記したうえで「武力の行使」については最大限抑制的であることを宣言し書き入れる、としている。「制約された自衛権」とは、「(a)緊急やむを得ない場合に限り(つまり他の手段をもっては対処し得ない国家的脅威を受けた場合において)、(b)国連の集団安全保障活動が作動するまでの間の活動であり、かつ(c)その活動の展開に際してはこれを国連に報告すること、の3点を基本要件とする」ものであるとする。
七月末には、岡田克也代表が米国での講演のなかで、「憲法を改正して国連安保理の明確な決議がある場合に、日本の海外における武力行使を可能にし、世界の平和維持に日本も積極的に貢献すべきとの立場に立つ」と発言した。結局のところ、明文改憲によって海外での武力行使を可能にすることをねらっているのである。
民主党は、米英のイラク攻撃に対しても、イラクへの自衛隊派兵に対しても、それが国連決議の承認を得ていないという一点に依拠して反対論を展開してきた。九条改憲についても、自民党が日米軍事同盟のもとで自衛隊の海外展開を図る路線であるのにたいして、民主党は国連決議のお墨付きを得る形でそれをやろうという点で独自性を主張しているにすぎない。
現在の改憲論高揚の起点となったのは、一九九九年の周辺事態法の成立である。このとき、それまで明文改憲を避けて進行してきた日米軍事同盟下での日本の戦争国家化が、集団的自衛権の行使の否定という、九条改憲によらなければ突破できない壁にぶつかったのである。そのことを踏まえるならば、集団的自衛権ならぬ集団的安全保障によって海外での武力行使を正当化しようという民主党の路線は邪道であり、傍流にしかなりえない。
にもかかわらず、この路線が保守「二大政党」の一方において担われるほどに有力なものとして浮上してきたのは、先のイラク戦争の際の空前の反戦運動の高揚、帝国主義陣営内部の「分裂」によるアメリカ帝国主義の孤立という事態を反映したものであると考えられる。アメリカが自らの露骨な単独行動主義によって国際的に深刻な孤立に陥った場合は、国連決議を錦の御旗に掲げたほうが、海外での武力行使に対して世論の支持を得やすいという判断がはたらいたものと思われるのである。
現局面においては、客観的に見て、集団的自衛権と集団的安全保障という海外での武力行使を正当化する二つの論理を、保守「二大政党」のそれぞれが担うという構造が成立していると言えるだろう。すなわち、日米軍事同盟下での集団的自衛権という主流となる論理を自民党が担い、これを補完するものとして、国連決議にもとづく集団的安全保障という論理を民主党が担っていると言うことができる。
改憲構想のすり合わせは可能か
国会での改憲案の発議に必要な総議員の三分の二以上の賛成を確保するためには、自民党と民主党とが、一つの改憲案で一致しなければならない。日本の戦争国家化にとって改憲が焦眉の課題となっている状況だけに、そこにむけた圧力が強力にはたらいてくることになるであろう。
実際、自民党の改憲構想と民主党の改憲構想は、基本的方向性においてそれほど差があるわけではない。
民主党の改憲構想は、現代的でスマートな印象を与えるものではあるが、自民党の改憲構想に色濃くあらわれていたナショナリズム的要素が皆無なわけではない。「日本が培ってきた『和の文化』と『自然に対する畏怖』の感情を大切にするべき」「日本社会に根付いた〈多神教的〉な価値観を大いに生かす」といった極めてソフトな表現を通じてではあるが、「日本の伝統的価値観の中にその可能性を見出し、それを憲法規範中に生かす知恵がいま必要」という提起がなされている。
ここに、一見、水と油ほどに異なる印象を与える自民党の改憲構想との接点を見出すことが可能である。民主党に合流したかつての自由党が、「日本人の心と誇りを取り戻す」というような、極めて復古的色彩の濃い改憲構想を提示していたことも見逃せない事実である。
このように見てくれば、自民、民主の両党間で、日本の「伝統」的価値観について前文に書き入れること、「環境権」や「プライバシー権」などいくつかの「新しい人権」を明記すること、首相の強力なリーダーシップを確立することで効率的な強権的国家体制をつくること、地方分権規定を拡充することなどの点で、改憲構想を一致させることは可能であろう。
焦点となっている集団的自衛権か集団的安全保障かという九条改憲の具体策をめぐる対立も、本質的なものではない。民主党の「中間報告」は、「国連憲章上の『制約された自衛権』を明記する」というが、そもそも国連憲章はその五一条において集団的自衛権を認めているのである。「国連憲章上の『制約された自衛権』」という言葉によっても、憲法に集団的自衛権の明記を認めることは不可能ではないのである。
また、もし民主党が集団的自衛権の明記にあくまで抵抗する場合でも、「集団的自衛権」でも「個別的自衛権」でもない単なる「自衛権」を明記し、これには当然「集団的自衛権」も含まれる、という解釈の余地を残すことで妥協をはかることも可能なのである。
反グローバリズムと改憲阻止
改憲の機運はかつてないほどに盛り上がっており、保守「二大政党」制という形で、それを可能にする政治配置もつくられている。これから数年の内に改憲の是非を問う国民投票にまで持ち込まれる危険性が極めて高いということを直視して、運動の構築に取り組まなければならない。
かりに国民投票に持ち込まれても過半数の反対で改悪を阻止できるだけの状況をつくり出すためには、従来の枠を大きく超えた共同の広がりが必要である。現在、「九条の会」の呼びかけに応えた運動が全国に広がりつつある。また、社民党や共産党、新社会党なども憲法改悪阻止闘争に全力を挙げる構えである。これらの条件を活かし、共同の広がりのために全力をつくさなければならない。
しかし、憲法改悪を阻止するためには、運動の量的な拡大と同時に、運動の質的な深さ・強さもまた必要とされている。現在進行中の憲法改悪の策動は、資本のグローバル化と軍事のグローバル化に適合的な形で日本の国家体制を根本から改変しようとする攻撃に他ならない。「一国的護憲平和主義」の立場では、この攻撃に立ち向かうことはできないのである。憲法改悪阻止の運動は、間違いなく、世界的な反戦・反グローバリズム運動の不可分の一環として推し進めなければならない。
いま求められているのは、共同の広がりを最大限に追求しながら、憲法改悪阻止の闘いと反戦・反グローバリズム運動の緊密なつながりをつくりだして憲法改悪阻止闘争の質的向上を図るという、二つの面での努力である。(堀川峻弘)
【訂正】前号1面2段5行目「を犯し」を「を侵し」に、5段「『東京ネット』などが反対運動」の小見出しから7行目「勢力に」を「精力的」に、6面1段4行目「焦点が充て」を「焦点が当て」にそれぞれ訂正いたします。
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