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ポーランド                      かけはし2002.4.8号より

総選挙-反官僚革命を裏切った「連帯」系勢力は消滅した

ズビグニエフ・コワレフスキ


 昨年九月、ポーランドで行われた総選挙は、一九八九年にスターリニスト官僚支配体制を打倒しソ連―東欧圏全体を崩壊させる突破口を開いた独立自主労組「連帯」を起源とする勢力が、ほとんどすべての議席を失うという結果になった。労働者階級や農民の利益を裏切り、IMFや世界銀行の側だけを向いた政策をとり続けてきた結果にほかならない。以下は、ポーランド革命的マルクス主義者コワレフスキの分析である。


2001年9月23日国会選挙結果

SLD−UP(社会民主主義)   41.0% 216議席
PO(自由主義派)        12.7%  65議席
サモオブロナ(「自衛」、急進的農民)10.2%  53議席
PiS(保守派)          9.5%  44議席
PSL(穏健派農民)        9.0%  42議席
LRP(極右)           7.9%  38議席
AWSP(保守派)         5.6%  0議席
UW(自由主義派)         3.1%  0議席
PPS(SLD左派)        0.1%  0議席
 最近の九月二十三日の議会選挙の結果は、ポーランドの政治舞台の重大な政治的再編を引き起こした。ポーランドに対する専門的観測筋の全般的な見解によれば、生じたのは、たとえ限られたものではあるとしても、三つの点からして本当の地震であった。第一は、「連帯」から生れた勢力を代表する主要政治勢力の惨敗\\その議員団の喪失\\である(1)。第二は、旧官僚体制のもとでの政権党(ポーランド統一労働者党)を起源とする社会民主党の選挙での圧勝である。そして、第三は、これまで社会的抗議と直接行動の議会外にとどまっていた運動、ソモオブロナ(「自衛」)の予想外の票の増加であった。
 まず最初に、誤解を避けるために、変化が二つの点において相対的であったということを見ておこう。第一に、いわゆる「ポスト共産党」の社会民主党はすでにかつて一度一九九三〜九七年に政権に復帰している。その当時のこの出来事もまた今回よりも強い地震であった。
 いわゆる「現存社会主義」の崩壊から四年も経っていないうちのその政権復帰は、真の政治的躍進を表わすものであったし、「共産主義の墓掘り人」と資本主義の復活のそれまで高まってきていた正当性が喪失したことを示す非常に強い兆候でもあった。このとき「連帯」労組の支持を利用した右翼諸政党は、議会からはじめて完全に追い出されてしまった。
 保守的、民族主義的で、カソリック教権的、極右的な諸政党の全体は一般に小政党であるが、その力は「連帯」労組の機構の中にあった。これら右翼諸政党は、多かれ少なかれ統一した政策を展開できないので、一九九三年の選挙で個々バラバラに出馬し、そのために議会から消えてしまうことになった。
 反対に、「民主的反対派」(一九七六年から一九八一年まで活動した労働者防衛委員会、KOR)から出て来た別の勢力、すなわち、自由同盟(UW)へと名称を変更した民主同盟(UD)が議会内で議席を維持した。野党側を代表し、権力の移行を可能にした一九八九年の体制との「円卓会議」の協定から利益を得た主要勢力であるUWは、自由主義的右翼政党、いわゆる「バルセロヴィッチ計画」(2)の新自由主義的ショック療法の政党となった。
 九三年の選挙結果は、この計画の悲惨な社会的影響に対する、そして一般に資本主義の復活に対する人民大衆の反応であった。これは、ポーランド農民人民党(PSL)と連合する民主左翼連合(SLD)を政権に就けた(3)。SLDと同様に、PSLも旧体制の政党に起源をおくものであり、伝統の中に深く根を降ろしており、ポーランドや他の一部東欧諸国に特有の大衆的な農民政党である。
 前任のレフ・ワレサ大統領は、「私が世界的レベルで共産主義を敗北させたのだ」と語るのを好んでいたが、一九九五年の大統領選挙でこのレフ・ワレサがSLDの指導者、アレクサンデル・クワシニエフスキに敗れただけに、それは右翼にとって「共産主義の」再発と報復であった。
 自分たちの敗北に絶望的になった右翼は、ワレサを先頭に、「ポスト共産主義」政府を不安定化させ、それを打倒するために汚い攻撃を用意した。右翼は、ヨセフ・オレクスキ首相が、過去においてソ連邦の諜報機関のエージェントであったと非難した。この事件は、最後に明らかになったように、まったくのでっち上げであり、秘密警察のお粗末な挑発であった。
 SLD―PSL政府が旧体制の何らかの再発ではなかったことは明白である。この政府は、資本主義の復活と大西洋同盟を公然と支持し、民営化と新自由主義的再編を含めて右翼の政策との連続性を保障した。この政府は、前政権の政策の社会的影響をせいぜいのところ軽減しようと、とりわけこの国に全域に波及している悲惨な失業を大幅に削減しようと試みたにすぎない。穏健な反自由主義派であるPSLは一部の分野でSLDの新自由主義的性向を抑えた。この連立政府はまた、一九八九年以来ポーランド社会の活力を圧殺してきた反動的、教権的、民族主義的、挑発的反共主義のイデオロギー的圧力を制限した。
 だが、一九九七年に予期しない形で、SLDは選挙に敗北した。三つの要素がこの敗北の原因となった。第一は、政権の新自由主義的コースの継続に落胆し、幻滅したこの党を支持する有権者が減少したことである。第二は、SLDが、今度も勝利を確信して、選挙キャンペーンを展開せず、このやり方のせいで強固な支持者の一部の動員を解除してしまったことである。第三は、それまで分裂していた議会内右翼諸政党が今回は、「連帯」選挙連盟(AWS)へとその勢力を統一したことである。この統一を強制したのは、「連帯」の組合官僚であった。そして、選挙で勝利したのはこのAWSであった。その躍進は一九九三年のSLDに匹敵するものだった。
 AWSは、反目し合う仲間であるUWと連立政府を形成し、UWの委員長、レチェク・バルセロヴィッチに経済・金融政策を譲った。それは、労働者階級、人民諸階層、女性、老人、青年に対して正面から打撃を加えようとするオーソドックスな新自由主義の全面的な復活であった。
 前政府を「最も不可欠で緊急の改革」を抑制したと非難したAWS―UW連立政府は、最速でその政策を強引に推し進めた。突然、政府は新自由主義路線に沿ってこの国の行政機構、医療サービス、社会保障、全国教育の急激な改革に乗り出した。同時に、経済の新自由主義的再編が、社会的不平等と貧困と失業(SLD―PSL連立政府によって活動人口の八%にまで減らされたが、この失業率は二〇〇一年に一六%を超えるようになった)の急激な高まりを伴う形で、再び猛烈に進められた。
 AWS―UW連立政府の政策は、冒険主義的で、政治的には自殺的なものだった。AWSは相継ぐ危機、分裂、再編に見舞われ始め、それらはその度ごとに困難を増していった。この異質のブロックを構成する大部分の勢力は新自由主義の政策から離れ、この理由のために、連立政府はますます議会において多数決の採決で敗北するようになった。SLDと結びついた多数派の労働組合ナショナルセンターの全国労働組合連合(OPZZ)は、(「連帯」労組を除く)労働者と農民のすべての組合との共闘を結成し、これらの組合は、街頭に出て政府の政策に抗議した。
 アンジェイ・レペル指導下の農民組合ソモオブロナ(「自衛」)は、その背後に別の農民組合をも従えて、全国レベルの共同の大衆行動を組織し、高速道路を封鎖したが、これは警官対農民の激烈な戦闘と化した。危機にある軍需産業の労働者もまた、ワルシャワに結集して、警官隊と激しく衝突した。全国で看護士が二度にわたって驚くほど組織的な共同の闘争に突入し、新しい行動形態を生み出す目覚ましい能力を示した。農民の闘争から着想を得た看護士たちも華々しいやり方で高速道路と国境通行の封鎖を敢行した。世論調査は、看護士と農民の闘争を社会の大多数が支持していることを明らかにした。
 二〇〇〇年には、政府が驚くほど不人気であるという事態に直面して、UWは、自身を救済したいと考えて、政権から離脱し、バルツェロヴィチを自党の委員長から解任した。分解するAWSだけからしか支持を受けることができなくなった政府は議会で少数派になった。
 二〇〇〇年十月の大統領選挙は、SLDが追い風に乗っていることを鮮明な形で確認した。クワシニエフスキが第一回投票で独立自由主義派のアンドレイ・オレショフスキ候補(一八%)、AWS(および「連帯」労組の)指導者マリアン・クルザクレフスキ候補(一五%)を上回り、勝利した(五四%)。以上の結果にもとづいて、SLDは政権に向けた勝利の歩みを開始した。
 他方、労働同盟(UP)は、SLDやPOUPの一部と「連帯」の穏健左派の一部が結集した小さな社会民主主義型の政党であるが、このUPがSLDと同盟を結ぶことを決定したので、SLDの勝利はより大きなものとなった。オレショフスキは、UWとAWSから移ってきた勢力とともに市民政綱(PO)という名称の新しい自由主義勢力を自分のもとに組織した。
 AWSは分裂し、右翼「連帯」選挙行動(AWSP)として再編され、今や邪魔な指導者になったクルザクレフスキとは手を切った。こうして、「連帯」指導者ワレサの後継者は、そのワレサ同様、取るに足りない政治的存在に転落した(大統領選でワレサの獲得した得票率はせいぜい三%でしかなかった)。
 AWSPとUWの重大な敗北が確実になったので、右翼陣営は再編を推進した。オレショフスキのPOに加えて、UWを離れた最も強硬な自由主義派とAWSを離れた最も穏健な勢力を結集して、別の二つの右翼組織が結成された。
 第一が、ヤロスラフ兄弟とかつての「連帯」のまったく取るに足りない地域指導者であったレフ・カチンスキの「法と正義」(PiS)である。これは、治安に関して過激な言動を行い、犯罪に対してはニューヨーク市のルドルフ・ジュリアーニ市長の路線とその「ゼロトレランス」(情状酌量を認めない厳しい政策)と同じ政策を取っている保守的組織である。
 もうひとつの組織は、ポーランド家族同盟(LRP)で、この党は過激で、民族主義的、カトリック教権派で、EU加盟に反対しているが、北米自由貿易協定(NAFTA)との特権的結びつきは支持する極右派である。その主要指導者はアントニ・マルツェレヴィッチである。彼はKORの創設者の一人で、その立場は左翼から極右へと変わってきた。LRPは、カトリック教会内の原理主義的潮流によってコントロールされている強力なラジオ局、ラジオ・マリアから貴重な支持を得ている。
 議会選挙に先立つ数週間、ポーランド社会は、青天の霹靂のようなニュースに驚かされた。それは、景気が後退局面に入ったことが明らかになったというニュースだけにとどまらず、さらに予算が約九百億ズロチの膨大な赤字であるというものであった。たとえまだAWSPの棺(ひつぎ)が決定的に閉まっていなかったとしても、それはこの棺と閉じる釘となり得るものだった。
 有権者の投票意識に関する世論調査は、SLD―UPへの四七%から五〇%への支持を一貫して示していた。この社会民主党の連合は、議会で絶対多数を得ることができ、単独で統治できるものと絶対的に確信していた。だが、選挙の数日前、二つの爆弾が爆発した。第一の爆弾は、将来の蔵相、マレク・ベルカ\\彼は新自由主義のドグマへの忠実な支持のために「社会民主党のバルツェロヴィチ」として知られている\\による財政赤字を埋めるための計画の発表であった。これは人民諸階層の間に激しい不安を引き起こした。第二の爆弾は、「自衛」支持の投票意向を示した人の割合が、数カ月間三%の水準にとどまり続けた後、一気に八〜九%に達したことであった。
 選挙結果は、長らく自信過剰に陥ってきたSLD―UPにとって大きな驚きとなった。それは、SLDが期待していたものよりも六%から九%も低かった。すなわち、議会内で相対多数派しか得られなかったので、少数派内閣を組閣するかそれとも連立内閣を組閣するかせざるを得なかったのである。
 「自衛」は、政治的エリート集団やマスコミや教会組織からはごろつきの群れとみなされ、指導者が絶えざる執拗な法的攻撃にさらされている議会外の運動から、PSLを上回る三番目の議会勢力の地位へと上昇した。たとえ農村ではPSLの票の方が「自衛」よりも少し上回っていたとしても、「自衛」が非熟練労働者や失業者や貧しい人々の間で「社会的抗議票」を集めてPSLに勝利したのは都市においてであった。
 「自衛」は、強固な反自由主義派であり、「政治的階級」全体を軽蔑しており、自らは「右翼でも左翼でもなくポーランド人である」であるとしており、農民と都市の貧しい人々の利益の非妥協的擁護者として登場している。その指導者レペルの発言の中心思想は次のようなものである。
 「新自由主義を断念し人民諸階層に利益になるように全経済政策を急速かつ大幅に変更するか、さもなければ一年のうちにわが国において大衆蜂起に直面するかだろう」。SLDの指導者たちは、レペルが何をしでかすか分らない人物であり、ごろつき、さらには(オーストリアの)ハイダーのポーランド的体現者であるとさえ考えられる(根拠のない関連づけである)と公然と非難し、彼を軽蔑している。レペルは、「自衛」がSLD―UP政府を条件付きに支持する意向を発表し、SLD―UPとPSLに連立政府を結成するよう強く圧力をかけた。社会民主党は即座に彼の意向を尊重して取り上げ、彼と交渉して「彼が『政治家』になる完全な能力を備えている」とまでも述べざるを得なかった。
 新議会に入っているのは右翼の新しい組織\\PO、PiS、LRP\\だけである。AWSPとUWが議会的駆け引きの場から排除されるとともに、いわゆる「一九八〇年八月のポーランド」が崩壊し、それによってその勝利からわずか十二年後にその歴史的神話全体も敗北した。これこそ、「連帯」系各政治組織が、あの反官僚の闘い\\この闘いこそが一九八〇〜八一年の偉大な大衆的決起の願望と権力への道を切り開いた\\を担った労働者階級の利益を裏切ったために支払った代償なのである。
 政治分野では、選挙からもたらされた力関係は次のような形をとった。社会民主党と農民を基盤にした反自由主義諸政党は全体として六〇%以上の票を獲得し、それに対して右翼は四〇%未満しか獲得しなかった。
 SLD―UPは、ためらいがちにしかもしり込みしながら、唯一の考えられるパートナーとしてPSLと連立政府を結成する道を選択した。「自衛」はこの連立政府を支持する用意があると宣言した。この「打算的結婚」が完全に成し遂げられるのはきっとむずかしいであろう。このひどい困窮の時期に、一方におけるSLDによる新自由主義的グローバリゼーションおよび経済、社会、国家の新自由主義的再編の追求と、他方における緊密度の異なる全同盟者\\UP、PSL、「自衛」\\から成る硬軟おり混ぜた反自由主義的諸潮流とをいかにして妥協させることができるのだろうか。(「インプレコール」、01年10月/11月)

ズビグニエフ・コヴァレフスキとは

 一九八一年の「連帯」ウッジ地区の指導者で、一九八一年から一九九〇年までジャーナリストとしてフランスに亡命。現在は、とりわけ労働運動の歴史に取り組む理論的、政治的雑誌を主宰している。その雑誌Revolucja(「革命」)の第一号が発行されたばかりである。著書にRendez-nous nos usines!(La Breche, 1985)がある。
訳注
 1、「連帯」独立自主管理労組は、一九八〇年八月に全国に拡大したストライキの間に選出された地域ストライキ委員会の全国会議を受けて一九八〇年九月に結成された。一九八〇年十一月に合法化された「連帯」労組は、千三百万人の労働者のうちで千万人の組合員を擁していた。一九八一年九月〜十月の全国大会では、「自主管理共和国」、「計画化の社会化にもとづいて自主管理と市場とを結びつけた新しい社会経済秩序」の綱領を採択した。
 ヤルゼルスキ将軍のクーデター以後の官僚の弾圧は、この巨大な大衆運動を再び地下に追いやり、その労働者的基盤から非合法指導部を引き離した。全般化する一九八八年の新しいストライキ運動に直面して、ヤルゼルスキ指導部は妥協し、「連帯」地下指導部と交渉し、「連帯」に議会選挙に立候補する権限を与えた。一九八九年六月には、「連帯」指導部が出した候補者が全五六〇議席中、自由選挙に割り当てられた二六一議席全部を獲得し(残りの議席は官僚の候補者に割り当てられた)、上院でも一〇〇議席(全体の九九%)を得た。
 これによって、一九八九年九月に、「連帯」労組の専門家タデウシ・マゾヴィエツキを首班とする連立政権が成立し、資本主義の復活に取り組んだ。IMFの指導下のもとで展開されたこの政策の社会的影響は、再び合法化された「連帯」労組が一九八〇〜八一年当時の勢力を取り戻すことを不可能にした。一九九一年以来、この国の第一位の労働組合勢力になったのは、ヤルゼルスキ将軍の独裁体制のもとで結成され、地下「連帯」労組の一部のグループが官僚体制の側での一定の「合法」活動をその内部で追求したOPZZ労組(全国労働組合連合)であった(Jan Malewski, “Solidarnosc” 15 ans plus tard, Inprecor No.399 de fevrier 1996)。
 2、レセク・バルツェロヴィチは、自主管理に関する法律を起草する経済専門家に一九八一年秋加わった。「連帯」の二つの大会の間の時期においてこれらの専門家の圧力のもとで官僚との妥協で採択されたので、「連帯」労組はそれを否認した。ヤルゼルスキ将軍のクーデター(一九八一年十二月十三日)と「連帯」労組禁止の後、バルツェロヴィチは、アメリカ政府と結びついて、「連帯」の経済計画をより「商品経済的」な方向に、そしてより自主管理的でない方向に向かわせるよう地下指導部に圧力をかけた専門家たちに組みした。一九八九年九月に蔵相になった彼は、IMFに強制された「バルツェロヴィチ計画」として知られるマネタリスト的な新しい経済政策を採用させた。
 3、農民/人民。なぜなら、ポーランド語の「ルドヴェ」はこの二つの意味を持っている。この党は伝統的に農民の党だったが、現在では、農村と都市の両方を基盤にした「人民の党」として登場するためにこの名称の曖昧さを利用している。


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