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韓国はいま                      かけはし2004.04.05号

新自由主義ブルジョア権力者の抗争
からの階級的・政治的独立が必要だ

ノ・ムヒョン政権への民衆的弾劾を


 1998年の現代自動車整理解雇でのストライキ闘争が思い出される。あの熱かった夏、アスファルトを熱したし烈だったストライキは紆余曲折を経た。当時のキム・グワンシク執行部は整理解雇を受け入れ、そのとき仲裁委員としてやってきたノ・ムヒョンの表情を私はいまなお忘れられない。
 ほおをぶるぶる震わせながら、「いまや韓国の労働運動は路線を変えなければならない」と。私は、その場面があまりにもぞっとしたためにいまなお忘れられずにいる。ノ・ムヒョンのその顔が、表情が、私は、いまや韓国の労働運動は、戦闘的階級的運動から資本主義を受容し国民的和合的労働運動に変わるべきだとの意味だと受けとめ、背筋に余りにも冷たいものを感じた。「光化門の人波は、だれのための流れなのか」(アン・ユンギル/労働者、詩人)
 現在、国会の弾劾決定を主導したハンナラ党や民主党に憤怒している大衆の情緒は「いったい奴らが大統領を弾劾する資格があるのか」だ。多数の大衆が「資格の問題」に怒っているのは、守旧勢力の歴史がまさに労働者・民衆弾圧の歴史だったという点であり、また反民主的悪行と独裁を重ねた権力の当事者たちだからだ。70〜80年代の軍部独裁政治を重ねた、まさにその主犯! 彼らが「救国の決断」、「議会民主主義」を語っているのだから、それこそ怒って当然のことは明白だ。
 さらに重要なのはハンナラ党が「救国の決断」を云々しているけれども、そして民主党が「議会民主主義の具現」を語っているけれども、彼らが「救った」国には労働者・民衆はいないし、彼らが実現した「議会民主主義」には労働者・民衆の民主主義は、ない。ただ守旧保守勢力どものやみくもな権力への欲望だけが存在するにすぎないことを、どうして労働者民衆が分からないはずがあろうか!
 4・15の総選挙をめぐるブルジョア政治権力者どもの利銭投機の場、政略的ゲームの場に転落した国会に、いかなる未練があるというのか!
 ハンナラ党や民主党に怒っている大衆の声は、まさにこのようなものだ。今回の弾劾の事態は「憲政中断」でもなく、「民主主義の死」でもなく、まして「政治クーデター」では断じてない。「彼らには大統領を弾劾する資格がない」という怒りこそが真実であるだけだ。
 経済的貧困による自殺が急増し、400万人に達する信用不良者、20%を超える青年の失業、20対80の貧富の格差が固定化してしまった現実が労働者民衆の生を悲観へと追いやっている。だが2003年、ノ・ムヒョン政権は、いったいどうだったのか?
 「改革」という名の下に政権が犯した行為は、労働者民衆の暮らしをさらに破綻させるものだった。東北アジアにおける中心国家の建設や国民所得2万ドル時代を叫びつつ労働法を改悪し、経済特区を強行し、農民らの暮らしを破綻に追いやる自由貿易協定(FTA)を強行したのが、ほかならぬノ・ムヒョン政権だ。帝国主義侵略戦争に大衆を合流させる「イラク派兵」を決定したのも、民衆の口と耳をふさぐ集会デモに関する法を改悪したのも、テロ防止法を制定したのも、労政合意の破棄を糾弾して「合意の履行」を要求している労働者に警察の投入やその暴力をほしいままにしたのも、民主労総をもはや労働運動団体として認定しないとしたのも、相次いだ労働者の死を「計画された焼身」を云々して弾圧で一貫したのも、すべてノ・ムヒョン政権が行った反民衆的行為の数々だ。ノ・ムヒョン政権の「改革」の正体がすべて表れたものだ。
 われわれはノ・ムヒョン政権の新自由主義改革の実体が、まさに労働者民衆の暮らしを破綻させつくすものであることを、この1年間、経験してきており、4・15総選挙における「開かれたウリ党の勝利」はノ・ムヒョン政権の新自由主義改革へのドライブを一層強化させる必要条件だということを知っている。それにもかかわらず労働者・民衆は「弾劾無効」を、「ノ・ムヒョンの復活」を叫ばなければならないのか!
 総資本の利害を代弁している「政治圏」の宗派的対立が「弾劾決定」として表れ、これを「改革と守旧(保守)」に分けて、大衆に「改革」でなければ「守旧」だと決めつける大衆扇動は新自由主義改革勢力らの「総選挙勝利」と「安定的な支配権力」の確保のためのものであり、その結果はまた別の「反動」の秩序を作りだすものだ。
 ノ・ムヒョン政権と新自由主義改革勢力は大衆の怒りを「改革」へと収れんさせ、その中心に自らを設定している。4・15の総選挙勝利のための死活をかけたバクチが組織的に展開されているのだ。このような状況において民主労働党(民労党)の「弾劾反対、17代国会の弾劾取り下げ」、民主労総指導部の「弾劾無効」決議は労働者・民衆を「新自由主義の改革のパートナー」へと誘導し、ノ・ムヒョン政権の第2中隊に転落させる没階級的行為だ。
 本当に民労党が労働者・民衆を代弁する進歩政党であるのなら、ノ・ムヒョン政権の反民衆性を暴露し、これを組織しなければならない。4・15総選挙の政治的計算によって行動のあり方を決定するのではなく、労働者・民衆の要求を闘争として作る戦線に合流しなければならない。そうではなくて「弾劾無効は言うけれどもノ・ムヒョンの再生ではない」と主張するのは民労党の「議会進出」の限界を自ら告白しているのにすぎない。
 民主労総は言うまでもない。ノ・ムヒョン政権の新自由主義改革の結果が労働者たちの暮らしをいかに破綻させ、雇用を不安にさせているかをシビアに経験している当の本人こそ、まさに労働者階級ではないのか! それにもかかわらず民主労総が弾劾無効を宣言し、残業拒否をはじめとする全国闘争を展開していくというのは、その意図とはかかわりなくノ・ムヒョンの第2中隊の役割を担うことへと帰結してしまうだろう。
 いまこそ「民衆的弾劾、階級政治の実現」を旗じるしとして労働者・民衆の闘争を展開していかなければならない。守旧反動勢力は、もはやブルジョア政治権力の中心にいはしない。没落していく守旧反動勢力に対するわれわれの態度は「お前らは資格がない」というものだ。同時にノ・ムヒョン政権は必ずや追い出さなければならない反民衆的政権だということ、このためには労働者・民衆自身が階級政治を旗印として、主体として立たなければならない、ということだ。
 いまこそ労働者・民衆は欺瞞的な「議会政治」の限界を超え、新自由主義改革政権の実体を大衆的に暴露しぬきつつ「階級政治」を自ら武器として持たなければならない。民衆弾劾と階級政治の実現は4・15総選挙の日程を踏み越える労働者・民衆の闘いだ。(「労働者の力」第51号、04年3月20日付)


闘わないのは烈士を2度殺すことだ!
非正規労働者を殺す現代重工との闘いを


 2月24日、全国非正規労組代表者連帯会議(準)(以下、連帯会議)主催で現代資本糾弾集会が現代本社前で行われた。「パク・イルス烈士精神継承」のためにソウルで初めて開かれた集会だ。
 参加者たちは「非正規職主体の強化! 正規職連帯」との決意を誓い、この日から1人デモに突入した。現代自動車峨山社内下請け労組、放送社非正規労組、建設運送労組など連帯会議所属の同志たちを中心に100人がともに行動した。闘争の隊伍の規模が、その闘争を語るものではないけれども、年が代わっても昨年下半期の烈士の政局が依然として持続しているという側面においてかなりの程度に残念さと未練が漂う1日だった。
 そして3・1後、民主労総主催のパク・イルス烈士の焼身抗拒に関連した最初の全国集会が開かれた。ソウル・光化門と忠北地方労働庁、蔚山などで烈士の死以後2週間にして全国集会が開かれたのだ。イ・スホ委員長はあいさつで「昨年、7人の労働烈士を血涙で送ったのに新年早々から労働者たちが命を断っており、やりきれない思いだ。……ハチマキをしっかり締め直して、われわれの問題を闘い勝ちぬこう」と闘争を訴えた。そうだ。この闘争は明らかに正規職「だけ」の問題ではなく、まさに「われわれ」の問題だ。
 民主労総は2月23日に開かれた第1回中央執行委で、今回の事態を契機に非正規職・間接雇用労働者への差別撤廃と弾圧中断、労働基本権保障のための政治争点の形成と法制度の改善に主力をおく一方、非正規職問題解決のための全組織的実践を決議した。
 このために間接雇用の社内下請け労働者の基本権確保のための対策本部を設置し、闘争支援と不法派遣根絶闘争、使用者責任の認定闘争などを展開することとした。干天に慈雨のように、一面ではうれしいけれども「パク・イルス烈士対策委」ではなく「間接雇用」、社内下請け労働者の基本権確保のための対策本部」という点が、もどかしい。
 けれども重要なことは烈士精神継承の方法と内容だ。したがって民主労総を筆頭に烈士闘争が蔚山いや、現代重工業の事業場内にのみ局限されないように小さな実践から決意し決死でなされなければならないだろう。民主労総の闘争決議を現実化していくためには依然として答えは下からの大衆闘争であるからだ。
 民主労総は社内下請け問題の核心を正規職との連帯だと考え、今年の賃金・団協において正規職と非正規職の連帯闘争を「積極的」に展開し、また正規職労組の認識転換のために各級組織の規約の制定や改正運動を展開することとした。正規職、非正規職の連帯は規約の改正のような制度的、意識的努力とともに懸案に対する共同対応や方案の模索が同時併行で進められなければならない。
 今回のパク・イルス烈士の焼身抗拒や一連の闘争過程において表れた諸相は、われわれに示唆を与えている。正規職労組が非正規職労組を排他し、陰謀集団と罵倒する行為が堂々とまかり通っている状況で(正規職の)認識が変わるときまで待たなければならないとすれば、いまこの瞬間にも自らの身に火を招くことによってしか「生の証」を立てられないような下請け労働者たちと、われわれはいかなる希望によって生きていけるというのか。
 昨年10月から始まった烈士闘争は該当事業場の解決にのみとどまってはならない。烈士たちは依然として闘っている。残された者たちがしっかりととらえなければならない課題を、烈士たちは死によって喚起している。暦の日付けが2003から2004に変わったからといって、われわれの烈士闘争は03年12月で終止符を打って終わったわけではない。まさにいま、非正規職労働者を死へと追い立てている現代重工業に対する強力な闘争から始めなければならない。これ以上、烈士を無視してはならない。いま、闘わないのは烈士を2度、殺すことだ。(「労働者の力」第50号、04年3月5日付、ペク・イルチャ会員)

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