もどる

横浜人活事件 4人が職場復帰             かけはし2004.03.15号

デッチ上げ逮捕・懲戒免職から17年の闘いがかちとった勝利

鉄建公団訴訟を軸に国鉄闘争勝利へ


 二月二十四日、八六年の「横浜人活事件」で不当逮捕され、懲戒免職処分を受けた五人の国労組合員のうち定年となった一人を除く四人が、職場復帰をかちとった。「横浜人活事件」とは、国鉄分割民営化法案が通った五日後の八六年十二月三日、国鉄横浜貨車区「人材活用センター」で、五人の国労組合員が管理者に暴行、傷害を加えたとでっち上げられ不当逮捕、起訴され懲戒免職処分を受けた事件である。五人の仲間は、十七年の闘いを経て、三月一日から職場復帰することを鉄建公団から組織変更した「鉄道建設運輸施設整備支援機構」との間で合意した。
 同日国土交通省の鉄道局長が五人やその家族に遺憾の意を表明した。八七年分割民営化時にJRに不採用となり三年後の九〇年、清算事業団で二度目の不当解雇を受けたJR採用差別事件と違い、横浜「人活」の五人は分割民営化直前の不当な懲戒免職で国鉄の職場を追われ、JRに不採用となっていた。JR復帰は実現できなかったが五人のうち一人は「懲戒処分を無効とした横浜地裁判決でもJRへの復職は認めておらず、働く場を得るため支援機構への就職に応じることにした」(神奈川新聞)と話している。
 分割民営化に抗する国労の闘いをつぶすため、国鉄当局は八六年七月から八七年三月まで全国千四百四十カ所に「人材活用センター」(以下「人活」)を設置し、余剰人員対策と称して約二万一千人の国労組合員、活動家を本来職場から排除、収容配置した。事務所とは名ばかりの汚れた狭く古い駅舎に閉じ込め、業務は炎天下の草むしり、竹細工作り、文鎮作り、駅舎清掃、作業指示なしなどの状態に放り込み、国労にいれば「人活」送り、不採用という宣伝と脅しを最後の組織破壊手段として「活用」された。
 しかし「人活」の状況が明らかになるや、その人権無視の状況にマスコミもその実態を取り上げざるを得ず、労働者への激励や当局・管理者への抗議が連日続いた。八六年十月国労修善寺大会で労使共同宣言や雇用安定協約を結ぼうとする本部方針を否決し、闘う国労を守ったのも、「人活」に収容されていた国労組合員、活動家の力だった。この大会は同時に「人活」に関する一切の仮処分や、不当労働行為申し立て取り下げを含んでおり絶対承服できることではなかったからである。
 この「人活」の国労組合員を沈黙させるためにでっち上げられたのが、横浜「人活」事件である。この五人を先頭とした闘いによって九三年五月、刑事事件でのでっち上げを明らかにした横浜地裁無罪判決を皮切りに刑事、仮処分、民事、本訴で五度、鉄建公団を断罪した。九六年六月には懲戒免職処分無効の仮処分判決が確定、強制執行で賃金は支給されていた。地位確認の本訴でも鉄建公団への地位確認を認める地裁判決を得たがJRへの復帰は認められていない。鉄建公団は解決の措置をとらず五人は高裁に控訴した。五人はJRへの原職復帰を希望していたが昨年9月高裁判決日を前にして控訴を取り下げて今回に至った。
 五人のうち一人は「復職する職種は希望と違うが事件そのものはわれわれの主張通り国鉄のデッチ上げだったことを国なども認めた。『人生を返せ』と言っても戻ってこないが、きちんと決着できたことは大きい」(読売新聞)と話した。
 国鉄の時代なら、刑事事件で無罪が確定すれば原状回復は当然であった。しかし「もう国鉄ではなくJRになった」と言っても、JRも鉄建公団も司法も国土交通省もJR復帰の原状回復を認めようとしない。また八七年二月七日に国鉄は運輸省と設立委員会に採用候補者名簿を届けているが、五人の懲戒免職はその後なので五人は名簿に登載されているはずだ。しかし裁判所の名簿提出命令にもかかわらず、「五人は名簿に登載されていない」「名簿は存在しない」などとウソを言い続け開き直っているなど、問題は依然として残されたままである。
 このように、資本と司法が一体となった国家的不当労働行為のやりどくは、昨年十二月JR採用差別最高裁不当判決同様であることは徹底して批判しなければならない。鉄建公団訴訟の取り組みを強化し小泉の大量失業、リストラ攻撃に大衆的抵抗の戦線を構築しよう。(2月26日 蒲田 宏)

もどる

Back