| 中国、権力による弾圧と階級的対立 かけはし2004.03.08号 |
不動産開発ブームにわく中国各地で、不動産開発資本による暴力的土地取り上げが横行し、強制立ち退きに反対する住民の抵抗闘争が広がっている。これに対して中国当局は過酷な弾圧を加え、反対闘争の指導者を逮捕し、次々に実刑判決を下している。この三月五日から始まる全人代では、憲法に「私有財産権の保障」を明記するための審議が始まる。これによって中国の資本主義化は、法的にも完了することになる。
関連部門の資料によると、今年(二〇〇三年)の最初の十カ月に全国各地で似たような紛争によって引き起こされた暴力や自殺および抗議行動はすでに千件を超えている。数カ月前、南京の強制立ち退きによって引き起こされた抗議の焼身自殺は全国を揺るがしたが、しかしデベロッパーたちはなんらダメージを受けておらず、殴打、破壊、略奪を伴った「都市改造」はいまだ続いている。
十一月二十三日に伝えられた最新の「戦況報告」では、南京市玄武区の強制立ち退き事件の中で、住民と解体業者の手先どもとの間で暴力的衝突があった。情報筋によると、衝突の過程で住民たちは市政府とメディアにたいして何度も救援を求めたが、役人たちは一度も姿を見せず、メディアもまったく現れなかった。住民の加勢に加わった市民も警察に拘束された。国家が事実上デベロッパー一辺倒であることが再度証明されたことになる。
北京で連続して発生した強制立ち退きに抗議する一連の焼身自殺ののち、北京市公安局長の馬振川は十月中旬に「天安門でもめごとを作り出し、社会に報復し、私的な怒りを発散する」ことを決して許さないと表明し、焼身自殺に対しては「法に従って厳罰に処する」と宣言した。
今年八月二日、山東省魚台県の百あまりの村民代表が強制立ち退きに抗議するために集団で陳情し、機動隊と衝突した。十月三十日に県の裁判所は数名の引率者の「暴徒」に対しそれぞれ実刑判決を下し、他の者への警告とした。十月二十八日、上海の強制立ち退き反対で活躍する人物である鄭恩寵は「国家機密漏洩」の罪で三年の懲役刑に処された。その一カ月後、北京の強制立ち退き反対の活動家である葉国強は「恐喝罪」で懲役二年の判決を受けた。
デベロッパーおよびその後ろ盾である政府の大規模な暴力に対して、主流の自由主義派の世論は見て見ぬ振りではなく、積極的に討論し、被害者の民衆のために方向を指し示している。これは何ら不思議なことではない。なぜならブルジョアジーの文化を代表する主流世論は一貫して被支配者階級のイデオロギーの陣地を占領することに傾注しているからである。
その外にも、私的資本は今まさに上部政治権力の核心(憲政改革)に入ろうと模索しており、かれらが庇護する自由主義派学界はチャンスをとらえてブルジョアたちのために世論を巻き起こす責任がある。総じて言えば、自由主義派による「破竹の勢いの立ち退き取り壊し」に対する説明は、「市場改革の全面的な深化が不足している」からであり、それゆえさらに改革を進めなくてはならない、というものである。
自由主義派の作家、劉暁波は「中途半端な私有化」という用語を用いていまの中国の市場取引きの背景を形容している。このような「政府が依然として収用や緩和の決定権を持っている」私有化は市場をねじ曲げ、「国民個人の私有財産権、公平な取引きの権利、申し立ての権利、公正な裁判を受ける権利、そしてひいては人身の保障権」が切実な保障を受けることができないと考えている。ではその進むべき道はどこにあるというのだろうか。学者たちは切り札をさらけ出す。「中途半端な私有化の現実においては、自由で公平な市場取引きの発生は不可能であり……完全な市場経済は完全な私有財産権を前提とする」ので、完全な私有財産権と憲政改革をかちとらなければならない。これが現実的な道であるという。
現在の中国が「中途半端な私有化」あるいは「権力エリートの私有化」であろうとなかろうと、自由主義派は基本的な事実を回避することはできない。それは現在の市場改革がいかに中途半端であっても、中国社会はすでに資本主義制度の主要な特徴を有しているということである。
すなわちすべての製品及びサービスは市場のために生産され、市場で取得される。ブルジョアジーの一部分であるデベロッパーの行動のモチベーションは、利益の最大化であり(またそれのみであり)強制的立ち退きの過程でおこるさまざまな暴力は、コスト削減のためものである。
まさに北京の強制立ち退きの被害者である徐永海医師が言ったように「旧市街地は八カ国連合軍にではなく、日本人にでもなく、紅衛兵にでもなく、デベロッパーによって破壊されてしまった」。デベロッパーの目には文化遺産などどうでもよく、「土地」としてしかうつらない。
強制立ち退きの被害を被っている民衆の主体は労働者農民及び一般的な意味でのプロレタリアートである。かれらと不動産資本家との間の利益の矛盾の本質は階級矛盾の変種である。実際、劉暁波たちも資本家たちの行為が暴利をむさぼるためのものではないと強く主張はできないので、婉曲な弁護の方法を用いている。
成功者たちが他人をだまして自らの利益をはかってきた「事業」に対して、学者たちはできる限りソフトに描こうとする。「もうけこそが彼らが最も追い求めるものであり、彼らが自主的に移転者の得る利益を守ることに期待するのは現実的ではない」。そして憲政改革に期待するのが現実的であるというのだ。
中国における現段階の憲政運動は、非常に大きなテーマであり、紙面が限られていることから筆者はここでは深く検討はしない。本文では憲政改革の一つの側面、すなわち「完全な私有財産権を実現する」という面について基本的な検討をしたいと考えている。
二十年来の市場改革が暴露した無数の弊害に対して、自由主義派はこれまで「私有財産権が不明確」であるからだ、と弁明してきた。しかし、私有財産権には法的地位が与えられたが、市場改革はいぜん人を殺し続けている。自由主義派は「財産権が完全ではなく」、「私有財産権を憲法に明記」しなければならないという。ここにおいて自由主義派が見誤っているのは、多くの労働者農民の私有財産とブルジョアジーの資産(生産資料、不動産、現金や株式など)とを同様のものとし、同様に保障しなければならないと要求していることである。
しかし、われわれが見たように、ブルジョアジー(例えばデベロッパー)は労働者農民に対する経済的搾取と暴力的略奪という方法を用いて資産を集積している。私は問いたい。私有財産権の明確化とは、ブルジョアジーがかつてあるいは現在集積している財産に対しても一層の保護を強化するものであるのかどうか。
もしそうであるなら(それは言わずもがなであるが)、今日強制的立ち退きの被害を被っている無数の民衆の受けた損害はどのように補償するのか。まさかそのまま放っておくわけではあるまい。中国政府による必死の投資受け入れ政策から考えると、それが私的資本に代わって被害者に補償するという可能性はほとんどないだろう。
二〇〇三年八月二十八日の「人民日報」は、江西省定南県政府の土地の乱開発に対する批判的記事を掲載した。現地の政府関係者はのちに記者に対して「外からの投資を引き寄せるために、われわれは当然『大資本』の利益を擁護する」と不満を語った。二〇〇三年六月、長沙市の黄中瑞副市長は、市政府は韓国からの投資に対してほぼ無償で工場用地を提供する、なぜなら「費用の完全免除による提供はWTOの原則に違反するからである」と語っている。
私的資本はなおさらすでに手中にしている資産をみすみす投げ出すことはない。なぜならそれはその利潤動機に反するからであり、市場取り引きの原則にも合致しないからである。また、もし現在のこの全国的な強制的立ち退き反対運動が本当に「完全な私有財産権をかちとる」という旗を掲げるのであれば、自らの具体的な利益を守ることにとって、自動的になんらかのプラスになることはないだろう。逆に非和解的な敵である悪辣なデベロッパーに暴利を合法化する天下の宝刀を送ることになるだろう。
憲政は私有財産権の明確な保障を要求しているだけでなく、司法の独立と人身の保護をも主張しており、資本家が進んで補償しなければ、裁判に訴えることもできる、と主張する人もいる。確かに、個人と政府の権利の法的境界線においては、状況は若干好転するだろう(全国人民代表大会で通過したばかりの「中華人民共和国行政許可法」のように)。
しかしブルジョア司法制度の特徴はカネと権利は比例するというようなもので、富が極端にアンバランスな状況においては、裁判で有利なのは一文無しの労働者農民ではなく資本家である。いままさに強制的立ち退きで野宿を余儀なくされている北京市民は、帰る家もなく、損害も莫大で、暴行を受けたり監禁された経験を持つ。そのような人々が何年もかかる裁判の結果を待つことができるであろうか。
自由主義派の学者は「立ち退き問題はとりあえず補償に関わることではなく、個人の財産権の剥奪に関わることである」と言う。しかし何百何千の「葉国強」「徐永海」にとっては、強制的立ち退きに反対する抗議の最も急務な目標は(同時に譲るこのできないラインでもあるが)、他でもなく賠償問題をすぐに解決することであり、行くあてのない状況をこれ以上放置しないことであり、これこそが被害を受けた民衆の心の声なのである!
もしかりに私有財産権を保障することによって資本家による労働者農民に対する略奪を阻止できたとしても、強制立ち退きによる被害者たちがすでに被った被害については自動的に補償されはしないし、補償要求はまさに強制立ち退き反対運動の核心の所在なのである。はっきりと認識しておかなければならないことは、ある利益集団をもう一方の利益集団のために譲歩させるには、具体的な社会的勢力が、多大な努力をして推進しなければならない。ではどの勢力が潜在的な推進者となる可能性があるだろうか。
それは大小の官僚たちでないことは確かである。かれらにしてみれば、資本の利益と自ら本来の利益ははやくから複雑に絡み合っているからである。ある強制立ち退きに関する行政文書では、中国共産党西安市の某区委員会がデベロッパーとの協力の利点を高らかに謳っている。
「区財政は将来的に非常に大きな部分がここ(土地開発)から調達され、賃金やボーナスの増加の大部分もこれで解決されなければならない。今後の区レベル幹部の住宅問題の大部分もこれで解決されるかもしれない」。これらの官僚が憲政改革の後にデベロッパーの責任を積極的に追及するとは考えられない。
それはまた資本家たちでもない。かれらは用心棒を雇い、政府機関を買収し、世論を操作して強制立ち退きを行っている。このような努力までしているのは富を集めるためであり、憲政を推進しているのも自分の莫大な資産を保護するためである。もし、蓄財機関の被害者たちに対して実質的な補償をするのであれば「もうけのない商売」になるのではないか。ブルジョアジーは決してそのような愚かなことはしない。
あるいは独立した司法機関が正義を示すのか。それは自由主義派の「理念」には合致する。しかし、われわれの生活は階級利益と階級矛盾――抽象的な自由主義理念ではなく――に包囲されている。
すべての法治の書式は最終的には具体的な人間によって実施、操作され、そして人間にはすべて利害があるのだ。一七八九年から一九七四年の間にアメリカの連邦最高裁判所の構成員(百三人)の半数近く(四十二人)が就職時点で司法関連の業務経験のない人間であり、同時にこの二百年来のすべての連邦最高裁判官は世襲の上流家庭出身で、かれらの職位は選挙によってではなく大統領と国会の任命によるものである。
これらはすべて、司法の本質が決して法律条文の片言隻語にあるのではなく、支配階級の根本的利益の揺るぎない守護神にあるということを説明している。自由主義派の心中の総本山であるアメリカの司法制度が依然としてこうした状況であることから、改良後の中国の司法がアメリカのそれよりも正義を貫き通すという幻想は持たないほうがいいだろう。
最後に残ったのは、被害者である民衆自身とかれらと運命をともにする同郷や労働者農民である。被害者がいかに主観的に市場改革の「歴史的流れ」に賛同し、いかに「大衆運動」「階級闘争」という言い方に反感を持っていても、かれらが自分たちの境遇を何とかしたいと考え、市場の密林の犠牲となりたくはないと考えているのであれば、かれらは行動に移らなければならない。われわれマルクス主義者が、大衆的な抗議運動を堅持し、段階を踏み、組織的に発展させることを一貫して明らかにすることこそが、多数の強制立ち退きの被害者の本当のオルタナティブにつながるのである。
主流の自由主義派は階級矛盾を包み隠そうとはしておらず、かれらは当初から上意下達の、ワンマン式に進められる「制度創設」に力を注ぎ、労働者農民の下から上への提案と自主的組織を「黙殺」するか、世論の上で醜く描こうとする(「義和団」「ごろつきの運動」など)といえるだろう。
しかし、世界貿易機関は中国を含めた百数十カ国から構成され、それらの市場経済の建設はすべて国際基準に達しているが、なぜ中国のような赤裸々な民衆抑圧の現象がそう多くはないのだろうか。なぜ羊が人を食い殺すという囲い込み運動が、数百年後に「土地が人を食べる」という事態として国際舞台と連結した中国で再演されているのだろうか。自由主義派の学者たちは次のように言うだろう。「それらの国々の制度が整備されており、いい加減なところがないからだ……」。問題はこの整備されたものがどのように作られてきたのかということだ。
羊が人を食い殺すという状況から制度の整備された状態まで、ヨーロッパのプロレタリアートは無規制な逃避(悪循環競争、移民、絶望による自殺など)から抑圧に反対する闘争の豊富な経験と功績までの長い道を歩んできた。結社、出版、ストライキの自由のまったく存在しない状況から、強力な労働組合と他の民衆組織の建設に至るまで、ヨーロッパの労働者農民は、憲政家たちのペンによってではなく、自らのこぶしによって数多くの権利を獲得してきた。
しかし、最終的な勝利からはまだ遠い。なぜなら資本家は存在しているし、資本家の国家機構も存在しているからである。だが、中国のプロレタリアート(出稼ぎ労働者かレイオフ労働者か強制移転の被害者かに関わらず)が、現在の悲惨な受動的な状況から抜け出したいと考えるのであれば、まず逃避と傍観をやめ、果敢に組織し、闘争しなければならないだろう。
われわれ共産主義者は、この闘争の直接的な目的は、デベロッパーに全面的かつ無条件に強制移転の被害者に対して補償させることだと考える。補償をかちとる闘争は回り道はできず、途中で投げ出すこともできず、「新政」の奇跡を座して待つこともできない。闘いは具体的な積極的な結果を得るまでつづけられる。組織性とねばり強さ、これこそわれわれが「制度の整備された」国家の労働者農民の権利を守る闘いの経験からまずもって学ばなければならないことである。
強制移転に反対する大衆的運動は発展の過程にある。さらに多くの問題に遭遇することは疑いない。たとえば暴力と非暴力的抵抗手段のもっとも良好な結合をいかに理解するか、他の抵抗運動と連帯するか、などである。(「先駆」03年冬季号) |