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読書案内『初期中国共産党群像―トロツキスト鄭超麟回憶録』
鄭超麟著/長堀祐造ほか訳 平凡社1・2巻 各3000円 
かけはし2004.03.01号

生き生きと描かれる闘いの中の人間像



 昨年一月と二月に二冊本で刊行された本書は、一九九八年に九十七歳の高齢で死去した中国共産党創設期の党員で、中国トロツキストの長老でもあった鄭超麟の回想録である。
 本書の構成は、一九四五年に脱稿した「鄭超麟回憶録」と著者が二十七年におよぶ獄中生活から解放された直後の一九八〇年に書かれた「陳独秀とトロツキー派」を合わせて、一九八六年に北京現代史料編刊社から内部刊行という形で小部数出版された『鄭超麟回憶録』に、晩年の二つの文章を付け加えたものである。
 私が鄭超麟の存在を初めて身近に感じたのは、一九九〇年のトロツキー暗殺五十年を記念するシンポジウムにあたり、ほぼ実現性がないのを承知の上で、上海に住む彼への招請状を実行委員会が出した時だった。当時すでに九十歳近い高齢だった鄭超麟は、招請に感謝しつつ、健康上の理由、ならびに中国政府の承認を得られないだろうという理由で丁重な断りの手紙をシンポジウム実行委員会に寄せてくれた。視力の低下のせいか大きな文字で書かれたその手紙を今でも覚えている。

計三十三年にわたる獄中生活を経て

 鄭超麟は生涯に三度の獄中生活を経験している。一度目は一九二九年三月、まだ中国共産党江蘇省委員会宣伝部長をつとめていた時であった。二度目は、一九三一年五月。彼はすでにトロツキストとなっていた。この時彼は、国民党政権によって「有期徒刑十五年」の重刑判決を受け、一九三七年八月に日中戦争に伴う「戦時仮釈放」で出獄するまで六年以上の獄中生活を送ることになった。そして三度目は、中国革命が勝利した後の一九五二年十二月であった。中国共産党の全国的な「トロツキスト粛清」によって逮捕された鄭超麟は、判決のないまま一九七九年六月まで実に二十七年間もの長期にわたって投獄されることになったのである。
 しかし彼は決して屈服しなかった。鄭超麟は最後までトロツキストとしての彼の立場を貫き通したのである。ベルリンの壁が崩壊した後の一九九〇年五月、九十歳を迎える彼は自らの生涯を振り返った「九十自述」を著した(本書第十一章)。
 「二十世紀の世界史上の最大の論争は、延々七十年近くを経てついに結論に達したのである。トロツキーが正しく、スターリンが誤っていたと。/この大論争の結論をみることができて、私が九十歳の高齢まで生きてきたことも無駄ではなかったというものだ。/私がまだ生きていくことができるとすれば、第二次世界革命の怒濤の爆発がみられるのであろうか」と。
 なお『トロツキー研究』28号(99年3月発行)は「追悼―鄭超麟」を小特集としており、その中には死の前年の一九九七年四月に彼が書いた「中国共産党第15回全国代表大会への手紙」も掲載されている。彼はこの手紙で、中国トロツキー派への「反革命」規定を中国共産党が最終的に撤回しトロツキー派の「名誉回復」をするよう求めている。本書と合わせて参照されたい。

中国共産党の歴史を体現した個人史

 鄭超麟の個人史は、そのまま二十世紀の中国革命運動と中国共産党の歴史でもある。一九一九年に中学を卒業した十八歳の彼は、フランスで働きながら学ぶ「勤工倹学」運動の呼びかけに応えて渡仏した。没落に向かう地主の「読書人」家庭に生まれた彼は、それまで孔子の説になじんでいたのだがフランスに向かう船上で、当時の中国民主運動の先導役を果たしていた雑誌『新青年』を借りて読み、陳独秀の説に接することになった。初めは、陳独秀の孔子批判に大いに反発した彼は、しかしすぐに陳独秀の熱烈な愛読者になる。それはその後の彼の人生の転換点になる一大事件だった。
 彼は書いている。「(一九一九年)十二月七日、マルセイユに上陸したとき、私は香港で乗船した際と表面上はなんら変わるところはなかったが、内面はまったく別人になっていた。隠れていた個の意識がすでに目覚め、これ以後、私は私自身の主人となった。私は自分の運命を司ることができるようになって、もはや父や先生その他、年長者が私に割り当てた鎖の一環ではなくなっていた」。
 この「近代的個人」としての自覚こそ、彼が中国共産党の指導部の一員となって以後も、自立した立場を堅持し、あらゆる外在的権威への従属を拒否して、中国革命の路線をめぐるスターリン派の破滅的な指導へのトロツキーの批判を支持した主体的根拠だったと、私は思う。
 フランスで働きながら学んでいた鄭超麟は、一九二二年にパリで周恩来などとともに在仏中国人青年による「少年共産党」の結成に参加、一九二三年から二四年にかけてモスクワの東方労働者共産主義者大学(クートベ)で学んだ後、中国に帰国して中共中央宣伝部での活動を展開する。一九二五年の五・三〇運動、一九二七年の二月、三月の上海労働者蜂起にも参加した。蒋介石の四・一二クーデター後も、彼は中共中央の一員として党機関紙「ボルシェビキ」の実質的な責任者となったが、第二次中国革命の敗北の総括をめぐる論戦の中で、彼は陳独秀とともにトロツキーの立場を受け入れることになった。それは彼の新たな苦難の始まりでもあった。

落ちついた眼差しで生き生きと描写

 本書の何よりの魅力は、創設期の中国共産党の中心にいた彼が、一九二〇年代の激動の時期における指導部の群像、論議、個人的対立、人柄、活動の実態などをきわめて落ちついた眼差しで生き生きと描写しているところにある。それは毛沢東を絶対唯一の指導者として以後の公式の党史などでは覆い隠されていた実相を具体的に明らかにした希有の資料的価値を有している。中国トロツキー派内部の対立や分裂の経過についても、きわめて興味深いものだ。そこには自己満足や自己弁護の一かけらもない、誠実な著者の人柄が良く現れている。
 また北京現代史料編刊社版として刊行された時には削除されていた「恋愛と政治」の章(第七章)も本書ては復活されている。鄭超麟自身、「北京版」ではこの章を削除して出版することに同意した上で、「それでもなお私には、惜しいかな、の思いがあった。あの時代、中共幹部間の矛盾や闘争のかなりの部分は、ただ恋愛問題の紛糾によってのみ説明できるのである。この章を削ると、どうにも説明できなくなってしまう」と述べているように、決して公式の党史では叙述されない、きわめて「人間的」とも言える葛藤が党内闘争の一因になった経過が、この章を入れることによっていっそう理解しやすいものになった、というべきだ。
 現在、中国共産党内ではトロツキー派の総帥となった党創設者・陳独秀の復権が進んでおり、一九三〇年代の中国トロツキストを「漢奸」(日本帝国主義の手先)とする規定は事実上撤回されつつある、と言われる。しかし、とりわけ中国革命勝利後のトロツキー派への全国的一斉弾圧については、いまだその誤りが清算されてはいない。
 そうした話をぬきにしても、「読み物」として第一級のものだ。ぜひ一読をおすすめしたい。(平井純一)  


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