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韓国の独島(竹島)記念切手発行について        かけはし2004.02.02号

日本の領有権主張は朝鮮侵略と植民地支配を正当化するものだ


 韓国郵政庁は一月十六日、韓国の島々の生態系保護を訴える企画の一環として、独島(日本名・竹島)を描いた記念切手を発行した。独島は韓国・鬱陵島の南東約五十八キロ(隠岐島の北西約百五十七キロ)に位置する切り立った小さな岩礁群で、総面積約二十三ヘクタールの無人島である。この切手発行に対して、小泉政権は「竹島は日本の領土である」として発行中止を要請し、発行当日には川口外相が趙世衡(チョンセヒョン)駐日大使を外務省に呼びつけ、「とうてい容認できない」と抗議した。
 「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と暴言を吐いた麻生総務相が「対抗策」として日本も「竹島」の切手を発行を検討すべきだと主張したり、元日に侵略戦争賛美神社=靖国参拝を強行した小泉が「竹島は日本の領土」と公言したことなどに対して、韓国ではデモをはじめとする抗議の行動が起きている。
 ノ・ムヒョン大統領は一月十四日の記者会見で「(領有権の根拠について)言及する必要もない。自分の妻を妻だ妻だと言わないのと同じ」と述べたと報じられている(朝日新聞1月22日)。「領有権」を説明するたとえに「自分の妻」を使うのは問題だが、独島が韓国領であることは疑問の余地がない。韓国人民が怒りを燃やしているように、独島に対して日本が領有権を主張することは、朝鮮半島に対する日本帝国主義の侵略と残虐な植民地支配を正当化するものである。

 独島は韓国の古代史に登場し、さまざまな文献に記載されている。日本との関わりは、一五九二年と九七年の二度にわたる秀吉の朝鮮侵略から間もない一六一八年、江戸幕府が米子の住人に鬱陵島(現韓国領)の独占的開発権を与えたことに始まる。この時、独島は隠岐を経て鬱陵島に至る寄港地として利用されていたという。
 十七〜十八世紀は、江戸幕府が秀吉の侵略が作り出した対立を和らげて朝鮮との関係改善に努め、一八一一年まで十二回にわたって朝鮮からの大規模な通信使を迎え入れるような友好関係が作られた時代だった。こうした関係のなかで行われた日朝交渉で、一六九六年に幕府は鬱陵島が朝鮮領であることを認め、日本人の渡航を禁止した。この時点で、それ自身としては極めて小さな岩礁に過ぎない独島は日本にとっての意味を失い、その歴史から消えた。それから二百余年を経た一九〇五年、独島(竹島)の日本領有が突然、宣言されたのである。
 一八七五年の江華島条約の強要に始まる天皇制日本帝国主義の朝鮮侵略と植民地支配は、日露戦争の勝利で朝鮮半島からロシアの勢力を一掃したことによって、武力を背景にして一挙に進められた。
 一九〇四年の日韓議定書では、韓国内での日本軍の軍事行動の自由を認めさせた。同年の第一次日韓協約では、日本政府の顧問が韓国政府の財政と外交を監督することが押しつけられ、翌年の第二次日韓協約で韓国総督府の設置が決められ(後に朝鮮総督府と改められる。初代総督が朝鮮侵略の責任者として韓国で悪名高い伊藤博文)、一九〇七年の第三次日韓協約を経て内政外交すべてにおいて日本帝国主義の支配権が確立し、韓国は「保護国」とされてしまった。植民地支配に対する武装抵抗(義兵運動)を含む反対運動は徹底的な殱滅作戦で血の海に沈められ、一九一〇年の日韓併合=植民地支配の確立に至る。
 「竹島の日本領有」を宣言する閣議決定が行われたのは一九〇五年、日本帝国主義が韓国から外交権を奪い取った第二次日韓協約が締結された年であった。すなわちそれは、全一連の朝鮮半島に対する侵略と植民地支配政策の一環にほかならなかった。この閣議決定を根拠とする日本政府の独島(竹島)に対する領有権の主張は、まさに朝鮮侵略と植民地支配を正当化するものなのである。中国に対して日本政府が領有権を主張している釣魚台(尖閣列島)は、日清戦争の勝利のどさくさにまぎれ、非公開の閣議決定で一方的に略奪したものだが、略奪の手口はほとんど同じである。
 一九四五年に日本帝国主義は無条件降伏し、四六年にGHQ(連合国軍総司令部)は司令六七七で「鬱陵島、竹島」などへの日本の行政権を停止し、日本漁船が独島周辺十二カイリに近づくことを禁止した。一九五一年に日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、鬱陵島も含め「朝鮮に対するすべての権利、権原を放棄する」ことを受け入れた。
 しかしこの時、「竹島」は放棄する領土として明記されなかった。これが、歴代自民党政府から日本共産党までが主張する「竹島は日本の領土」論の根拠とされている。しかしそれもまた、侵略と植民地支配の歴史を正当化する主張そのものである。
 一九一〇年の日韓併合の際、「竹島」は朝鮮総督府の管轄下に入らなかった。すでに五年前に、進行する植民地支配の過程で一方的に略奪され、島根県に編入されていたからである。日韓併合より早く略奪され、韓国から切り離されていたために、放棄する領土として「竹島」が明記されないという偶然がもたらされた。しかし一九一〇年に略奪した韓国の領土は放棄するが、その五年前に略奪した韓国の領土は放棄しないという屁理屈は成り立たない。まさにそれは、ひとつながりの侵略の過程だからである。
 日本は、侵略によって略奪し、侵略戦争に破れた結果として失った独島(竹島)の行政権を、事実として回復することはできなかった。これに対して第二次大戦後、今日まで独島を実効支配し続けているのは韓国である。「竹島は日本領」という主張は、朝鮮侵略と植民地支配の歴史を肯定し正当化するものであるだけでなく、現に韓国が実効支配している土地を侵略しようとする新たな侵略行為なのである。
 小泉政権は、弱肉強食の新自由主義「構造改革」で一握りの「勝ち組」と圧倒的多数の「負け組」に分裂し荒廃する社会を、「愛国心」を柱にした国家主義で再統合しようとしている。そのような国家主義的国民統合の強化なしには、グローバル戦争に唯々諾々と動員される「戦争をする国民」を作ることはできない。
 だからこそ小泉は、中国や韓国をはじめとするアジア諸国とのFTA(自由貿易協定)などの新自由主義的経済統合にとっては有害無益と思える「靖国参拝」を繰り返しており、教育現場に「日の丸・君が代」と事実上の国定修身教科書『心のノート』による「愛国心教育」を強制し、平和憲法を実践するための教育をうたう教育基本法を改悪しようとしているのだ。
 そしてそのような国家主義的国民統合にとって、排外主義をあおりたてる「領土問題」は最大のキャンペーン手段の一つである。「竹島は日本の領土」という小泉政権の反動的主張を許さない闘いは、麻生の「創氏改名肯定論」や小泉の侵略戦争賛美神社=靖国参拝、途切れることなく繰り返される閣僚や自民党政治家の侵略戦争を肯定する暴言との闘いと一体の闘いである。それはイラク派兵を許さず、憲法改悪と「戦争する国家体制」形成を阻止しようとする闘いと一体である。
 それはまた、新自由主義的グローバリゼーションと対決する労働者人民の国境を超えた国際主義的連帯を作り出すためにも重要である。日本帝国主義の侵略と植民地支配を正当化しなければ成り立たない新たな侵略の論理を批判することができないようでは、韓国の労働者人民との国際主義的連帯をかちとることなどできるはずがないからである。
 間違っても、日本側から「日韓共同管理」などの「対案」を出してはならない。それは侵略と植民地支配の過去にほおかむりしたまま、小泉政権の領土的野心を半ば実現しようとするものでしかないからである。独島は韓国領である。小泉政権は不当な領土要求を撤回し、独島略奪を含む朝鮮侵略と植民地支配について、あらためて全面的に謝罪せよ!
(04年1月23日 高島義一)



全国の寄せ場労働者の力を集めて
屋根と仕事を求めて

日雇全協が反失業総決起集会
全国各地で越年越冬闘争を闘い抜いた力が総結集

 一月十八日、山谷・玉姫公園で佐藤満夫さん虐殺十九ヶ年、山岡強一さん虐殺十八ヶ年、日雇全協総決起集会が行われ、全国各地で越年越冬闘争を闘い抜いた日雇い労働者、野宿労働者、支援者約三百人が結集した。
 集会の横断幕の下には佐藤さん、山岡さんの写真のほかに、今秋発覚した朝日建設事件(働いていた三人の労働者が殺害され、キャンプ場に埋められていた事件)の被害者、横田大作さん、多賀克喜さんの名前、そして未だ名前の解らない被害者の似顔絵が掲げられている。
 集会は佐藤さん、山岡さん、朝日建設の三人の労働者、そして昨年亡くなった釜日労の藤井さんに対する黙祷から始まった。
 発言の最初は特別報告として笹日労の大西さんより昨年韓国民主労総の主催する労働者大会への参加及び今年に入ってからインド・ムンバイでの世界社会フォーラムに向けたダリットの人々の行進に参加したことの報告を行った。
 次に支援の発言として争議団連絡会議・南部交流会の仲間の発言が行われ、アジア共同行動(AWC)日本事務局、ATTAC Japan(首都圏)、破防法・組対法に反対する共同行動、三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)の連帯アピールが紹介された。
 続いて新宿連絡会が越年期の闘いを報告。渋谷野自連の仲間は東京都の公園適正化計画に触れ、一人ではなく、層としての闘いを作っていこうと訴えた。
 さらに大阪の高齢者特別就労で働いている仲間は朝日建設の事件について「マスコミは面白おかしく報じているが」俺たちは寄せ場労働者の流儀できっちり闘っていこうと訴えた。
 ここで笹日労の大西さんが再び登場し、「闘いの中には文化も必要」と一席ぶった後、「銀座カンカン娘」の替え歌で「おいら笹島アオカン野郎」を披露した。
 続いて日雇全協各支部の仲間の発言。釜日労の山田委員長は昨年九月から年末まで市庁舎前で野営闘争を闘ったことを報告し、「どんなにヤサ(住居)を確保しても働いて生活していくわけで、就労を勝ち取っていくことが必要」しかし「その過程ではヤサも、食い扶持も、取れるものは取っていく」とした上で、全体で反失業を闘おうと発言した。
 笹日労の仲間は越冬の中でJRの追い出しに抗議し、中止させたことや、公園の外に出て連日のカンパ活動を展開し、いままでで最高の市民からのカンパを集めたこと、さらに朝日建設で働いた労働者と出会ったことなどを報告した。
 寿日労の仲間は、今回の越冬も横浜市のプレハブを自主管理するという形で闘い、なかでも二十九日、三十日の入所の段階でCR車による結核検診の実施をかちとったことを報告した。
 山谷争議団の仲間は山岡さんが殺される前に戦前の労務奉国会に関心を寄せていたことに触れ「いま、イラク派兵というなかで現実のものになりつつある」として、こうした中で朝日建設争議、仕事よこせの闘いを断固として闘っていこうと訴えた。
 シュプレヒコールを上げ、山谷地域を一周するデモに出発する。機動隊の不当な弾圧をはね返し、戦闘的なデモを闘い抜いた。(板)


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