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韓国は、いま                      かけはし2004.01.01号

「住民投票」に過大な期待を抱くことなく無条件白紙撤回の道を

扶安(プアン)核廃棄物処分場阻止闘争


 12月13日、2003全国民衆大会が扶安(プアン)で開かれる。これは極めて重要な意味を含蓄している。韓国の民衆運動陣営が扶安で電撃的に連帯するということの意味よりも、さらに重要なことは扶安住民抗争の意味が民衆運動的次元から逸脱するのをけん制し、扶安抗争の新しい力を加えることだ。
 ここで言う「民衆運動的次元」というのは民衆運動陣営の目的意識的経路を言っているのではない。それは原初的に住民らの自発的、自己組織的闘争、すなわち自発的闘争共同体のうらみや怒りの構造および勝利の方向を指している。
 遅きに失した感なきにしもあらずだが、いまからでも民衆運動陣営の電撃的連帯は重要な役割を果たすことができるだろうし、それは扶安住民らの自発的闘争共同体のうらみや怒りの構造および勝利の方向を尊重しつつも、それを守り意味を拡張させる疎通的連帯として期待できるからだ。もちろん、もともと情勢が険悪なので大きな期待をするものではないけれども、民衆運動陣営の電撃的連帯においてその役割を果たすことが必要だ。
 私は当初から扶安住民らの核廃棄物反対闘争が民主主義闘争であることを強調してきた。ところで11月19日と20日に、それぞれ「民乱」と「戒厳」という新たな局面を迎えるとともに扶安闘争は収拾のできない渦に陥ることとなり、核廃棄物問題はさておいて、民主主義の問題が一層、前面に浮上するところとなった。この5カ月間の切々たる闘争を拱手傍観していた記者たちが大挙殺到し、国会議員らも相次いで「真相調査」なるものをしにやってきた。
 だが問題は、扶安の事態を正確に理解するためには抗争している扶安住民らのうらみや怒りの構造をキチンと読みとらなければならないということにある。私が扶安の事態は民主主義闘争の問題であることを強調したのは、形式的手続き上の問題のせいだけではない。信じて投票してきた郡守の住民への背信や侮蔑行為に対する住民らの怒りが、極めて深くうずまいており、それに加えて扶安住民らから90%以上の票を得たノ・ムヒョン大統領の加勢によって、怒りは天をつくばかりとなった。
 扶安民主主義抗争のうらみと怒りの構造はここから生じており、住民ら自らも堪えることのできない集団的わななきとしての意識構造なのだ。したがって、このような類の構造は政治的というよりは文化的に理解できるのであり、住民らがキャンドル・デモや3歩1拝(注)など文化的やり方によって闘争の動力をしっかりと結集させてくることに成功したのも、おそらくこのような理由からだろう。
 扶安住民抗争の勝利の方向は他のところからではなく、まさにこの民主主義抗争の意識の構造から求めなければならない。郡守の民主主義じゅうりん行為から発生した事態なので、問題の解法も当然、民主主義抗争の成功として導き出せなければならない。そうであってこそ、そうでなくとも怒りの高まった扶安郡民らのうらみと怒りの意識構造を治癒する最小限の意味があるだろう。
 堪え難い苦痛と犠牲と損失とをたえなければならなかった集団的後遺症を新たな肯定性に転化させていくためにも、民主主義抗争の意味を看過してはならない。これがまさに冒頭で私が語った、扶安住民らの自発的闘争共同体のうらみと怒りの構造および勝利の方向の問題だ。
 ところで、なぜ私はあたかも唐突に「勝利の方向」について語っているのか。われわれは明らかに勝利すると確信するけれども、変数が多く、それがいつ、どのようになるかも分からないこと、したがって勝利の話をむやみにすることは警戒しなければならないところではあるが、今日の闘争方向の問題を直接的に連結し、また闘争方向から決定され得るがゆえに、勝利の方向についての話を争点化せざるをえない。
 扶安抗争は9・8の郡守をこらしめた事態以後、11月初めまでは対話の局面だった。政府と扶安対策委は対話の機構を構成し、扶安の事態を解決するために対話に入った。だが結局、明らかになってしまったが、政府は何としてでも時間を稼ぎ、闘争のエネルギーを消耗させ、住民らを分裂させて核廃棄場を押しつけようとすることを対話の目標とみなした。蝟島(ウィド)核廃棄場敷地を放棄する意思は全くなかったのだ。
 だが対策委(の指導部)は政府が放棄するための手順であるとして楽観的に判断し、対話のボタンをそのような方向につけていった。それに加え対策委は、政府が引き下がる名分も取りそろえてやらなければならないとして、その配慮(?)も忘れなかった。こうして対策委が受けいれて積極的に提示したのが「年内の住民投票」というものだった。
 対策委は住民らの苦痛と損失と犠牲を最小化するために住民投票を選択した。だが住民らは政府との対話の初日から、すでに政府が臨んでいる対話の虚構性を見抜いていた。そうして対話期間中ずっと、対策委の強硬闘争自制の指針に不満を吐露して問題提起をしつつ、熱情的な闘争の意志を示したり、また背を向けたりもした。
 このときから住民らと対策委の不一致が生じたが、それは幸いにも憂慮すべき葛藤のレベルではなかったし、それにもかかわらず住民らは対策委を絶対的に信頼する態度を維持した。不満や問題提起は大概、「絶対共同体」の死守と闘争の勝利という大義の中に従属させ、戦闘警察から血が吹き出すほどに楯で切られながらも自らを調節していく知恵を発揮した。
 住民らは郡守の独善行為を認めてしまうという点から、大多数が住民闘争に反対したが、対策委が住民の総意として決定した「年内の住民投票」案に、恥辱的にもかかわらずあえて従ったのである。

 私は対策委が「年内の住民投票」へとカジを切ったころ、扶安住民の立場として対策委のホーム・ページに住民投票に反対する幾つかの理由についての文章を書いて載せた。他の理由も見過してはならないが、私が挙げた幾つかの理由を要約すると、以下の通りだ。
 第1に、住民投票をするというのは、郡政独裁者、核の郡守、ジョンギュの専横を認めてしまうこととなり、今日まで住民らが苦しみや痛みのうちに積み上げてきた民主主義闘争という極めて大切な成果や名分を、そっくり廃棄させてしまうことになる。
 第2に、住民投票をするということは、これまで扶安住民らが叫んできた、この国のどこにも核廃棄場は絶対ダメであり、核のない世の中を作ろうという反核の精神を損なわせることになる。第3に、扶安を完全に踏みにじっているノ・ムヒョンの鼻っ柱をへし折ってやらなければならないからだ。
 第4に、住民投票で決定することになれば、その時期が引き延ばされることは火を見るよりも明らかであり、その期間中、極少数とはいうものの賛成派ら(主にキナコの利害関係者たち)の行動が正当化されるので、住民らへの買収や分裂が加速化され、それから受ける苦痛もまた大きいだろう。
 第5に、韓国水力原子力をはじめとする核マフィアらが、群れるハチのように幅を利かせてうごめくだろう。そしてさらに看過できないほどに重要なのは、住民投票で勝利するなら、闘争の大変なエネルギーを新たな扶安の地域共同体建設へとつなげていくことにおいて住民へのアピール力が低下する恐れもあるという点だ。自ら民主主義闘争の意味を放棄して、どうやって住民らに民主主義社会を訴えることができようか。
 どのみち政府は年内の住民投票を拒否したし、それに対する扶安郡民らの答えは「民乱」であったし、その民乱に対する政府の解答は「警察の戒厳」だった。この極限的な諸事態が発生するや、その時になってやっと扶安の事態はわが社会の最大の懸案として登場するに至った。
 世論も扶安住民らに有利になっており、各社会運動団体の連帯が本格化しており、国際的世論化も始まっている。多くの住民らは、いまや住民投票の話を持ち出すのをやめ、無条件白紙化闘争へと決死抗戦しなければならないと言っているけれども、対策委は依然として住民投票に未練を抱いている。そんなだから市民社会諸団体も尻馬に乗って「住民投票」をイシューとして押し出すという愚を冒しているのだ。
 11月29日、民主労総、全農、民主労働党などが一緒に行った大規模決起大会でも核廃棄場の「白紙化」の声は小さくなり、「住民投票」が主たるイシューとして押し出されていった。次善の策として早い時期に施行される住民投票を望む気持ちがあるとはいっても、それ自体をイシュー化するのは何の誤りもない扶安郡民らが加害権力である政府に哀願することにしかならない。ひたすら白紙化に向かって進みぬかなければならないのであり、そのように圧迫してこそ政府が降参するか、それとも政府自らが早い時期の住民投票を提示するようにさせるかしなければならない。
 住民投票で勝利することと無条件白紙化で勝利することと、その違いは大きい。住民らが年内住民投票を受け入れたのも、自らの自己決定ではなく(対話機構関係者の中の)対策委の政策的決定を受け入れたものだ。だから住民投票は住民らの自発的闘争共同体のうらみや怒りの構造に応える勝利の方向ということはできない。そこで私は、勝っても負けのゲームだと言った。政府に引き下がる名分を与えるために住民抗争の名分を自ら放棄してしまうことが前提とされているからだ。
 だが単純に闘争の名分にしばられて、そう言っているのではない。扶安闘争は資本と権力に対する住民の抵抗という点において一次的に(多衆的主体性として構成された)民衆抗争としてアプローチされなければならない。住民投票の方式は一般的に民主主義方式と言うことはできるとしても、扶安の状況においては、むしろ民主主義ではありえないものであり、住民投票で勝利となったとき、民衆抗争にもとづいた民衆的方法としてではなく、(虚構的ながらも)「市民社会的合理性」の意味へと帰結するおそれが大きい。住民の抵抗権よりも、住民の投票行使権に傍点が打たれつつ、というわけだ。要するに民衆抗争の性格や意味が色あせかねないのだ。
 この問題は勝利以後の扶安の社会を変化させるための第2の闘争を分かつ核心的な事安だ。これは私だけの考えではないが、まさにこのような脈絡において、扶安抗争の勝利の方向が自発的民衆運動的次元から逸脱するのをけん制し、闘争期間に形成された扶安住民らの原初的怒りの構造にもとづき、そしてそれを豊かに進化させて扶安の新しい共同体を創造していけるようにする民衆運動陣営の役割が要請される。
 12月13日、扶安で開かれる全国民衆大会が、そのような役割をはたせたならば、という思い切なるものがある。(「労働者の力」第44号、03年12月5日付、コ・ギルソプ、扶安住民、「文化連帯」編集委員長)
注 3歩1拝というのはチベット仏教などの5体投地と同じようなもので、      拝しながら歩む。大干拓事業であるセマングムに抗議して全羅道からソウルまで、この気の遠くなるような3歩1拝行進が貫徹された経過がある。


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