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「反戦」を柱に「反米」を「反帝国主義」「反資本」の闘いへ |
「帝国主義」概念の今日的とらえ方
20世紀の初盤の世界資本主義体制の性格を帝国主義と規定づけることについてさえ論難や異見がないわけではない。まして今日の世界資本主義体制の性格を帝国主義と規定づけようとするときには、はるかに多くの問題提起が投じられている。
ここでいったん帝国主義という概念を受け入れる立場からは、帝国主義は大別して2つの側面の統一として理解されている。1つは経済的側面で、このとき帝国主義というのは(国家)独占資本を意味する。そして独占資本主義においては産業(独占)資本と銀行(独占)資本がゆ着・融合した形態の金融資本が成立・登場することによって金融寡頭制の支配が現れる。同時に独占資本主義においては独占価格に伴う資本の超過利潤の発生と過剰資本が形成される。ここから以前の時期の商品輸出と対比される「資本輸出」を必然化する。
もう1つは政治的側面だが、このときの帝国主義は特定国家の性格を言うものだ。その性格は国家が独占資本主義の国内的支配や対外的膨張を支援・先導することを言う。つまり世界市場において国際独占体の間の経済的分割競争や帝国主義国家間の領土的分割競争を国家が支援・先導し、さらにはこの再分割から不可避に発生する軍事的競争、すなわち戦争を遂行することを言う。このように見ると帝国主義は民族国家が到達した資本の発展(蓄積)段階と、それを維持・持続・強化させようとする上部構造(国家)の役割を合わせた(統一させた)概念となる。
ところで労働者階級が過去の歴史についてであれ、今日の世界についてであれ、それの性格を規定しようとする理由は本質的に資本主義または資本主義世界体制を克服しようとすることにある。すなわち「移行」のための実践をどうするのが正しいかについて答えるためのものだ。
まさにこの地点で、先に探ってみた帝国主義(論)は、はたして「科学なのか」という疑問や、今日でも実践的に依然として有効な概念なのかという質問にぶつかることとなる。特に帝国主義を資本主義の最高の(最後の)段階であり、死滅する段階と規定する点については、いっそうそうだ。ここから、ほかならぬ資本主義が危機に直面している、それも恒常的・一般的危機に陥っているとの結論を導き出しているからだ。
これを資本主義「崩壊論」にまで読み解く人は言うまでもなく、資本主義が危機に直面しているという事実を認めなかったり、危機の性格を資本の運動に内在的なものと把握しない立場からは、帝国主義はすでに古いものとなる。このため過去の帝国主義論では、今日の資本主義または資本主義世界体制を説明できないか、少なくとも説明は難しく、それは特定時期(だけ)の戦術・実践のための一種の方法論にすぎない、との認識が幅広く広まっている。
事実、帝国主義(論)にそった現象はロシア以後の歴史において再登場しなかった。資本主義は2回の世界大戦にもかかわらず依然として健在であるばかりでなく、消え去ったのはむしろ「現実社会主義」だ。新植民地という概念について同意するかどうかは別として、植民地は明らかに縮小した。
今日、資本輸出は資本維持競争とともに進んでおり、これは先進資本主義(帝国主義)でさえ例外ではない。世界資本主義の秩序はWTO体制、ブロック化(EU、FTAなど)、国境を越える資本間の提携・合併、超国籍資本の登場などによって、それらが資本間、国家間の産物であるにもかからず、競争だけではなく協力や妥協、つまり調節が可能であるかのような様子を帯びている。
このため資本自体が問題だと言うよりは資本主義の特定の性格、すなわち新自由主義、新自由主義的グローバル化、金融世界化が問題であり、国家または帝国主義自体が問題はなく、国家または帝国主義の特定の性格が問題となるもので、これは国家の民主化によって解決されなければならないとの認識が存在している。また帝国主義列強の間で戦争が起きる可能性は歴史上、もっとも低いか、あるいは消え去っており、問題となるのは単に米国帝国主義の第3世界の国家に対する軍事的介入・侵攻・侵略だけだとの認識や診断が「左派」内部で提起されているのが現実だ。
今日の世界資本主義と帝国主義
それならば、われわれがいま、言おうとしている反帝国主義とは何を意味し、そしてその性格はいかなるものなのか。より直接的に、なぜ反帝国主義を提起しているのか。これに答えるためには、大きく3つの側面からの接近が必要だ。
1つは今日の資本主義世界体制を依然として帝国主義として規定できるのか、それが科学的にであれ実践的にであれ有効・妥当なのか、という側面だ。結論は、そうだ。特に資本主義が今日、恒常的・一般的に危機に陥っている側面からして、いっそうそうだ。帝国主義(論)が語っている核心も、まさにこの点だ。前に話した帝国主義の5つの特徴ないし標識は、その後の世界において変化してきたし、変化した。
問題はその変化が、資本主義が恒常的・一般的危機に陥っているという事実を否定できるかということならば、決してそうではない。今日の資本主義が到達した新自由主義のグローバル化、金融の世界化は資本主義の危機が極に達しているということの傍証だ。確かに注意して読み解かなければならないが、支配階級でさえ今日の世界を、いわゆる「経済戦争」の時期だと言っているのではないか! 「経済戦争」は日常的には絶え間ない「軍備競争」を、最終的には「本当の戦争」以外には、ほかに到達する道がないということを今日までの歴史が証明している。
反帝国主義闘争と「労資関係の止揚」
第2は反帝国主義の相対概念または志向が何なのかだ。ここが20世紀初めの反帝国主義に比べて今日の反帝国主義が、より拡張されなければならない地点だ。もっとも反動的なものとしては、自ら帝国主義国家になろうというイデオロギーだ。例えば「国家競争力の強化」、「先進国参入」、「2万ドル時代」、「東北アジアの中心国家建設」などを挙げることができる。
このようなことが支配階級のイデオロギーであるとするなら、自由主義および労働者・民衆陣営の一部で提起されている「主権国家」、「自主国家」、「民族自存」などは、一応戦術的側面において受容できる点がないわけではないけれども、それらが労資関係を排除したり等閑視するなら、あるいは時間的前後の問題や中心と副次の問題において労資関係を後回しにするなら、それもまた今日の反帝国主義が指向しようとすることとは、かけ離れたものだ。したがって反帝国主義の相対概念または指向は「反資本」、「労資関係の止揚」、「移行」にならなければならない。今日の反帝国主義は、まさにこれを指しているのだ。
第3は、反帝国主義闘争の具体的対象や実践プログラムの問題だ。ここでも20世紀初めの反帝国主義闘争と今日の反帝国主義闘争の具体性は変化している。先に述べた反帝国主義が指向しなければならないものとしての「反資本」、「労資関係の止揚」、「移行」は、資本が「民族国家」単位に組織されている点から、1次的・原則的に一国(内)での闘争を基本前提としなければならない。だが帝国主義が、まさに資本の運動が一国的または民族国家単位で閉鎖されたり完成されたりはしないがゆえに成立するという点において、「資本」に対する闘争は一国内に制限・制約されてはならないということが分かる。
例えば移住(外国人)労働者の問題への対応・他国の労働階級の闘争に対する連帯、他国に対する帝国主義国家の政治・経済・軍事的介入に対する反対、資本(運動)の秩序を再編するための制度や規約、すなわちWTO体制、FTA、IMF、OECD、G8、投資協定、経済特区などへの反対などを挙げることができる。
ところで一国(内)での闘争と、このような闘争は決して分離されてはいない。したがって実践プログラムも、そう難しかったり抽象的だったりはしない。この2つの闘争は相当部分、重複し重なりあっている。ただ地理(空間)的、時間的に闘争の性格や対象がより具体化する場合がある。
例えば、一国での新自由主義反対闘争は、もちろん伝統的な賃金引き上げ、団協争取、労働条件の改善、労組活動の保障闘争など、各国の具体的条件に伴った具体性があるのが当たり前だが、WTO閣僚会議、IMF総会、G8会談などが開かれる地域に対する直接的な打撃闘争への参加や、反戦をテーマにした集会やデモの開催などは全地球的、地域的同時性を帯びている。
「反米」を否定する3つの論点
反米は今日の世界、特に韓国社会において最も熱い争点になっている。それだけに米国、正確には米国帝国主義、より具体的にはブッシュ政権が世界ならびに特に韓国社会に及ぼしている(悪)影響が大きいからだ。ところでこの点は実際のところ、昨日今日のことではない。むしろ世界および韓国社会に対する米国の影響力は実際には弱まっている。これは基本的に米国のヘゲモニーが歴史的に縮小してきたという事実によって裏付けられる。
それにもかかわらず今日、米国がこれほどに人々の中に刻みこまれているのは、遠くは「現実社会主義」が崩壊して以降、米国が唯一の軍事強国として残ることになったということ、近くは9・11の事態以後、ブッシュ政権が取っている行動のせいだ。また、韓国社会に関連しては「北核」――イ・ヨンヒ先生の指摘によれば「米国のジュネーブ合意の不履行――問題と結びついている。
このような脈絡において全世界の労働者・民衆が米国に対して反対するのは極めて自然であり当然のことだ。ところで、なぜ反米が問題なのか。いや、韓国社会の労働者・民衆陣営の一部で、反米をなぜ問題視しているのか。
ここには大きく3つの背景がある。第1に、反米を国家対国家の対立や葛藤と見ることに対する反対だ。そう考える場合、米国に反対することは国内の支配・被支配関係、すなわち労資関係が隠ぺい・歪曲される結果を生むだろうということに対する憂慮がある。第2に、韓国社会に実体として厳然と存在している「反米主義者」、つまり「民族主義政治勢力」に対する反対の意味を帯びている。彼らが主張している反米は明らかに第1の憂慮にもとづいており、彼らの影響力が労働者・民衆に及ぼす弊害が大きいということを警戒しようというものだ。第3に、反米は結局「親北」に帰結するか、少なくとも「北」に対する幻想を生みかねないという点からの反対だ。これらすべての帰結は結局、労働者階級に国家主義または愛国主義を植えつけるものとして表れるだろうとの判断が、反米を問題視する背景だ。
それならば、問題は反米に以上のような問題があるという事実から、直ちに「反米はダメだ」という結論を出すことが正しく、妥当なことなのか、という点だ。結論からいえば、そうではない。これを検討するには幾つかの分析が必要だ。
まず反米が完全に先に示した背景にそって進められているのか、についての判断だ。韓国社会において最小限、反米は少数の活動家らの間での問題を超え、大衆的に提起できるようになった最も最近の契機は「ミソン、ヒョスンの死(米軍キャタピラ車による中学生れき殺事件)」だ。
ところで「ミソンちゃん、ヒョスンちゃんが殺されたこと」のためだけで、すぐさま韓国社会で反米が大衆化できたと言えるのだろうか。違う。過去にも同じようなことは起き続けていたけれども、そのような現象は起きなかった。それでは何ゆえなのか。真実は労資関係がかつてなくそれ自体として透明に激化しており、「民族主義勢力」内の一分派である「親北」勢力の影響力は縮小しており、「北」に対する幻想も弱まっているという事実だ。反米は、むしろこのような現実を背景として登場することになったのだ。もちろん今後もそうだろうとの保障はないし、したがって先に提起している反米に対する憂慮は当然にもそれ自体としては間違っていない。「反米はダメだ」という実践的結論が問題なだけだ。
「反米」の政治社会的背景と意義
次に韓国社会でいま反米を叫ぶことができるのは次のような事実のせいだ。何よりもまず「北」からの安保の脅威、つまり「北」の南侵の可能性が顕著に減っていることにある。その反対に韓(朝鮮)半島で戦争が起こる可能性が高まれば、それは直ちに「北」の存在あるは「北核」のせいだというよりは、ほかならぬ米国、特にブッシュ政権の態度や決定のせいだとの認識が広範に広がっている。
第2は、新自由主義のグローバル化の主犯は、まさに米国資本だということを労働者・民衆が―キム・デジュン政権の登場以来―闘争を通じて直接確認したということを挙げることができる。第3は大衆、すなわち労働者・民衆の政治的力量が少なくとも87年以降たえず強化されてきており、それにもかかわらず支配階級は依然として米国に対する依存度が高いということに対する大衆の「反感」が高まっているという点だ。
そうだ。明らかに反米は現時点においてハッキリした「科学的認識」にもとづいてはいない。確かにこのような現象は、全社会的次元や大衆的次元では、特定の時点において可能なことか、あるいは事がすでになされた後で事後的に目覚める可能性が、より高い。だが強調したいのは、現在の反米は漠然たる感情にもとづいているのではないという事実だ。そこにはそうするだけの原因や理由があるということ、それは先に述べた通りだ。したがって、この点においても「反米はダメだ」という政治的結論はふさわしくない。
また情勢的側面から見るとき、今日の対立の構図は明白に「反米」と「親米」(少なくとも「半反米」)との間で形成されている。そしてこれはそのまま支配階級と被支配階級の間の戦線になっている。重ねて言えば、反米の性格や意味をめぐって戦線が形成されているのではない。より正確に言えば被支配階級内部でも、あからさまに反米を主張することをいまなおはばかっているのが実情だ。したがっていまはむしろ支配階級が扇動している「反米はダメだ」という戦線を突破することが重要だ。特に反米に動揺している自由主義勢力を打撃・けん引するためにも反米は現時点において有用だ。
「反米」に介入する意志と能力
結論的に反米に含まれている非科学的認識や脱階級的内容を問題視するためにも、いまはもう少し反米が進展されなければならない。「民族主義勢力」が及ぼしている政治的影響力は「反米はダメだ」という扇動によって制御できるものではない。反米は共通分母だが、その方向は先に語った意味においての「反帝国主義」、さらには「反資本」とならなければならないということを押し出さなければならないし、現実的には反米が世界的次元で進められている反戦闘争と出合わなければならないことを扇動しなければならない。
労働者階級の認識は闘争とともに、情勢の変化にしたがって上昇するのか後退するのか、それは固定的ではない。問題は、いつであれスローガンや戦術において介入する準備がどれほどできているかであり、意志と能力があるか、だ。世の中を解釈することが問題なのではなく、どう変革させるのかが問題だ。もちろん、このように反米をめぐって表れている苦痛や苦悩は労働者階級あるいは変革勢力が歴史的に自らの政治的立場を勢力化することに失敗したことから発生している。だからと言って、これを一気に、無媒介的に克服するのはできないことだ。歴史の仕返しはあるが、ただではない。反米に介入せずして反米の限界や弱点を扇動することはできないのであり、別個の戦線を形成できる条件もない。
労働者階級による反戦闘争実践
この時期においては反戦は、前述したように反帝・反米を政治的階級的に発展させていく重要な契機あるいは環として位置づけられなければならない。米国帝国主義のイラク侵略を目前にして展開された全世界的レベルでの反戦闘争は、世界の労働者階級と民衆が歩むべき政治的方向や闘争の方向を自らの実践によってさし示したものだ。米国の支配的マスコミが反戦闘争を指して「もう一つのスーパー・パワー」(本来の「一つ」は米国を指している)とからかったのは故なきことではない。
99年にシアトル闘争が起こるまでは、その闘争が、それ以降に持つ政治的性格や波及について、たすやく予想できなかったのは事実だ。一過性に終わるのか、一つのイベントにとどまってしまうのか、一国内の闘争とはどう結びつけられるのか、それこそ確たるものは何もなかった。だがシアトル以後、反グローバル化闘争は日を追って強化されてゆき、世界の労働者・民衆の闘争が進みゆくべき一つの道として位置づけられていることを、その後の歴史が示している。
これに比べれば反戦闘争は、もちろん最近の反戦闘争は、まさにシアトル以後の反グローバル化闘争の経験があったことによって可能になったものだが、その実体はあまりにも明白であり、ハッキリしている。いま一度イラク侵略のようなことが行われるなら、その時の反戦闘争がいかなる様相で展開されるかは、確かに簡単に想像することはできない。それはその実体や展望がハッキリしないからではなく、先の反戦闘争に比べてはるかに躍動的・爆発的に進められることが明らかだということのゆえにだ。
もちろん反戦闘争にも政治的・階級的弱点がある。例えば反戦闘争が、前述した中で憂慮したような内容の反米闘争に流れたり、反米にまで行き着かないまま平和運動に終わる可能性がないわけではない。特に反戦闘争を労働者階級が主導できない状況にあっては、このような弱点は、そのまま現実となり得る。これはまさに労働者階級が、現段階において反戦闘争を実践することが、どれほど大きな政治的・階級的意味を持っているかを語っているのだ。
反戦闘争こそ韓国階級闘争の柱
一方、韓(朝鮮)半島の現実を代入すれば、反戦闘争が持っている意味は一層増幅される。米国が全世界の反戦闘争にもかかわらずイラク侵略を敢行できた決定的背景の一つは、まさにイラク国内の労働者階級の力量が皆無に等しかったという事実だ。韓(朝鮮)半島において戦争の脅威を制御できる一つの変数は、まさに韓国労働者階級と民衆の政治的力量および、その強度だ。もちろん米国の世界戦略および国際政治の力学や北の態度がはるかに重要な変数になるのは事実だが、その時にも南韓労働者階級が持っている力は決して無視できないだろう。
特に最近展開されている東アジアの情勢を勘案するとき「北核」を媒介に、あるいは「北核」でなくとも日本の財務省およびノ・ムヒョン政権が語っている国防費の増額(軍備強化)計画を見るとき、反戦闘争が持つ意義はどんなに強調しても強調しすぎということはない。反戦闘争こそ今日の南韓労働者階級が握りしめなければならない緊急な政治・階級闘争だ。反戦闘争の左右に反帝・反米闘争を結合させつつ、一方では東アジアの連帯を形成して進み、他方ではノ・ムヒョン政権との戦線を設置して進んでいけば情勢を有利な方向に率いることができ、そうなれば懸案の闘争を展開することにおいても高地を占領する効果を生むことができる。(「労働者の力」第34号、03年7月5日付、コ・ミンテク、「労働者の力」会員)
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