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書評 『〈帝国〉』A・ネグリ/M・ハート著 以文社刊5600円                               かけはし2003.9.1号より

グローバル資本主義の「権力」と対決する単純化された展望

極めて「単純明解」な論理

 
 ネグリ/ハートの『〈帝国〉』は、マルクス主義関連の政治著作の中で、最近では国際的にも例外的なまでの注目を浴びている書物である。ブッシュ政権の対イラク戦争を「帝国の戦争」としてとらえる分析がマスメディアで広範に流布されていたのは、「誤解」をふくめて本書とも多少関係している。
 著者の言によれば、本書を書きはじめたのは一九九一年の湾岸戦争が終わった直後であり、書きおわったのは一九九九年のコソヴォでの戦争が始まる直前だった。それゆえ当然にも一九九九年十一月のシアトルで始まった反グローバリゼーション運動の世界的発展、「9・11」とアフガニスタン戦争やイラク戦争は分析の対象には入っていない。父ブッシュの称揚した「新世界秩序」と新自由主義的グローバリゼーションの矛盾がきわめて暴力的な形で爆発し、子ブッシュの「終わりなき対テロ・グローバル戦争」がイラクへの先制攻撃と軍事占領支配として現われた今日の世界状況を直接的に解説するものとはなっていないのである。しかし、それが多くの読者を得たのは、ポスト冷戦時代の、新自由主義的グローバリゼーションを通じた「近代」を超える新たな世界的構造に迫ろうとする切り口を提供しているからであろう。
 著者たちの論理や思考の方法は、およそポスト・モダニズムの語彙などについては門外漢である私にとっても、意外なほどスムーズに理解できた。
 本書の論理がいい意味でも悪い意味でもきわめて「単純明解」なこと、そして一九九〇年代、ソ連邦の崩壊とアメリカの単独覇権の下で進められてきた新自由主義的グローバリゼーションが世界を席巻する中で、旧来の世界認識に代わる新しい方法を模索して手さぐりで「五里霧中」の中を歩んでいた私たちの軌跡と本書の書かれた時期が一致していたことが、自らの経験に引き寄せた形で著者たちの問題意識を私にとって理解させやすくしている背景だろう。
 実際、一九九五年の第四インターナショナルの第14回大会の決議――まさに伝統的な階級闘争の時代的サイクルが終焉し、新たな社会運動の可能性がいまだ大衆的な形で表面化していなかった「底」の時代に書かれた「新しい世界情勢が提起する挑戦課題」(新時代社刊『社会主義へ、いま――第四インターナショナル第14回世界大会報告集』P13〜32)と本書の認識には多くの点で共通するものがある。もちろん「国民国家」の役割や、「国家権力」、あるいは「主権」をめぐる闘争の今日的意味については本書の分析と私たちの理解の間には大きな相違がある。そうした相違は本書を吟味する上での重要な論点である。だが私としては、ポスト冷戦の時代認識についての共通性について重視すべきだと考えている。

グローバル資本主義の権力


 〈帝国〉とは何か。それは市場と生産回路のグローバル化に伴って出現する「グローバルな秩序、支配の新たな論理と構造、ひと言でいえば新たな主権の形態」である。「〈帝国〉とは、これらグローバルな交換を有効に調整する政治的主体のことであり、この世界を統治している主権的権力のことである」。
 それは旧来の「帝国主義」概念とどの点で異なっているのか。「帝国主義」は近代国民国家がその領土的主権の境界を超えて拡大し、世界を分割することによって成立した。「帝国主義」は「内」と「外」を截然と区別し、「外」を「内」に取り込むことによって領土的主権を拡張する権力であった。他方、〈帝国〉はそうした近代国民国家的主権の黄昏の中から姿を現す。
 「帝国主義とは対照的に、〈帝国〉は、脱中心的で脱領土的な支配装置なのである。これは、そのたえず拡大しつづける開かれた境界の内部に、グローバルな領域全体を漸進的に組み込んでいくのである。〈帝国〉は、その指令のネットワークを調節しながら、異種混交的なアイデンティティと柔軟な階層秩序、そしてまた複数の交換を管理運営するのだ」。
 「主権的な国民国家を自らの秩序の中に従属させるグローバルな資本主義の階層構造は、植民地主義的・帝国主義的な国際支配の回路とは根本的に異なっている。植民地主義の終焉はまた、近代世界と近代的支配体制の終焉でもあった。近代植民地主義の終焉は、もちろん無条件の自由の時代を切り開くものではなく、グローバルな規模で機能する新しい支配の形態に道を譲ってしまったのだ」。
 〈帝国〉をこのように旧来の「帝国主義」の終焉の中から登場する新たな「主権」の形態として捉えるとき、「ポストモダニズム」や「ポストコロニアリズム」の「近代」批判の言説は、グローバル資本主義の新たな支配のあり方、すなわち〈帝国〉の形成を促し、「資本主義の内的構造の変容のための露払いをしている」ということになる。
 さらに著者によれば、アムネスティー・インターナショナルやオックスファムや「国境なき医師団」といった「人道主義的なNGO」は、「新たな世界秩序が所持する最強の平和的武器のうちのいくつかにほかならない」のであり、「〈帝国〉の慈善キャンペーンであり、托鉢修道会」だということになってしまう。「人道主義的なNGO」をも組み込んだグローバル資本主義のネットワーク的支配としての〈帝国〉というこの主張は、著者の分析方法の本質を端的に浮かび上がらせている。

〈帝国〉に対抗する主体とは


 それでは、このグローバルな〈帝国〉支配を突き崩す主体はどのように構想されるのだろうか。著者たちによれば、それは資本のグローバリゼーションに伴う〈帝国〉の形成と相応する形で規定されざるをえない。〈帝国〉へのオルタナティブをめざす闘争の唯一の戦略は、「〈帝国〉の内部から出現する構成的な対抗権力」なのである。
 本書の第二部「主権の移行」と第三部「生産の移行」をつなぐ「間奏曲」と題した印象的な章において著者たちは述べている。
 「〈帝国〉とその世界市場に闘いを挑み、またそれらに抵抗するという目標に向かって、それらと同じグローバルなレヴェルで何らかのオルタナティヴを呈示することが必要だと私たちは信じている。〈帝国〉から『切り離され』、固定された境界によってその権力から保護され孤立した個別的共同体を人種的、宗教的、政治的、または地域的な用語で定義しようとするどんな提案も、結局のところ一種のゲットーに陥るべく運命づけられている。境界を画定された、ローカルな自律性を目指そうとする企てによって、〈帝国〉に抵抗することは不可能なのだ」。
 おそらく、グローバリゼーションに対するあらゆる「ローカル」で共同体的な抵抗の試みの無効性を断言する著者たちの主張には、いささか「単純化」しすぎという批判を十分な根拠を持って対置しうるだろう。私自身も、そのような批判を行う必要があると考えている。しかし反グローバリゼーション運動、つまり反〈帝国〉の運動の戦略目標を考える上では、著者たちの提起はある必然性を持っているのである。私たちが「グローバルな平和・人権・公正・民主主義」と提起する時、それがこうした著者たちの主張と重なり合うものがあることは当然だろう。
 ネグリ/ハートは、この「対抗―〈帝国〉」運動の主体を「マルチチュード」と規定する。通常「群衆」と訳されるこの語は、どのような主体のあり方を指すものなのだろうか。
 「新しいプロレタリアート」として規定される「マルチチュード」とは、徹底して〈帝国〉内的な存在であり、グローバル資本主義の多元的なネットワーク的支配それ自体を構成していく。それは、このグローバルな資本の支配=〈帝国〉を自ら生み出す主体的要素であり、それとともに成長し、さらに形成された〈帝国〉内部から、それを掘り崩す対抗的な政治主体として自立していく。
 「マルチチュード」を規定する最大の特徴は、グローバルに開かれた空間的「移動性」であり、その点で産業資本主義―帝国主義の時代の定着性を持った「労働者階級」や、伝統的共同体の枠組みから外れながらも近代「国民国家」に集約される「ピープル」(人民、国民)とも異なっている、と著者たちは述べる。
 多くの評者が述べているように、「マルチチュード」の具体的なイメージはヨーロッパにおける中東・アフリカなどからの移住労働者に表現されている。一九九六年のフランスの「サンパピエ」(未登録の外国人労働者)の運動に触発されて、著者たちが「グローバルな市民権」を「マルチチュード」の第一の政治的要求として取り出していることから見ても、それは明らかだろう(そして「マルチチュード」の政治的要求の第二点は、「万人に対する社会的賃金と保証賃金の要求」である)。
 グローバル資本主義の〈帝国〉的支配に対抗する主体は、自らをグローバルなレベルで多元的・能動的・自律的に形成していく存在としての「マルチチュード」であるというのが著者たちの結論である。
 しかし、反〈帝国〉の主体が、グローバルに自らを構成する〈帝国〉内的存在であると著者たちが主張する時、そこから抜けおちるのはグローバル〈帝国〉内の重層的なヒェラルヒーからも「排除」される膨大な人びとの存在であり、もはや「外部」を持たないとされる〈帝国〉が、それでも再生産せざるをえない「外部」なのではないだろうか。たとえば今日のイスラム主義の問題を考える時、グローバリズムが生み出すそうした「外部」の問題をぬきにアプローチすることはできないと、私は考える。

〈帝国〉の論理とイラク戦争


 すでに述べたように著者たちは「帝国主義」と〈帝国〉を峻別し、ポスト冷戦期のグローバル資本主義の権力構造を「中枢」や「外部」を持たない、ネットワーク的で多元的でフレキシブルなあり方として描き上げた。そこでの「軍事的介入」は「道徳的介入」によって先行される。著者たちは述べている。
 「道徳的なものであると同時に軍事的なものでもあるこの種の継続的な介入は、じつのところ永続的な例外状態と保安〔警察〕行動にもとづく正統化のパラダイムから生じた力の行使の論理的形式にほかならない。……言いかえるなら、介入が保安〔警察〕行動という形態をとるのは、それが内的秩序の維持を目指しているからなのだ。このように介入は、保安〔警察〕的な配慮を通じて、〈帝国〉の道徳的・規範的・制度的な秩序の構築に貢献する、効果的なメカニズムなのである」。
 おそらく〈帝国〉の「道徳的・規範的・制度的な秩序の構築に貢献」する「軍事的介入」という特徴づけは、「湾岸危機――湾岸戦争」の中から描き出された父ブッシュの「新世界秩序」、あるいはクリントン政権時代の「人道的介入」のイメージに相応したものであろう。
 今日のブッシュの「テロリスト」=犯罪者に対する「先制攻撃」としてのイラク戦争は、ブッシュ自身の思い込みの中では「警察的行動」であったのかもしれない。しかしそれは〈帝国〉の「道徳的・規範的・制度的な秩序の構築」に資するものではなく、アメリカという唯一「中枢」の「帝国主義国家」による文字通りの侵略戦争として、グローバル資本主義の矛盾を暴力的に露呈させる行為であった。それは著者たちの言う〈帝国〉の「道徳的・規範的・制度的な秩序」の根底を破壊し、混乱させる「バーバリズム」(文明破壊)そのものにほかならなかったのである。
 『季刊ピープルズプラン』22号の中で、本書の訳者の一人である酒井隆史氏は、著者の一人マイケル・ハートが昨年三月に英紙「ガーディアン」に投稿した文章を紹介している。同投稿の趣旨は「今のアメリカの行動は帝国ではなく……旧来型の帝国主義」であること、「ブッシュのアメリカ」は「グローバルな総資本の利害」を代表していないので、ちゃんとした〈帝国〉に戻るようエリートたちに呼びかけるものとなっている。つまり『〈帝国〉』の分析では、今日のブッシュの戦争を理解できないことを自ら明らかにするものとなっている、ということである。
 ここでは、グローバル資本主義の新しい支配形態に対する著者たちの「単純明解」かつ「楽観主義」的な分析の論理の欠陥が如実に露呈してしまった、というべきだろう。

第四インター14回大会との対比


 著者たちは、グローバルな〈帝国〉支配に対するオルタナティブは、ただグローバルな形でしか構想することはできず、「国民国家」的なレベルでの「主権」をふりかざした抵抗の無効性を強調し、もっぱら「マルチチュード」のグローバルな自己形成に対抗〈帝国〉の可能性を見いだした。
 他方、本稿の最初に紹介した一九九五年の第四インターナショナル第14回大会の報告「新しい世界情勢が提起する挑戦課題」は、「獲得すべき権力はどこにあるか」という根本的問いを提出した上で、次のように述べている。
 「この報告は、国民国家を過去の遺物にしてしまい、国民的レベルにおける闘争を不毛にしてしまうような超帝国主義という考えを明確にしりぞけている。そのような考えは大衆の側からのグローバリゼーション(あるいは国際主義の再生)の待機に導き、観望、受動性、そしてネオリベラリズムの力学への順応のための口実になるだろう」「他方、現存の諸国家とそれらの権力は生産過程、通貨の流れならびに資本の運動に対する掌握力をますます失いつつある」。
 「このことが意味することは、権力のための闘争の国民的次元を、地域的・世界的次元とますます直接的に結びつけねばならないということである。この点で、いわゆる『外部的制約』のあり方は、一九七〇年代と決定的に異なっている」。
 「これ以降、過渡的アプローチは国民的枠組のもとで既存の成果を防衛する要求を少なくとも大陸規模における転換を展望する要求と直接に結びつけねばならない。そうしなければ、われわれはイニシアチブをブルジョアジーにゆだねてしまうことになる」。
 『〈帝国〉』とほぼ同時期の模索の産物である14回世界大会報告は、グローバル資本主義がもたらす世界規模での権力構造の変容を見据えながら、さまざまなレベルでの闘争を媒介にしたより慎重な接近方法を採用している。新自由主義的グローバリゼーションがもたらす「国民国家的主権」の破壊に対して、反グローバリゼーション運動の中で運動と主体の「グローバル化」を押し進めながら、「国民的主権」そのものの民衆自身による民主主義的再定義が必要である、と私は考えている。とりわけ「第三世界」においては、そのプロセスを新自由主義や民族主義的ポピュリズムに抵抗しつつどう推進していくかが、緊要の挑戦課題なのである。ブラジルのルラ政権の困難な歩みを、そのような観点から共有しなければならないだろう。
 本書の著者たちは、グローバル資本主義の〈帝国〉生成のプロセスを単線的に展望することによって、「帝国主義的バーバリズム」を内包した複合的な矛盾の展開に対応しえなかった。しかし私は、ブッシュの戦争によって本書が「時代おくれ」になったとか、「乗り越えられた」とか結論づけるべきではないと考える。グローバルな〈帝国〉の力学は、現実の資本主義の展開の中から作りだされている。それに対抗する「主体」に私たちがどのように自己形成していこうとするのか――この課題を自覚していく上で、本書の提起は私たち自身がいまくぐりぬけている時代の性格を理解するために参照されるべき価値を有しているのである。(6月23日 平井純一)


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