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「われわれは多数派である」史上最大の反戦運動の教訓(上) |
「9・11」直後から始まった闘い
イラク侵略戦争に反対する闘いは、二月十五日に世界六百カ所以上で千数百万人が参加する史上空前の反戦デモとなって巨大な高揚を実現した。ロンドンのデモには二百万人が参加した。このかつてない巨大な行動は、どのように準備され、実現したのか。以下はISG(国際主義社会主義グループ―第四インターナショナルイギリス支部)のテリー・コンウェイの総括である。文中のSWP(社会主義労働者党)はトニー・クリフ派トロツキスト。社会主義連盟は自己をトロツキストと規定する諸組織を中心とする共同戦線組織。社会主義連盟はいま、労働党と保守党の伝統的二大政党制を左から突破する大きなチャンスをむかえている。
9・11以降の世界的規模での反戦運動の力は、新自由主義的資本主義の経済的・(反)社会的政策に対する挑戦を中心軸とするグローバルな正義の運動を基礎にして構築された。英国における反グローバリゼーション運動は、特に若い人々の間に支持を発展させた。彼らは、ニューレーバーが荷車を新自由主義の馬につないだことによって、伝統的政党の間に違いを見出せなくなっていた。
ツインタワーに対する九月十一日の攻撃の直後に、ロンドンに二千人の活動家たちが集まった。この会議を招集したのは、社会主義労働者党(SWP)や社会主義連盟の広範な活動家および一般の左翼の個人であった。古参のパキスタン人活動家タリク・アリが力強い演説を行い、集会参加者の気分をとらえた。人々はすばやく行動して広範な反戦運動を開始する必要があることを理解した
このような以前から、アフガニスタンで確実に起こることはイラクでも繰り返され得るということが強く意識されていた。すべての参加者が、タリバンが世界で最も偉大な民主主義者でないのは、イラクで米国が作り出した者たちがそうでないのと同様であることを理解していた。しかし、多くの人々の意見は、タリバンの詳細な分析を行うことより戦争を防ぐことに力を入れるべきである、タリバンの分析は参加者の数を減らすだけである、というものであった。
五百人の人々が翌週の組織会議に参加した。三つの簡単な目標、すなわち、戦争の停止、人種主義的反発反対、市民的自由の防衛を掲げることを決定した。一部の人々は、たとえば帝国主義反対のような他の要求を追加したいと考えた。ほとんどの人々は、三つの要求が広範な基盤を持つ連合を構築することを可能にし、ムスリムやアジア・コミュニティや多数の労働組合主義者と左翼を統一する最善の可能性をもたらすと感じた。そしてこのことは、この最初の時期には誰も夢にも思わなかったほど達成されたのであった。
この最初の時期に、SWPとの間でもう一つの議論が進行した。9・11自体に対する彼らの最初の立場は、事件は明らかに支持すべきでないが、非難すべきでもない、というものであった。もちろん、メディア上で大量のヒステリーが流されている状況では、このことを正しく理解させることは非常に困難であった。しかし、多数の意見は、最大の支持基盤を得るには「テロ非難」の語句を使用することが重要であるというものであった。多くの討論の後、SWPは設立宣言の中にこれを入れることを受け入れた。
SWPと社会主義連盟の関係
この時点では、SWPは運動に参加している勢力の中で単独では抜群の最大勢力であった。社会主義連盟は広範であるが、真の全国的勢力としては短期間の歴史しか持っていないし、確かにSWPが持っているような物質的資源を持たなかった(いまも持っていない)。さらに重要なことは、以前の戦争や国際連帯運動でイニシアティブを発揮した二大勢力である労働党左派と共産党は、以前、たとえば湾岸戦争時に比べて、はるかに弱体化していたことである。
彼らが存在しないというわけではない。当初から多数の左派労働党員が連合の中心に存在していた。多くの地方労働党も連合を支持し、デモに彼らの旗を掲げて参加した。しかし今日、労働党左派は、ブレアのニューレーバーが右に移るとともに弱体化し、ますますほとんどの地方で現場の中心的組織勢力となることができなくなっている。日刊紙「モーニングスター」を発行している英国共産党も同様である。壁の崩壊後十年を経た今日、この組織はかっての組織の影に過ぎない。
しかし、共産党は、特に多数の重要な労働組合や核軍縮運動(CND)指導部の中に依然として影響力を持っている。CNDは過去十年間比較的不活発であったが、かなりの数を動員する力を依然として保持している。SWPはこれらのすべてを理解し、だから彼らは喜んで英国共産党員のアンドリュー・マレーを連合の議長にしたのであった。
しかし、英国の左翼の力関係は大きく変化した。そこでは共産党も、労働党左派も、両者を合わせても、十年前には自動的に運動を支配したような政治的重みを持たなくなっている。そこには大衆的開放性と行動の巨大な必要性が存在する。そして運転席に座っているのは革命的社会主義者である。
ブッシュが9・11を利用して「新しいアメリカの世紀」のためのプロジェクトを推進しようとしていることは、誰でも知っている。彼が語るテロに対する終わりなき戦争は、地球全体の進歩的勢力に対する終わりなき戦争の隠れみのである。かかっているものは巨大である。
この時点で、左翼が一緒に討論しともに活動したいという欲求が高まった。このことにとって重要だったのは、これまで統一戦線活動に本気で参加してこなかったSWPが、大きな積極的転換を行ったことである。
社会主義連盟に参加するという一九九九年の彼らの決定にこのことは示されている。これはきわめて重要であった。なぜならこのときまでに、SWPは極左派の中で、数年前にはおそらく同じぐらいの大きさだった社会党(1)をかなり引き離して、断然最大グループになっていたからである。
連合の要としてのSWPの役割の全体的なバランスシートは、圧倒的に積極的なものであったと言わなければならない。言うまでもないことであるが、他の可能性はなかったというようなものは存在しない。それは常に真理である。
社会主義連盟が反戦運動とともに構築されるかどうか、という問題が存在した。明らかに社会主義連盟の活動の主要な焦点は、左翼全体にとっては9・11以降は戦争政策に対する反対派を構築することであった。しかし、ときには反戦闘争と連盟の構築を対立させる傾向が存在した。このことは特に、後の全国的デモの中で社会主義連盟からの演説者がなかったという事実に反映している。
組織としての社会主義連盟は、連合の発展を成功に導く上で重要であった。英国の多くの場所で売店の運営、公開集会の組織化、バスの手配などで活躍したのは連盟の活動家たちであった。彼らの中には異なる帽子(特定の極左グループの帽子)をかぶっている者もいたし、そうでない者もいた。多くの地方で、社会主義連盟の演説者は労働党左派、共産党、緑の党、そしてウェールズではプライド・カムリ(ウェールズ民族党)の人々とともに困難なしに同じ壇上で演説した(一部の全国デモでは自由民主党も参加したが、ほとんどの地方で大きな役割は演じていない)。
しかし、SWPはこの議論に対して準備ができていなかった。根本的問題は、SWPが社会主義連盟を一連の「統一戦線」運動(STWや反ナチ同盟のような組織もこれに含まれる)の一つと見ていることである。彼らは社会主義連盟をニューレーバーの政治的オルタナティブとして全面的に受け入れてはいない。政治的オルタナティブとなるためには社会主義連盟はスコットランド社会党がそうであるような意味での政党への発展が必要なのである。
しかし、多くのものごとは変化し、次に討論が起こったときには文脈が変化する。社会主義連盟は初めて選挙で選ばれた地方議員を獲得した。彼は強力な反戦運動チケットを手に入れ、連合とムスリム社会から運動の力を引き出した。同時に、最近、社会主義連盟自体も左翼の広範な統一のための新しいイニシアティブを開始した。したがって、これらの成り行きを見守る必要がある。
この問題に関する困難にも関わらず、起こっていることを認識することが重要である。一般に革命的左翼、特にSWPは、帝国主義の中心的プロジェクトに反対してこれまでで最も成功した運動の中核に存在している。もちろん、運動の成功の一部は、労働組合内の力関係のような、指導部が支配できない外部的条件が有利であった結果である。しかし全体として、SWPはこの強力な運動の堂々たる指導者である。
ムスリム・コミュニティの動員
二〇〇一年秋、アフガニスタンに対する脅威が高まるにつれて、多くの活動家は再び活動を強化した。運動の再生は、十月十三日の六万人の強力なデモストレーションとなって反映した。CND(核軍縮運動)はブッシュの「スターウォーズ」計画反対のデモを呼びかけたが、このデモはさし迫るアフガニスタン侵略に反対するものとなった。
このとき以来、次々にもっと大きなデモが行われたが、当時これは巨大な数字であった。比較してみれば、スレブリニツァの大量虐殺の後のデモは五千人だったが、大きな成果と感じられた。第一次湾岸戦争中の最大のデモは一万人から一万五千人だった。そのときでさえ、何か新しいことが起こり始めていることは明らかであった。
運動の発展は、常に上向きであるわけではない。二〇〇一年十一月十八日のデモは、米軍がタリバン体制を崩壊させた後、米国と同盟国が「勝利」を確保したときに行われた。デモ参加者数は八万人から十万人の間であったが、これは困難な時期であった。
ここで初めて、アジア人コミュニティの重要な部分の動員が見られた。われわれはムスリムを含めるために意識的な努力を行った。特に、これらのイベントがラマダンの神聖な月に行われたからである。そこで、デモの到着地であるトラファルガー広場(2)の一部に祈りの場所が設けられた。初めてイマムが演壇に上がった。人々が断食を解く日暮れには日程表がまわされた。
それは英国の左翼の習慣にはまったくなかったことなので、奇妙に感じられた。他方では、急進的目的の集会に種々のキリスト教会の聖職者を含むメンバーが参加することは以前から一般的である。だから、居心地の悪さの一部は運動が依然として包括的で世俗的であることへの純粋な懸念であるが、その一部は疑いもなくイスラム恐怖症的で人種主義的なものである。ラビ(ユダヤ教)やビショップ(英国教会、カトリック)が登壇しても事実上左翼の誰も文句を言わないが、登壇したのがイマム(イスラム教)である場合は異なっていた。
だから連合は、ムスリムおよびアジア人コミュニティに向けた意識的オリエンテーションを続けるとともに、労働組合と労働党左派に向けてもオリエンテーションを行った。この統一した動員は、ジェニンにおけるイスラエルによるパレスチナ人虐殺後の二〇〇二年四月および五月に繰り返された。重要なことは、活動家たちがコミュニティの新しいセンスの成長を感じ取ったことである。連合の頂点にいた人々は、新しいレベルの理解を築くときが来たことを知った。新帝国主義などのテーマを討論するためのティーチインが組織された。 (つづく)
【注】
(1) 「労働者インターナショナルのための委員会」に所属する英国組織。いわゆる「ミリタント派」トロツキスト。
(2) ロンドン中心部の広場。
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