| 豊田直巳さん(フォトジャーナリスト)に聞く かけはし2003.6.9号より |
| アメリカの戦争はイラクの社会システム全体を破壊した |
三月二十日から全面的に開始された米英軍のイラク侵略戦争は、大規模な戦争行為としては四月九日のバグダッド占領で終了した。この過程で、数千、数万のイラク民衆が殺傷された。その後も病院や水道や電気が破壊されたことで、占領軍への抗議行動への発砲で、不発弾で、そして劣化ウラン弾で、多数の民衆が殺傷されており、今後も殺傷され続ける。戦火の中で取材した豊田直巳さんに話を聞いた。(5月9日)
――今回、イラクに入ったのはいつでしたか。
三月二十日でした。戦争が始まったら国境が閉じて入れないと思っていましたが、ビザ問題が最後までつきまとって、ヨルダンのアンマンのイラク大使館でビザは下りたのですが、その手続きの最中にブッシュの「猶予期限」の四十八時間が過ぎてしまったのです。
――それじゃ、イラクに入った時には爆撃が始まっていたわけですね。
爆撃が始まったのはイラク時間の三月二十日午前四時で、バグダッドに入ったのが同日の昼ごろでしたから、そういうことになりますね。だから車に乗っていて、空に飛行機が見えたら車を飛び下りようと思っていたわけです。でも実は、三月二十日の午前一時くらいに最初の犠牲者が出ているのです。だから「猶予期限」の四十八時間がウソだということを私自身の取材で知っています。期限の午前四時以前に空爆、あるいはミサイルの犠牲者が出ているのですから。クウェートから入った米軍の特殊部隊とかによるものではなくて1トン爆弾程度の大型爆弾ですよ。建物一つが吹っ飛んでいるんですから。爆風で飛んだ瓦礫は二百〜三百メートルの距離にわたっています。
私は、国境近くでたまたまその爆撃の瞬間に遭遇した人たちと出会っています。彼は「お前ら今から行くのか、死にたいのか」と私たちに言いました。彼らの車はフロントガラスも前部も爆風で大破していたんです。
その最初の空爆による犠牲者は、バグダッドと国境の中間にある国道沿いの郵便局兼電話局で電話をかけていたヨルダン人です。なぜそんなことが分かったかというと、その人のお兄さんが私たちのタクシーの運転手だったからです。だから年齢からヨルダン人だということまで分かったのです。その運転手は衛星携帯電話で連絡を取り合っていたので分かったようです。彼は車を運転しているうちに涙を流し、百七十キロぐらいの猛スピードで突っ走るようになったので、そんなことも分かったのです。
――四月九日に米軍がバグダッドに侵入して制圧するわけですが、その後はいつまでイラクにいましたか。
四月十九日に出国しました。戦争報道をしていた組では一番遅くまでいた方ですね。四月十一日頃から新しい報道陣がどんどん入りだして、イラクにいた人たちと交代していきましたから。私は、やっとイラクで自由に行動できると思ったから、そんなに早く帰るつもりはなかった。
――家族全員を殺され、手足をもがれた少年の悲劇などが日本でも報道されていましたが、人的被害の規模について取材した範囲での具体例があったら教えてください。
いたるところで死体が転がっているという話は、南部のドゥーラなどではあったようですが、私はそれを見ていません。しかし病院に行けば毎日、死者・負傷者がかつぎこまれて来る。サダム教育病院でも、電気や水の供給がないので死体がもたなくなって病院の敷地に積み上げて、土に埋めていく。身元不明の死体、引き取り人のいない死体もふくめて病院の中庭に埋めざるをえない。生後六カ月の赤ちゃんなどもそこに埋めている。
四月十五、六日でもクラスター爆弾で死んだ少年を取材しましたから、まだこれからも死者は増えるでしょう。戦場跡には不発弾がいくらでも転がっている。政府機能がないからだれもそれを処理しない。米軍もやらない。そういう意味では、戦争が終わったという認識は私にはありません。アメリカ軍が陥落させたというだけで、市民のレベルから言えば戦争など終わっていないんです。
戦争中はイラクの消防署員がクラスター爆弾を処理していました。しかしそういう機能がなくなっている。
――パレスチナホテルが砲撃された時は現場にいたんですか。
米軍戦車の砲撃は橋の上から行われたわけですが、私はその反対側で待ち構えているイラク軍側の取材をしていました。撃った瞬間はそこにいません。あれは間違いなくパレスチナホテルの報道陣を狙った砲撃です。それくらい近いんです。ほんとに目の前ですね。米軍は最初に発砲があったと言っていたようですが、それはウソです。戦争になれば、こんなにみんなウソをつくということがハッキリわかりますね。
――米軍が入ってきて、例の有名なフセイン像を倒した時は?
入ってきた時の米軍を撮ったのは私が最初でしょう。フセイン像を倒した時、報道陣はすべて米軍車両の上に乗って撮影していましたが、私はこんなものは撮りたくないと思って、その後ろから撮ったわけです(「週刊金曜日」5月9日号参照)。
――フセイン像を倒した「市民」は、イラク市民ではないという報道もありましたね。
インターネットでは、あれはCIAの要員だと書いてありましたが、もちろん私にはそういうことを確かめるすべはありません。しかし私が三年間ほどつきあっているイラク人の通訳は「あれは米軍が連れて来た人たちでしょう」と言っていました。
――新聞などでは米軍の占領に対する反米デモなどが報道されていますが、実際のところイラクの人びとの米軍を見る意識を、どのように感じられましたか。
私は米軍が入ってから十日間しかいなかったという限定づきですが、まずは「戸惑い」だと思います。昨日まで爆撃していた軍隊を「歓迎」するということはないでしょう。どうなるか、という不安が第一です。それと外国のジャーナリストがいる時には「反米」を主張してもかまわない、という意識でしょう。だからホテル前には「反米」を掲げた人が来れるんです。どこでもできるわけではない。町に取材に行ったときに、そこで「反米」の行動をやっているかといえば、そんなことはない。世界のジャーナリストが見ているんだぞという「安心感」がそこにはある。彼らもだんだん米軍との距離感を計っていって、やってもいいぞと思うようになっている。
米軍への人びとの最初の感情は「不安」、それから「戸惑い」になったというところでしょう。いまは、「反米」を言っても良いということで、そうする人も出てきている。もともとズタズタにされていて、失うものはプライド以外にないわけだから、今度は米軍の蹂躪を許さない、ということになるでしょう。
――この戦争でも、また大量の劣化ウラン弾が使われましたが、この問題についてはどうですか。
私はこの間、劣化ウラン弾の取材をやってきたわけで、その点では自負があります。今回も私だけがガイガーカウンターを持っていったことで、それがとても武器になりました。
強調しておきたいことは、南部のバスラと湾岸戦争の時の「戦車の墓場」には、けっこうの距離があるわけです。二十キロぐらいかな。そこで劣化ウラン弾を大量に使った。それだけ距離があってもあんなに被害が出ているわけです。
今回は本当に市内で劣化ウラン弾を使っているわけです。それをどうするのか。片づけるといってもまたほこりが舞うし、またビニールかなんかで覆ってしまうのか。そういうことをやろうとしても、アメリカの方は危険性を認めていないわけですから、危なくないと言っている人たちは邪魔するに決まってます。だから国際機関を動かすくらいの運動を作っていかないと大変なことになる。
――今回のことをもっと聞きたいんですが、豊田さんがガイガーカウンターを持って調べたのはバグダッドの市内ですか。
市内と郊外の町。私がチェックしたのは郊外の町の入り口、そしてバグダッド市内のど真ん中です。
去年の夏に横田基地に行ってA10攻撃機の写真を撮っていたんですけど、四月八日の朝にそのA10が真上に飛んで来て攻撃するのを見ました。その時、これは間違いないと思ったんです。それで射撃の四、五日後に取材に行きました。計画省の建物でした。そこで銃弾の穴を見つけました。もう一つは、マハムディーアという郊外の町で見つけた戦車に開けられた穴です。そのガイガーカウンターのデータを慶応大の藤田先生に見てもらったんですが、東京などの三百倍という数値ですね。この取材で劣化ウラン弾の放射能汚染が明らかになったことで、現地の人には感謝されたのですが。
――いわゆる「略奪」問題についてはどうだったんでしょうか。米軍は見て見ぬふりをしていたとも言われていますが。
明らかに泥棒してもいいんだ、という雰囲気は作られたでしょうね。米軍戦車の脇を泥棒がものを持って通っていくわけですから。
米兵は英語しかしゃべらない。一つ一つの部隊にアラビア語の通訳などついているわけではないから、どういうことがあったかというと、あの「ドーハの悲劇」のイラク・サッカーチームの監督の親族一行六人が米軍の射撃によって全滅するという事件が起きた。車に乗っていた一族に「止まれ、止まれ」と米兵が言ったらしいんだけれども、言われた方が分からなくてそのまま走っていこうとして撃たれたわけです。
私なども米軍に止められて、記者証を見せてどこそこに行きたいと言うと、上官のところにまで聞きに行って初めて通ることができる。「動くものはとにかく撃て、理由は後から考える」というのが兵隊の心情ですから。だから市民はいくらでも事故に会うことになります。そもそも占領軍として統治し、治安を維持しようなどいう考えは少なくとも末端の部隊にはない。
――たとえばイラク国民会議のチャラビへの評価といったものは?
そのあたりの取材はできていないのですが、チャラビとかイラク国民会議といった固有名詞についてどうかではなく、「アメリカ軍が連れて来た誰か」という評価でしょう。背後にアメリカ軍がいたら、その力そのものによって態度を決めるということにしかなりようがない。つまりアメリカの重武装があって、その横に立っている人ということでしかないでしょう。
略奪が起こった時、私の知っているイラクの人たちは「ああいうことをするのがイラク人だというイメージが広がるのが悲しい」と言っていましたし、今度の戦争で受けた最大の傷はそうしたイラク人のイメージだ、と嘆く人もいました。
――豊田さんは一カ月イラクに滞在していたわけですが、いまジャーナリストとして一番言いたいことは。
アメリカの戦争はサダム体制をこわしたのではなく、イラクそのものをこわしたというのがまず第一の感想です。イラクという一つの国家・社会システムがすべて破壊されたんですね。泥棒したって逮捕する者はいないし、火をつけたって消す者はいない。病院からどんどん資材が盗まれる。これは国宝が盗まれたなどいうこと以上に重要な意味がある。こうしたことにだれが責任を取るのだろうか。首をすげかえてすむ問題ではない。医療や教育の破壊など、取り戻すことができないことが一杯あるんです。戦後復興どころの話ではない。建物の問題ではないわけですから。
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