| 「革命政党」的要素を一掃し改良のための「国民政党」への転換めざす党史書き変え かけはし2003.6.23号より |
『日本共産党の八十年』が発行された。それは、二〇〇〇年九月に開かれた日本共産党第二十二回大会で確定された路線、すなわち「革命政党」的要素を一掃し資本主義の枠内での改良主義的「国民政党」への全面的転換をめざす路線を正当化する目的で、これまでの党史を抜本的に書き改めたものである。その意味でそれは、六月中央委で提起されるという綱領改定案と対をなすものである。共産党員からの批判を掲載する。
はじめに
二〇〇三年一月十六日、『日本共産党の八十年』(以下『八十年』)の発行が発表された。一九九四年に発行された『日本共産党の七十年』(以下『七十年』)以来、およそ十年ぶりとなる党指導部公認の「正史」である。
『八十年』は、『七十年』に比べると、およそ三分の一の分量へと大幅に短縮されている。これは、長大になりすぎた党史を思いきって短くすることで、多くの党員にとって読みやすいものにすることをねらってのことであろう。しかし、これは同時に、「資本主義の枠内での民主的改良をめざす国民政党へ」という不破路線にもとづいて、党史を根本から解釈し直し、書き直すことを可能にしてもいるのである。志位和夫委員長は、『八十年』の発表にあたって記者会見で、次のように述べている。
「『八十年』をまとめるにあたっては、この十年間でわが党が到達した新しい理論的・政治的立場をふまえ、わが党の先駆的で不屈の役割を明らかにするとともに、誤りや制約にたいしては自己分析性を発揮するという精神でのぞみました。……
党史というのは、たんに過去の問題ではありません。現在と未来に生きる糧を明らかにすることが何より大切なことです。そういう角度から、党史の全体に光をあて、今日に生かすべき問題を重点的に叙述しました」(「しんぶん赤旗」二〇〇三年一月一七日)。
この言葉のとおり、『八十年』からは、党指導部が、どのような問題を「今日に生かすべき」と考えているのかを読み取ることができるし、またそのことによって、今年十一月に開催される予定の第二十三回党大会で行われる見とおしの綱領全面改定の方向性を読み取ることもできるのである。そのような観点からすれば、この『八十年』の全体をつらぬいている特徴として、以下の二点を指摘することができるであろう。
第一は、国際主義的な側面がますます後退し、一国主義的色彩を強めていることである。
第二は、「資本主義の枠内での民主的改革」がことさらに強調され、改良主義的色彩をますます強めていることである。
本稿では、この二つの観点からとくに重要だと思われるいくつかの記述に絞って、『八十年』の基本的な性格について検討することにしたい。
1 国際革命運動の歴史からの切断
『七十年』では党創立をどのように描いていたか
『七十年』は、日本共産党の創立を、一面では、日本国内における労働者階級と人民の闘争をうけつぎ発展させたものとして描くと同時に、他面では、国際的な革命運動の一環としても描いていた。このような観点から、『七十年』では、一九一七年のロシアにおける「十月社会主義革命」の意義、コミンテルン創立の意義が詳しく記述されていたのである。
ロシア革命については、民族の独立の自由の尊重や大量殺戮兵器の禁止の提起をはじめ、八時間労働制、社会保障制度の創設、教育権の保障、男女同権の保障などの成果が列挙され、「はじめて労働者階級が主人公となった国の誕生は、世界中のしいたげられた人びとへのかぎりない激励となった」(『七十年』上、二八ページ)と、非常に高い評価を与えていた。
また、コミンテルンについても、ヨーロッパの社会民主主義諸政党の転落という事態と対比させつつ、「断固として社会主義と革命の事業をまもりぬくとともに、世界各国で共産党の創設と強化に貢献」し、「資本主義諸国における民主主義、社会主義の運動、植民地・従属国での反帝・民族解放の運動、さらに侵略とファシズムに反対し、平和と民主主義を擁護する世界の平和・民主勢力の運動で、その指導的中心としてはたした歴史的役割は、全体として大きかった」と、肯定的な評価が与えられていた。
この記述の後には、レーニンの死後、スターリンの覇権主義によって各国の運動の自主的な発展が妨げられたなど、コミンテルンの否定的側面の記述が続くが、全体的な評価については、「コミンテルンの歴史のこれらの二面性をみずに、一律に美化することも、また否定することも歴史の真実に合致しない」としていた(同、二八〜二九ページ)。
日本共産党の創立においては、このコミンテルンからの援助が決定的な意義をもっていたわけであるが、『七十年』は、このことを次のような形で記述している。
「一九二二年の一月から二月にかけて、コミンテルンのよびかけでひらかれた極東諸民族大会(極東地方共産主義的革命的諸組織大会)に、日本の共産主義者諸グループは徳田球一、高瀬清らを代表として送ったが、この大会への参加とコミンテルンや一九二一年末いらいコミンテルンで世界の共産主義運動の指導の仕事についた片山潜の援助は、日本共産党の結成を促進するうえで、重要な役割をはたした」(同、三四ページ)。
このように、『七十年』では、日本の労働者階級と人民の闘争が、ロシア革命の勝利やコミンテルンの創立などの世界的な革命運動の高揚と結びつく形で、日本共産党が創立されたことが強調されていた。『七十年』は、日本共産党創立の意義の国際的側面について次のように記述しているのである。
「日本共産党の出現によって、日本の労働者階級と人民は、日本の歴史上はじめて、世界の進歩と平和、被圧迫民族の解放、諸国の労働者階級と人民の相互連帯というまったくあたらしい国際的視野をひらくことになった」(同、三十五ページ)。
徹底した一国主義的記述へ
ところが、『八十年』においては、日本共産党創立の意義の国際的側面についての記述がほとんどなくなってしまっている。『八十年』では、ロシア革命と日本共産党の創立との関連については、次のように書かれているだけである。
「このような社会進歩をめざす運動のひろがりと、一九一七年にロシアでおきた社会主義革命の国際的な経験をへて、二一年、日本共産党準備委員会が組織され、党創立をめざす活動がはじまりました」(『八十年』十八ページ)。
また、コミンテルン創立の意義についての記述も、以下のような、これまたごくあっさりとしたものに変っている。
「コミンテルンは、各国の共産党の創立と活動を援助し、資本主義諸国だけでなく、植民地・従属諸国での民族解放運動を重視しました」(同、十九ページ)。
この後には、コミンテルンの否定的側面についての記述が続くのだが、ここで注目すべきことは、『七十年』においてはコミンテルンの誤りは基本的にレーニン死後の時期に限られていたのにたいし、『八十年』では創立当初から重大な誤りがあったことが強調されていることである。
「その活動には、『世界革命近し』という性急な情勢論、レーニンによる『議会の多数をえての革命』の道の原理的な否定、『単一の世界共産党』という組織形態にともなう各国の党と運動にたいする画一主義的な傾向をはじめ、政治上、理論上の大きな誤りも弱点も少なくありませんでした」(同、十九ページ)。
『七十年』と比べると、コミンテルンについての評価が否定的な方向に大きく傾いているのはあきらかである。『八十年』は、党創立におけるコミンテルンの役割をできるだけ小さく描こうとする。
「共産主義者のいくつかのグループは、二二年の一月から二月にかけて、革命運動の国際組織『共産主義インタナショナル』(コミンテルン)のよびかけでひらかれた極東諸民族大会に、代表をおくりました。この大会への参加と、一九二一年いらいコミンテルンで活動していた片山潜らの援助も、日本共産党の結成をうながす力となりました」(同、十八ページ)。
先に見たように、『七十年』では、極東諸民族大会への参加、コミンテルンの援助、片山潜の援助が、「日本共産党の結成を促進する重要な役割をはたした」とされていたのだが、『八十年』では、このうちコミンテルンの援助が削除され、残る二つについても、大会への参加や片山潜らの援助「も」(!)、党の結成をうながす力となった、という形で、随分と格下げされてしまっている。
日本共産党とコミンテルンとのつながりについての肯定的な評価は、「日本における民主主義革命の実現を重視したコミンテルンの前むきの援助」とか、「コミンテルンは、日本共産党の加入から『三二年テーゼ』の作成ごろまでは、……全体としては、革命運動における健全さをまだもっていました」などの控えめな記述にとどまり、コミンテルンとのつながりそのものについては、「生まれたばかりの日本共産党は、今日のような自主的な立場を自覚的にもつにはいたっていませんでした」と、現在の「自主独立」の立場から自己批判的に総括しているのである。
このような一国主義的見地は、綱領草案や党創立直後の闘いについての記述にも現れている。一九二三年三月の臨時党大会で検討された最初の綱領草案が、朝鮮、中国、台湾からの軍隊の即時撤退、ロシア革命への干渉反対、侵略戦争反対と植民地解放を掲げたことについて、『七十年』は「日本共産党の真の国際連帯の立場を、創立の当初から明確にしたもの」(『七十年』上、三八ページ)と評価し、これらの課題での党の闘争についても同様な角度から詳しく記述していたが、『八十年』では、これが一般的な反戦平和の主張として扱われ、これらの国際的課題での闘争は全く記述されていないのである。
これ以降の時期についても同様の傾向は明らかである。『八十年』においては、各国共産党の反ファシズム闘争の意義についての記述(『七十年』上、一四二ページ)が削除されたのをはじめ、ニカラグアのサンディニスタ革命にたいして日本共産党が「ニカラグア人民への強い連帯を表明」したこと(『七十年』下、二三〇ページ)など、各国人民の闘争をめぐる一連の記述がなくなっている。
このように、日本共産党指導部は『八十年』において、党の歴史から国際連帯の側面を消し去ろうとしているのである。この背景には、ロシア革命やコミンテルンを過小にあるいは否定的に評価し、こうした国際的な革命運動の歴史から自らをできるだけ切り離そうとする傾向がある。
先に見たコミンテルンについての記述からもあきらかなように、このような傾向を支える「理論」的根拠は、『レーニンと「資本論」』を始めとする不破哲三議長のここ数年来の「研究」にある。不破の「研究」そのものについては改めて批判的検討が必要であるが、一般的に言えば、コミンテルンには成立当初から多くの誤りがあったであろうこと、それらについての真摯な検討が必要なことは当然である。しかし、決定的に重要なのは、どのような立場からその作業を行うかということである。不破らは、真に国際主義的な革命運動の再生をめざす立場からではなく、自らの一国主義路線を正当化する立場からそれを行おうとしているわけである。
それでは、ここで正当化されている一国主義路線とは、一体いかなるシロモノなのであろうか? それは、労働者の権利を奪いその闘いを弾圧するような周辺の反動的諸政権とも仲良くし、また、アメリカ帝国主義ともできるだけ衝突しないようにして、「独立・民主の日本」「社会主義日本」「共産主義日本」の建設のための安定的な国際環境を確保しようというものにほかならない。
そのためには、「野党外交」なるものによって、開発独裁国家や反共独裁国家で抑圧されている民衆の側ではなく、「政権側に新しい友人ができる」ことを喜び(二〇〇三年二月八日の不破哲三議長の日本武道館での講演など)、「アメリカ帝国主義といわれる勢力、この勢力を打倒する必要があるとすれば、それをやるのは、アメリカ国民の仕事であって、日本の国民や日本の革新勢力の仕事ではないのです」とか「帝国主義といわれる実態がアメリカに存在していても、国際政治のうえでの問題として、それへの対応は問題になりますが、アメリカとの友好関係をもとめる独立・民主の日本の立場が、それによって影響されることはありません」(不破哲三『日本共産党綱領を読む』一〇四〜一〇五ページ)などと主張してはばからないような、実に醜悪きわまりないシロモノなのである。
(つづく)
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