新聞・雑誌などのメディアと作家、ジャーナリスト、そして市民らのねばり強い反対運動によって、一度は廃案になった「個人情報保護法案」が、「修正案」として再び国会に上程された。
「メディア規制法案」と呼ばれたこの法案は、「個人情報の保護・人権擁護」の美名のもとに、国家がメディアの反政府的報道を監視し、「事業者」と判断されたすべての国民に、法の網をかぶせてその思想信条を取り締まるという、治安維持法そのものである。それは戦争国家体制へと国民を動員する「有事法制」とセットで登場した、恐るべき言論封殺法である。だからこそ「言論・表現の自由」に関わるあらゆる団体や個人が、全国津々浦々からこぞって反対の声をあげ、行動にたちあがったのである。(個人情報保護法案の適用例など詳細は本紙01年9月17日号、02年5月20日号をそれぞれ参照)。
今回の「政府修正案」のポイントを簡単に確認する。まず、旧案から「基本五原則」を削除して、新たに「基本理念」なるものを追加した。さらに、違反したら罰則を受ける「義務規定」の適用除外対象に、「報道を業として行う個人を含む」「著述を業として行う者」を加えた。そして、戦後立法では初めて「報道とは何か」を明文定義した。
新旧法案の重要な問題点の一つは、「個人情報取扱事業者」の規定である。法の適用を受け、罰則が課せられる「事業者」の定義が極めて曖昧であり、「だれが事業者か」の判断はすべて、法を運用するものの「主観」に任される。すなわち、十万人の名簿を持つ民間業者も、五千人のメーリングリストを持つ市民グループも個人も、その利用内容が「事業」と判断され、「不適切な情報の取得をした」と判断されれば、「六カ月以下の懲役または罰金三十万円以下」等の刑罰を受けることになるのだ。
政・官・財が鳴り物入りで推し進める「IT社会」化は、一方で人々にも多量のデータ蓄積をもたらした。ネット社会においては、一個人が百人から数千人分の他者のデータを保有することは決してめずらしいことではない。カーナビなどは今や、電話番号を入力すれば、瞬時に個人の住所と順路が表示される。法案が通れば、こうした機器を所有するだけでも「事業者」と判断され、規制と処分の対象になるのである。
人気のあるHPへ大量のアクセスがあり、そこで「反戦運動への参加」が呼びかけられ、メールマガジンでも配信されれば、これはもう立派な「事業者」として政府の監視の対象になる。落選した反戦人権派議員が、次期立候補に向けて支持者名簿を保持し利用すれば、現職与党議員から告発され、違法行為として処分を受ける。企業の内部告発を準備しても、それすら「個人情報の流用」になりかねない。とんでもない法律である。
政府は四月十五日に開かれた衆院個人情報保護特別委員会で、「携帯電話のナビシステムの反復、継続的利用者も適用対象になり得る」(4月16日・東京新聞)などと答弁し、両者とも営利・非営利を問わず、規制データ量は「五千件」との数値基準を示した。さらに、CDなどで自分がデータを「所有」していなくても、多量のデータベースへのアクセスが可能であり、かつ複数アクセスの合計データ件数が五千件以上になれば、法の適用対象になる、と明言したのである。
新案の「義務規定適用除外」の基準となる「報道の定義」も、前代未聞である。 いわく「不特定かつ多数の者に対して客観的事実を事実として知らせること(これに基づいて意見又は見解を述べることを含む)」〈五十条二項〉。いまさら「当たり前」のようなこの奇妙な定義、いったい何を意味しているのだろうか。これは、適用除外たる「報道」の範囲を著しく狭め、かつ報道内容を極端に制限する、恐るべき文言なのだ。
「不特定かつ多数の者に対して」知らせることができるのは、どういうメディアだろうか。いうまでもない。巨大な商業組織たる新聞社・通信社・放送局である。中小のプレスや任意団体やNGOでは「不特定」を対象にした「報道」はできても、「多数」を対象にできるかどうかはわからない。どれだけが「不特定」で「多数」なのか。これを判断するのは主務大臣である。大臣が「多数にあたらない」と判断すれば、義務規定の適用を受けてしまうのである。すなわち最初から巨大メディアとそれに属する者だけに「報道の特権」を与えているのである。
さらに条文には「客観的事実を事実として知らせる」とある。「客観的事実」とは何か。内閣や政府関係者らが記者会見で公式に発表したもの、すでに広く知れ渡っている事柄、交通事故や火事やなどの一般ニュース程度の「事実」をさしている。
かたや、ねばり強い取材でコツコツと証拠を集め、それから類推される事柄―たとえば、「○○議員には、公共事業の発注をめぐる収賄の疑惑が云々」は、法案に照らせば「客観的事実」ではあり得ない。
権力者が、自分に都合の悪い「情報」のすべてを「個人情報」だと決めつけ、食い下がる取材者をどう喝し、「個人情報の公開」を求めて告発し、主務大臣が「それは『報道』ではない」と一蹴すれば、取材はそれで終わりである。靴をすり減らして集め歩いた疑惑の「個人情報」は、闇から闇へと葬られるのである。取材者は、こうした不当な弾圧に屈せず告発を続けるだろうか。カネのかかる裁判を抱えながら、地下にうごめく魑魅魍魎(ちみもうりょう)を追うよりも、それを断念し、別のネタ―娯楽・グルメ・風俗―で紙面を飾るほうが、より部数は伸びる。商業紙の宿命である。メディアの骨抜き―官報化がさらに進行する。
適用除外の対象である「報道機関の範囲」も、実に巧妙に仕組まれている。前回の法案では、大新聞は「義務規定」の「適用除外」になっているが、出版社および、作家、評論家、各種ライターは「除外」されていなかった。今回の修正案では、除外対象を「放送機関、新聞社、通信社、その他の報道機関(報道を業として行う個人も含む)」とし、さらに「著述を業として行う者」も加えた。まるで、前案の「不公平さ」を考慮し、作家やフリーのジャーナリストらの活動の自由を保証したかのようだ。しかし「出版社」や「雑誌」はそこには含まれていない。ここに、今回の修正案の悪質さがある。
そもそも、作家やジャーナリストの取材の自由が保証され、優れた作品や記事が書かれたとしても、それを発表するメディア=出版物がなければ何の意味もないし、何の力にもならない。出版の自由や販売の自由も同様に保証されてこそ、作家やジャーナリストは「仕事」ができるのであり、それが「言論・表現の自由」と呼ぶべきものなのだ。
政治家や高級官僚の利権に絡む裏金の存在、暴力ざた、あるいは愛人問題など、隠されたスキャンダルの数々をセンセーショナルに暴いてきたのは、大新聞ではなく日刊紙・週刊誌などの雑誌メディアであった。その記事は世論を形作り、対象者の去就をも左右した。「ロッキード事件」、「リクルート事件」、「ミドリ十字汚染血液製剤事件」や「雪印牛肉偽装事件」等々は、掲載された一本のスクープ記事がきっかけで、巨悪の犯罪の数々が明らかになった代表的な例である。ジャーナリズムの根幹をなす「不正告発」という理念において雑誌メディアは、権力監視装置として機能し、彼らの言動を抑制し、一定の内部浄化作用を促してきた。これは公正な民主主義的社会の発展に欠くことができない。
大新聞やテレビ局にもこうした功績はあった。だがスポンサーがつかないなど限界もあり、せいぜい「特ダネ」の後追い記事で紙面を埋めるか、あるいはまったく無視するかのどちらかであった。
今回の修正案は、政府に都合のいい記事を書く大新聞・放送局と、危険を冒しながらも執拗にスキャンダルを追いかける雑誌メディアとの分断をねらい、最終的には雑誌をつぶし、大新聞を政府の広報紙化することにあるのだ。
こうした策動に「日本雑誌協会」は「緊急アピール」を発し、新聞や雑誌に意見広告を掲載して、本法案の政治的意図を暴露した。昨年も同様に、新聞や雑誌がこぞって法案のデタラメぶりと、その恐ろしさを大きく取り上げて批判し、世論に訴えた。しかし今回の修正案では、大新聞はほとんど沈黙を守っている。これは彼らが今回も特権的に庇護されたこと、すなわち権力者の懐柔に乗じたからに他ならない。除外された出版社・雑誌社は孤軍奮闘して、法案の悪質さを暴露し、廃案を訴えている。
本案に見え隠れするものは、その美辞麗句・大義名分に反して倒錯した、政治的階級的意図である。ろくな審議をせず、与党単独でもなんとか今月中に強行成立させようとする焦りがあるからこそ、その矛盾も次々と露呈している。「事業(者)」は何か。「著述業」とはどういう人をさすのか。専門家なのか、他の「副業」も含めるのか。他の法令との関係、なぜ「個別法」で規制しないのかなど、数え上げればきりがない。人々の関心がイラク侵略戦争と地方選と、ヤンキース・松井の活躍に集中しているこの時期をねらったやり方を絶対に許すわけにはいかない。
法案の本質は、政治家・官僚・国家目的に合致する情報、研究分野・団体などは「適用除外」して保護し、管理監視すべき危険な対象はすべて、「包括法」で網をかぶせて取り締まる、治安維持法であるということだ。そして事案が適法か違法かの最終判断は、監督機関および担当大臣の胸先三寸で決めるのである。
例えば、民間への規制に介入する権限は、企業・団体の監督官庁・大臣に与えられているが、「自動車教習所や警備会社は『公安委員会』が主務大臣となる」(4月17日・東京新聞)。公安委すなわち警察である。教習所や警備会社の所有する個人データは、事あれば即、警察の管理下に置かれるということなのである。
先の大戦で大新聞各紙は、彼らの生き残りのために、政府と軍に都合のいい情報のみを競い合ってタレ流した。彼らの虚偽報道は、国民を無謀な侵略―殺戮と、天皇制ファシズムに総動員していった。
イラク侵略戦争の報道もまた、当時を彷彿させるのに十分である。NHKは連日連夜、米英軍によるイラク空爆の光跡、空母から発進するハイテク戦闘機の轟音、砂漠を走る戦車の砂塵を、繰り返し繰り返しタレ流し続け、「正義と悪」「追うものと追われるもの」という二者択一の構図を視聴者に吹き込んだ。
現地に赴いたフォトジャーナリストの広河隆一氏は、帰国後の報告会で以下の事実を明らかにした(本紙4月21日号参照)。
日本の大手メディアは、安全な米軍従軍記事とスタジオでの戦果分析に明け暮れ、危険な地域に踏み込んだ犠牲者の取材を一切しなかった。犠牲者たちのあまりにも酷い、真実の姿を伝えたのは、ほとんどフリーランスだった。
彼らのなかには、今回「適用除外」された雑誌メディアと契約関係にあるフリーも数多く含まれている。戦争全体の情報量からすると、犠牲者たちの映像は、極めて限られたものではある。しかし、危険をも顧みない人々の命がけの仕事によって、米英の「ハイテク無血戦争」の欺瞞性が、帝国主義者の残虐性・野蛮性が満天下に明らかになるであろう。これこそが本来、報道に携わる者の、ジャーナリズムのあるべき姿ではないだろうか。
出版メディアの「過激」な「スキャンダル暴露」は今、自由に衆目にさらされている。だがそれで権力が打撃を受け、機構の一角に「穴」が開いたとしても、その穴をさらにこじ開け、彼らの足元を揺さぶり、政権交代に行き着くような大衆的エネルギーが、自然発生的に醸成されるわけではけっしてない。それどころかメディアを利用した差別排外主義や、「テロとの闘い」を口実にしたグローバル戦争への世論形成・精神的動員が強まっている。
言論・表現の自由がはく奪され、国民の「知る権利」が奪われようとしている。ジャーナリズムが危機に瀕している。ありとあらゆる反体制的言動、市民運動を取り締まり、抹殺し、戦争への道をひた走る暗黒の時代が、再び目前に迫っている。「個人情報保護」の美名の陰で牙をむく小泉政権の危険な策動をいまこそ暴き、廃案への闘いに全力をつくしていこう。(4月20日、佐藤 隆) |