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イスラエル新連立政権                かけはし2003.4.14号より

シャロンはパレスチナ人の追放に向かうのか

ローランド・ランス


 一月二十八日投票のイスラエル国会総選挙で、シャロン現首相の率いるシオニスト右派リクードが二十一議席から三十八議席へと大幅に議席を増やし、二十五議席から十九議席へと議席を減らした労働党をしのぐ第一党となった(議席総数は百二十)。その結果、ユダヤ教超正統派などをふくむ右派が約七十議席と圧倒的多数を占めることになった。この選挙結果は、イラクへのアメリカの戦争がもたらすイスラエルの「安全保障」への危機感、さらにハマスなどによる「自爆テロ」戦術がもたらすイスラエル世論のいっそうの右傾化などが背景にある。労働党は、「イスラエル国家」の「安全保障」問題についてシャロン与党と共通の枠組みの中にあり、そのことが「戦争」への危機感の拡大の中で、自治区の解体、パレスチナ人追放を武力で押し進めるシャロンの強硬路線への支持を強める結果になっているのである。


 アリエル・シャロンは数週間にわたる駆け引きの後に、宗教的入植者や、パレスチナ人強制追放の支持者を代表する諸政党をふくむ新しい連立政権をついに成立させた。アムラム・ミツナの労働党は新政権への入閣を拒否したが、イスラエルの消息筋は、新しい戦争が引き起こす危機の中で、労働党が「挙国一致政権」の呼びかけを拒否することは難しいと確信している。
 今回の選挙結果は、西側の用語で言ういかなる真の左翼的オルタナティブも存在しないことを再び確証した。前政権の分解の理由は経済政策だったが、それは今回の選挙ではほとんど何の役割も果たさなかった。
 シャロンのリクードとミツナの労働党の違いは、なんらかの大きなイデオロギー的分岐ではなく、パレスチナ人の願い――それが制限された自治であったとしても――を打ち砕くための戦略が主要なものであった。そして、ミツナがシャロンとの連立交渉に入らないという度重なる約束を即座に破ったことに驚いたのは、救いようのないほどだまされやすいリベラル派だけだった。
 労働党とならぶ最大の敗者は左翼とされているメレツだった。メレツは、実際には西側のリベラル派ブルジョアジーを代表している。労働党とメレツは「アラファトは、キャンプデービッドでのバラクの寛大な提案を拒否した」とつねに繰り返してきた。この神話は、「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」でのフセイン・アガとロバート・マレーの著名な論文によって徹底的に信用を失ってきた。
 有権者が、一方で対話を呼びかけながらイスラエルにとっては話すべき相手などないという態度を取り続けている政党を、嘘つきか無能かであると判断し、こうした「左翼」政党を拒否したのは論理的に当然なことであった。
 メレツに投ぜられてきた票の多くは、今回の選挙での驚くべき勝者で「中道派」とされているシヌイ党に移動した。イスラエルの消息筋から偏狭派の党という適切な評価を受けているシヌイ党は、影響力を増しているユダヤ教聖職者の干渉と多数派東方系ユダヤ人の双方に対する欧州系ユダヤ人中産階級の反感を反映している。
 シヌイ党は治安問題に焦点を当てていないとはいえ、占領地域での弾圧の継続を支持しており、新自由主義経済政策、ならびにイスラエルを資本主義的グローバリゼーションのプロセスにもっと全面的に統合することを支持している。シヌイ党は当初、宗教政党への確固たる抵抗を約束していたにもかかわらず、今や民族的宗教政党と並んで連立政権に入る交渉を行っている。
 真の左翼の側の最も重要な勢力は、共産党が主導するハダシュ・ブロックであり、彼らは一貫した反占領活動に加えて、クネセット(イスラエル国会)の中で進歩的社会立法を導入するための賞賛に値する実績を持っていた。しかしハダシュは徐々に後退を続け、一議席を失った。一九四八年にイスラエルが建国されて以来初めて、クネセットの中にユダヤ人共産党員が一人もいなくなった。
 多くのパレスチナ人有権者がハダシュから離れたのは、「二つの国家、二つの民族」という要求に表現された、一九四八年のパレスチナ分割を承認するハダシュの立場を、パレスチナ人たちがますます拒否するようになっているためだと思われる。パレスチナ人の棄権率は三六%に達した。それは彼らのシオニスト国家機構への拒否の増大を示している。
 他のパレスチナ人たちは、前共産党員のアズミ・ビシャラが指導するバラド党支持に移行した。アズミ・ビシャラは、長きにわたってイスラエルを「ユダヤ人の国家」から「市民の国家」に変革することを求めてきた。
 バラド党は、一議席から三議席に増加した。増えた議員の中にはジャマル・ザハルカが含まれている。彼は革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル・イスラエル支部)のミシェル・ワルシャウスキーを共産党のエルサレム青年支部に招き、「レオン・トロツキーの遺産」について講演させたことにより、共産党を除名されたのである。
 全体としてアラブ人諸政党は二議席を失い、主要政党のリストに入っていた三人のアラブ人も議席を失った。イスラエルの人口の二〇%を占めるパレスチナ人は、今やクネセットの百二十議席のうち十議席を持っているだけである。
 現在の真の懸念は、ウルトラ民族主義的「挙国一致」と入植者の民族主義的宗教政党が政権に入る中で、シャロンがイラク戦争の機会をつかんで、彼が長期にわたって抱いていた、パレスチナ人の大量追放と、ヨルダンを「パレスチナ国家」に変えるというプランを実行に移すことである。
 イスラエルにおける反対勢力は、以前よりもさらに極端主義となったクネセットの中ではなく、ますます街頭で表現されるようになるだろう。
(英「ソーシャリスト・レジスタンス」03年3月号)                



インドネシア
31のNGOと民主人民党(PRD)が反テロ法への抵抗で合意


 三十一の非政府組織(NGO)と一つの政党は、国軍(TNI)がインドネシアの政治的・文民的な対抗構図の中に参入することに対して公然たる抵抗を行うことに同意した。国会議員が反テロ条例への改正案を可決し、情報機関と国軍に関する法案にゴーサインを出したため、もはや信頼に値しえなくなったことから、この抵抗運動が必要になったのである。
 「われわれは、すべての民主主義を支持する勢力、社会的勢力が街頭に出て、三月二十日の大行動を行うよう呼びかける。この行動は、市民社会に明確な脅威となる反テロ・情報機関・国軍に関する法律を拒否するとともに、現にある人権侵害事件の解決を求めるものだ」。「行方不明の人びとや暴力の犠牲者についての委員会」(コントラス)のオリ・ラフマンはこのように述べた。コントラスは「反軍事主義民衆フォーラム」に参加したNGOの一つである。
 コントラスとともに、インドネシア人権ウオッチ、インドネシア大学学生行動戦線、インドネシア・カソリック学生運動、イスラム学生協会、独立ジャーナリスト連盟、アチェ住民投票情報センター、民主主義のための全国学生同盟などがこのフォーラムのメンバーとなっている。この連合に参加した政党はPRD(民主人民党)である。
 PRDのユスフ・ラカセンは次のように述べた。
 「国会があっという間に法律にすることに同意した反テロ条例を見れば、われわれは議会外で闘わなければならない。国会は来る二〇〇四年の総選挙では、民衆の側ではなく国軍の側についている」。
 コントラスのオリ・ラフマンは、議会に全く失望したと語った。「以前に会ったことのある国会内の多くの大会派は、反テロ法案が法律の形を取る前に、それを受け入れることはないと述べていた。しかし後になってそれに同意したのは、まったくの後退だ」。
 さらにオリは、国軍司令官のエンドリアトノ・スタルトの声明は一貫したものではない、と見なしている。例えばエンドリアトノは国会で「国軍を政治に引き入れるな」と明確に述べていた。しかし後になってから、大統領の承認以前に非常事態を宣言する権限を国軍司令官に与える国軍法案十九条が登場した。国軍が政治の場に舞い戻ろうとしているのは明らかだ。
 国家情報部が尋問の目的で人びとを拘束するという情報部法案のねらいは、絶対に受け入れることの出来ない致命的な誤りだ、とオリは述べた。「情報部に容疑者を拘束する権限を与えてはならない。彼らは法律的機関ではない」。
 アル・アラフも述べている。「国会は国軍が政治的・文民的機関に参入する機会を、どのような状況でも保障すべきではない。国会がそれを認めれば、わが国の民主主義の後退が起こったことを意味する」。(「コンパス」紙03年3月18日)

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