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韓国はいま                     かけはし2003.3.3号より

巨額差し押さえと解雇に屈せず闘う電力民営化反対スト指導者

「困難な時ほど基本に立ち返るべき」


仮差し押さえ総額百二億ウォン余!

 私は、わが耳を疑いながら、もう一度聞いてみた。「仮差し押さえされた金額はいくらですって?」。チョン・スンウク氏(40)は笑いながら答える。
 「102億ウォンです。最初は14億ウォン、次が25億8千万ウォン、3回目が62億4100万ウォンだったから……」。私は、すぐに電卓をたたいてみた。正確には102億2100万だ。チョン・スンウク氏は、そのカネを払うために今後、残る人生をすべて捧げなければならないのかも知れない。

高校一年生で経験した光州蜂起

 全羅南道黒山島で生まれ育ったチョン・スンウク氏が「木浦」に遊学し、高校を卒業して除隊した後、「韓電(韓国電力)」に入社したのは87年12月だった。黒山島内燃発電所で家一軒ほどの大きなエンジンにはしごで登り降りし始めてから3年目で騒音性難聴にかかった、との診断を受けた。
 「会社では、『もともと耳に疾病があった』との覚書を書け、と要求したんです。そうすれば職業病ではなくなるので私を作業転換させなければならない義務がなくなるのです。覚書を書けば故郷である黒山島で引き続き働きかけるようにしてやる、と」。覚書を拒否したチョン・スンウフ氏は91年に麗水火力発電所に作業転換措置をされ、労働組合への関心が序々に高まり始めたころ、「国会前で割腹した電力労組の人物」イ・ジュンサン氏が麗水火力発電所を訪れ、2人は意気投合した。
 「父は一言でいえばタルカッパリ(履物がなくて晴れた日も二枚歯の木履を履いているとの意、転じて貧しい儒生を指す)でした。30余年の公職生活の間、清廉潔白を絵に描いたような生き方でした。秋夕、正月などの名節に村人らが家に魚の1匹も下げてくると、持ってきた人が恥じいるほどに「どうして、そのようなものを持ってきたのか、持ち帰って家族で食べよ」と激しく怒ったものです。
 小黒山島出張所に行って10年余りを経て戻るとき、島の人々が集め持ってきた餞別も全部返し、名簿だけ受け取って『これさえあれば良い』と語っていた姿が思い出されます。日本に密航して遊学までしたということだったが……」。
 ラジオ・ドラマ「光復20年」を父とともに聞いて育ったチョン・スンウク氏は小学校時代に維新憲法を学んでいたとき、先生が「国会議員の3分の1を大統領が選んでいるのに、これがどうして民主主義なのか」となじっていた。弱い者には手を貸し、強い者には強くあたらなければならないという考えが子どものときからあって、理不尽な先輩たちには断じて屈したことのない彼を、友人らは勉強でもスポーツでも、そして何事においてもしっかりやる「闘士」というニックネームを付けて呼んだ。
 木浦で高校1年のとき、光州民衆抗争が起こった。「その日は5月20日だったか21日だったか……釈迦の誕生日で学校は休みで市内に出て行ったが、光州からデモ隊の車両がやってきたんです。ところで、いま考えてもとても異常です。私は、その車を見るやいなや友達らに「君らは行け。僕は、あの車に乗らなくちゃならない」と言って、そのバスに乗り込んでしまったのです。その何台もの車両が店の前に停まると、山のようにパンが飛んできて……。タバコ屋の前で停まればタバコが箱ごと差し入れられ……。市民らがそうやって応援していたんです。『光州の人々が死んでいっているので救いに行かなければならない』8トントラックに分乗して光州に入ったが阻まれて帰ってきました。そのとき、われわれの前にいた車両は入っていったのに……。生と死が、そこで分れたのです」。

電力労組キム・シジャ氏焼身の衝撃

 96年1月12日、電力労働組合ハニル病院支部委員長だった看護士キム・シジャ氏が慶州・教育文化会館で開かれた韓国電力労働組合中央委員会の会議場で抗議焼身自殺をするという事件が発生する。
 その会議でキム・シジャ、オ・ギョンホの2人に対する懲戒が決議される予定だったが、執行部が仕組んだシナリオ通り懲戒がなされる直前、キム・シジャ氏は弁論を通じて「懲戒は不当だ。われわれが去った後も後輩たちに永遠に残る電力労組の歴史に、もう一つの汚点として記憶されたいのか」などの言葉を残したまま、静かに外に出ていった。そして、しばし後に全身にガソリンを注いで火ダルマとなって会議場内に飛び込んできた。
 キム・シジャ氏は焼身後、同僚の懐に抱かれて「こうするほかなかった。電力労組が1日も早く変わることを願う。良心にしたがって生きている組合員は行動で示してほしい。整理する時間が余りにも短かった。労組は、どんなに法的かつ常識的な話をしても通じなかった。家族、特にオモニ(母)に私の姿を見せたくない。家族には、すまないと言うばかりだ」との言葉を残して亡くなった。
 チョン・スンウク氏はキム・シジャ烈士の話をしてる間、まるでえりを正すかのように姿勢を正していた。「言いようのないほどの衝撃でした。電力労組で、このようなことが起きるだなんて……。『良心にしたがって行動せよ』というキム・シジャ烈士の言葉が本当に、あいくちとなって私の胸に差し込まれたんですね。キム・シジャ烈士がいなかったなら今日の発電労組はなかったことでしょう」。
 しばし、うなだれた後、空を見つめるチョン・スンウク氏の姿を見て、私もまた例えようのない怒りがこみあげる。昨年秋、茂朱のある研修センターでも私は全く同じ彼の姿を見た。講堂の最前列に座っていた彼が講義を聞いていて、しばしうなだれたと思ったら、すぐに見上げたが、いつの間にか彼の目には涙があふれんばかりだった。
 その日の講義内容は特別のものではなかった。ただ、ストを空しく中止した後、解雇され仮差し押さえされても、1カ月に3、4日ぐらいしか家に帰れないまま一生懸命に駆け回る活動家たちの心のうちは、それぐらいに尋常ではなかったのだ。だれが、あえて斗山重工業のペ・ダルホ烈士の死を嘲笑できるだろうか……。
 昨年2月、ストの際チョン・ウンウク氏は発電労組南東本部の組織争議局長として組合員らを率いた。ストが始まるやいなや早々と手配されることとなったが、全国に散らばって「散開スト」を展開する組合員らを手まめに会って回った。
 「全国を回って3月10日、太田の市外バスターミナルで捕まりました。あとせめて10日、捕まるのが遅れれば良かったものを。そのときは霊興、分塘が揺れていた時期で、その地域に1回でも行ってみなければならなかったのだが……。警察の留置場に捕らわれていたとき、会社の総務部長がやってきました。『こんな役回りは嫌なんだが……』と言いながら解雇通知書を渡すのです。ハ、ハ、ハ! 誕生日も刑務所で迎えました。ストが進行中のときは気持ちも落ちついていたのに、組合員らがあのように空しくストを終えて復帰した後は実に辛かったです。ジュンサンイが刑務所に面会に来て、何も言わずに『交渉案』を面会室の窓ガラスにピタッと張って見せてくれました。私はそれを見て『いっそ委員長が職権調印しろと言え。それを合意案だなんて……』と言いました。本当に脱獄したい思いがしたねえ」。
 チョン・スンウク氏は現在、解雇された状態だ。「ストが始まるやいなや手配、解雇、財産仮差し押さえ、とあっという手配、解雇、財産仮差し押さえ、とあっという間に次々と進められました。仮差し押さえは解除という話も聞かれるけれど、まだ通告は受けていない。職員数が100余人程度しかいない麗水火力で16人もが解雇され、仮差し押さえ額もわれわれが最高水準なのです」。

解雇後も会社幹部の食卓を撤去

 復職した人々もいるけれど、チョン・スンウク氏は「改悛の情が全くない」として、いまなお復職はできていない。だが解雇・拘束・仮差し押さえのどれをもっても彼の力強い歩みを阻むことはできないように思われる。
 「会社の幹部らは食堂でもめいめいに用意されている食卓で食事をしていました。このようなことから正さなければならないと思う。そんなことはするなと言ったが、この人々は話を聞こうとしなかったのです。そこで、その食卓を取り除いてしまいました」。「解雇された後、最近になってそういうことをしたの?」。「そうです。『あなた方は食事代を余計出して食べているのか』。そう問いつめたのです。いまはみんなトレイに入れて運んで食べていますよ」。
 チョン・スンウク氏は当面、「キム・シジャ烈士追悼事業会」の活動に主力を置く計画だ。「復職していないので、やることばかりが多くなりました」という彼に最後に一言、お願いした。「混乱しているときにひと旗ねらう機会主義者は、いつでもいます。ストの後で昇進する人々は多いじゃないですか。だが困難な時であればあるほど基本に立ち返るべきです。闘ってこそ得られるのです」。彼は再び闘うために足早に代議員大会の会場へ戻って行った。(「ハンギョレ21」第445号、03年2月13日付、「ハ・チョンガンの真の労働者」欄)


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