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ヨーロッパ社会フォーラムが示したもの(上)       かけはし2003.3.3号より

巨大な新しい「ヨーロッパ社会運動」が誕生した!

フランソワ・ベルカマン

 昨年十一月に開催されたヨーロッパ社会フォーラムは、ヨーロッパにおける社会運動、政治運動の歴史を画する出来事であった。八〇年代から九〇年代半ばまでの大きな後退を経て、九五年冬のフランス公務員ゼネストや九七年六月の反失業ヨーロッパ大行進、そしてATTACをはじめとする新しい社会運動の登場と前進など、復活し始めた社会運動の力が、これまでの水準を超えてひとつに結集した運動の構造を作り出したのである。



 分析に入る前に、このイベントのスケールを認識しておくべきである。六万五千人の人々が十一月七日から九日までの三日間、「フォルテッツァ・ダ・バッソ」(いみじくも「下からの要塞」と呼ばれた)の四百カ所を超える討論会場を埋めた。
 おびただしい文書、記事、本、ビラ、パンフレット。多くの非公式の交流やネットワーク。提案、行動、キャンペーン。ヨーロッパ社会フォーラム(ESF)は楽しいお祭り、民衆の大学、憲法制定国民議会、国際的・国際主義的コミュニティ、自己を組織する新しい運動、勝利のエネルギーに満ちた目のまわるような誕生の場であった。
 デモンストレーション。それは忘れがたい力強さの表現、ユートピアの希望の発露、若者が政治を獲得したことの現れであった。数千のプラカード、横断幕、赤旗。「百万」の声が戦争反対を叫び、それ以上にもう一つの世界ともう一つのヨーロッパ、惑星全体の別の生活への欲求を叫んだ。しかし、心配がないわけではない。「もう一つの世界ともう一つのヨーロッパ」の喜ばしい展望は、準備が進んでいる戦争、経済的破局の脅威、弾圧や投獄や人殺しをいとわない支配階級の我慢ならない無責任によって影を投げかけられている。
 ESF自体について語る前に、直前の時期について見ておこう。土曜日(九日)午後のデモンストレーションまでの数週間は、「ジェノバのような」暴力的弾圧の危険がわれわれの頭上に垂れ下がっていた。ベルルスコーニ政府は、欧州連合の他の政府に対してシェンゲン協定の保留を要求してそれを獲得した。外国人がイタリア領土に入ることを禁止できるようにしたのである。
 「ESF(ヨーロッパ社会フォーラム)は『中止』されるだろう」と言われ、その後「数週間『延期』されるだろう」、「フィレンツェとは別の町に『移動』するだろう」と言われ、さらに運命の日が近づくと、ベルルスコーニ政府が指揮するオーケストラによる犯罪人扱いのキャンペーンはいっそう強まった。
 イタリアで最もまじめな新聞と称する「コリエレ・デラ・セラ」は、オリアナ・ファラッチによるヒステリックな風刺画にページを解放した。そこには「西欧文明」を苦悶させるあらゆる悪夢が配置されていた(イスラム、ブラックブロック、テロリズム、共産主義の回帰、西欧文明の歴史的都フィレンツェの略奪、……そこには「黄禍」以外のすべてがあった)。
 これは弾圧のシナリオを公然と展開する合図であった。二〇〇一年四月のナポリと二〇〇一年七月のジェノバのデモに参加した四十人の活動家に対する告訴が行われた(「破壊主義的組織の設立」に関するムッソリーニ時代の法律に基づいて)。
 この広大な大衆的運動を法律的手段や暴力で圧殺する試みは、成功しなかったと結論付けられるだろう。したがって、別の方法が採用された。運動を統合または吸収することである――社会民主主義の手先と、そして国家補助金によって。
 ESFの次の会議と、さらにその次の会議のために、教訓を引き出す必要がある。ヨーロッパ運動として存在し、結集し、デモンストレーションすることは、力のテストになるだろう。EU政府に対する社会的、政治的、市民的運動は明らかにヨーロッパ化するだろう。
 EU政府は、「欧州連合」について語るとき本当は何を考えているのかを示した。フィレンツェ会議は、疑いもなく新しいヨーロッパ社会運動の誕生を記録した。ESFは、その構成、指導部、細部、テーマ、社会的政治的複数主義において、また多様な委員会、協会、運動において、純粋にヨーロッパ的である。
 これまでの対抗サミットはすべてのEU諸国からの参加者を確かに引きつけた。しかし、イニシアティブを取り、組織化、議題、参加、発言者、運動の代表者の主要な部分を担ったのはホスト国であった。したがって、スペイン(二〇〇二年初め)の大きな成功と複数の大衆的デモンストレーション(バルセロナ、二十万人)は一国的、さらに地域的文脈の中で特徴付けられ、外国代表団は少数派であった。
 フィレンツェでの会議が「対抗サミット」ではなく、ESFの最初の会議であったことは偶然ではない。ESFの会議は、二〇〇二年三月以降の長期間の準備と系統的な作業の結果であった。準備は全ヨーロッパレベルで行われ、長年蓄積してきたノウハウと力を集めて行われた。真の「ヨーロッパ的調整」が、真価を示してきた運動や活動家を基礎にした協力のプロセスを通じて作り上げられた。
 会議がブリュッセル、ウィーン、テッサロニキ、再びブリュッセル、ローマ、バルセロナ、そしてフィレンツェで行われた。すべての関心ある人々が、インターネットを通じて経過を追い、コミュニケーションし、影響を与え、介入することができた。これと平行して、イタリアの調整グループは、政治的、組織的レベルと基盤的レベルの両方において、非の打ちどころのない作業を行った。とりわけ、決定の実施を保証するリスクに関してきちんとした系統的な意見の一致を作り出した。
 イタリアの同志たちの力がなければ、このような規模と深さ、全国的およびヨーロッパ的重要性を持ったESFは実現しなかっただろう。イタリアの同志たちの力は、この国の比類のない運動の高揚と政治的雰囲気と、それを基盤にした経験に基づいたものであった。また、イタリア以外の運動が当初から関与しなければ、それは不可能であっただろう。
 プロジェクトを「ヨーロッパ化」するには、系統的包括的な、多くの場合骨の折れるアプローチが必要であった。この努力が成果を挙げ、国際的な参加の力学が作り出された。フォーラム参加者のうちの約二万人は、イタリア以外からの参加者であった。これは予想以上である。発言者の顔ぶれを多国籍にすることは容易であるが、聴衆はそうはいかないからである。実際、討論の場(講演会、ワークショップ、など)は、「国籍的」に極めて多様であった(聴衆のイヤホンと同時通訳者のブースから見てもそれは明らかであった)。また、ヨーロッパ大陸のあらゆる言語で大量に配布された政治資料から見ても、明らかである。
 二つの弱点も明らかである。第一に、ESFは本質的に「ラテン・ヨーロッパ」の出来事であり、英国の並外れた反戦運動と他の諸国の強力な代表団の存在によってある程度補償されたものであった。その理由は地理的距離だけではない。若者と社会の急進化は、ヨーロッパでは依然として非常に不均等である。南部ヨーロッパの不安定地域でさえ、社会政治的状況と「運動」の状態は非常に不均等であり、イタリアとギリシャは最も進んでいる。
 第二に、EUの政治的綱領的位置付けに関してかなり立ち遅れがあった。グローバル化した資本主義とその制度に関連してEUに関する綱領的な「共通認識」がまだ存在していないことは、驚くべきことである。論争のスタイル、国籍とイデオロギーに関する複数主義の正当な要求に従って発言者の数が過剰になったことは、発言者間の意見の交換や会場からの発言にとっては都合が悪かった。しかし、まだ始まったばかりに過ぎない。
 すでに確立していることは、運動の最初の構造、まれな団結力、前進しようとする意志、ヨーロッパの政治情勢に影響を与える行動やキャンペーンの具体的展望である。
 強力な政治的確信が存在しなければ、世界(とヨーロッパ)におけるあらゆる政治的努力は無駄である。「ヨーロッパ人」のアイデンティティ(意識)は、偶然的かつ多くの場合逆説的な過程を通じて確かに生まれているが、もっとも有望な場合でも、それはEUとその制度や政治と手を切った下からの動員の過程を通じてであった。
 一九八〇年代および一九九〇年代の伝統的労働者運動および労働組合運動の敗北、社会および国家制度に対する二十年間におよぶ擬似全体主義的新自由主義のヘゲモニー、ヨーロッパ社会民主主義の活発な加担。これらのすべてが伝統的社会主義活動を弱めた。一世紀を超えるこの伝統とは別に、「新しい」運動は、弱いが象徴的で非常に正統的(たとえば、第三世界の債務の帳消しを要求する運動や反失業ヨーロッパ行進)であり、社会的行動と批判的思考の価値を復活させた。一方、エコロジーや第三世界援助のテーマが活動的で非利己的な若者をとらえた。
 同時に、一九九〇年代初めから小規模な動員が始まり、国際金融制度の役割に対して挑戦し始めた。巨大な労働者の動員(特に、ベルギー、スペイン、イタリア、ギリシャの大規模なゼネラルストライキ)は一般的ではなかったが、その大衆的で熱烈な性格にもかかわらず労働者運動は、社会の他の部分の推進力となり他の部分を引きつける能力を失っていった。
 一九九五年冬のフランスの大衆的ストライキは、フランスにおいては政治的転換点となったが、ヨーロッパ的には、急進的左翼の非常に政治化した非常に楽観主義的層を除いて大きな影響を与えなかった。フランスのイニシアティブによる反失業ヨーロッパ行進は、一九九七年六月にアムステルダムで行われたEUサミットに対してヨーロッパ中から人々を結集し、新しい時代の最初の真のヨーロッパ社会運動を出発させた。「新しい」社会問題がこの豊かなヨーロッパに出現した。それは最も貧しい層の生存条件に直接関連するものであった。この問題がESFにつながる大建造物の要石を据えることになった。
 しかし、それは二つの意味で依然として不十分なものであった。社会民主主義の言いなりになっている労働者運動は依然として離れており(実際、公然と敵対的であった)、エコロジー運動や第三世界運動はとりわけグローバル化した資本主義の国際機関(IMF、世界銀行、WTOのトリオ)に集中していた。ヨーロッパ「センター」は最も活動的で組織化されていたが、新しい運動が世界の想像力をとらえたのはヨーロッパの外においてであった。すなわち、シアトルの対決(一九九九年十一月)とポルトアレグレの社会フォーラム(二〇〇一年初めと二〇〇二年)であった。
 逆説的に、ヨーロッパの運動はシアトルに反応して、自らを「グローバリゼーション」の対極に位置付け、おおむねEU(その役割、政治、など)を無視した。リスボン、ニースやイエーテボリEUサミットでデモや会議が行われた場合でさえ、「グローバル」な問題に過剰に固執した。真にヨーロッパ大陸の運動を築く闘いとなったのは、G7+1の会議に対するものであった。
 二〇〇一年七月のジェノバでの(ベルルスコーニが望み、計画し、実施した)対決は、若者とそれほど若くない人々の運動の自覚を永久に記録するものとなった。まず、この二十五年間見られなかったレベルの国家の暴力によって運動を打ち破ろうとする試みが行われた。その後、政治的活動家の熱心な活動を超えて大陸的全体にモラル的勝利が広がった。それだけでなく、もう一つの決定的な覚醒が起こった。EU政府がイタリアとヨーロッパの人々の生活条件を攻撃する政策を持っていることに、人々が気付いたのである。
 超国家としてのEUの問題は、運動に転化した。こうなった理由は第一に、イタリアでは、特にこの当時、「諸運動の運動」と伝統的労働者運動の間のダイナミックな対話が存在しており、伝統的労働者運動が社会的運動への参加に向かって引き込まれていたことである。第二に、新しい社会運動と古典的労働組合運動が、EUに対するデモンストレーションに向かって押しやられていたことである。二〇〇一年十二月にブリュッセルでは二万人が街頭デモに参加したが、ETUCはその前日に六万人を動員していた。
 「いまは戦時だ、西欧が『野蛮』の脅威を受けているときに、デモをしたり要求を掲げたりするな」というメディアのスチームローラーにも関わらず、九月十一日以後も運動は生き残った。スペインでは、二〇〇二年春に、一連の印象的な大衆的デモが展開された。すべて暴力的弾圧の脅威の下で行われたデモであった。しかし、何も起こらなかった。バルセロナでは、われわれの力は二十万人に達した。そして運動の突進は間違っていなかった。二十四時間のゼネラルストライキが成功し、それを呼びかけたのがスペイン労働組合運動だったからである。
 ヨーロッパの反グローバリゼーション運動を自国の社会的闘争やEUに対する闘いに転化する方法とその理由を教えたのは、わが支配階級と新自由主義および社会自由主義諸政党である。運動にとって具体的なヨーロッパ人としてのアイデンティティは、存在し生き残るための一連の闘いを通じて鍛えられたのである。二〇〇二年一月のポルトアレグレにおける世界社会フォーラム(WSF)による「地域」フォームを組織するという決定はタイムリーであった。(つづく)(「IV」誌02年12月号)

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