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韓国はいま                     かけはし2003.3.10号より

金大中前大統領と現代商船の対北巨額送金事件をめぐって

「超法規的統治行為論」で正当化できるのか


 私は「政争」という言葉を好まない。政治の世界には常に闘いがあるのは当然だが、あえて政争という言葉で闘いを非難する思考方式に拒否感を持っているからだ。人それぞれに考えが異なり、立場が違い、利害関係が違うのだから闘いは政治の出発点だ。
 もちろん政治の世界には闘いとともに合意を形成する過程がある。いつも闘いばかりするのであれば、それは政治ではなく闘争であるにすぎず、結局は銃剣で勝負を決することとなる。したがって民主的政治の過程においては討論、説得、妥協を通じた合意の導出を政治の終着駅だと認識する。

真相を明らかにし
理解を求めるべき

 政治をひとことで表現すれば闘いと合意の合奏曲と言えるだろう。
 現在、政治圏を熱く燃え立たせている現代商船の2235億ウォン対北送金事件も例外ではなく、闘いと合意の政治過程を経ることになるだろう。真相究明、特別検査制、責任者の処罰、大統領の謝罪などを要求している攻撃の論理と、緊急緩和、平和共存、国益、統治行為などとつらなっている防御の論理の中で政治的闘いの実相が表れるだろう。そしていつかはこの事件についての政治的合意が実現されるだろう。
 ここで重要なことは「いつか」の時点だ。この点で「超法規的統治行為」という言葉で事件を終結しようとするキム・デジュン大統領は、あまりにも早急であるようだ。政治的闘いに欠かすことのできない時間の問題を度外視したまま性急に闘いを終結させようとした。政治的闘いが論争へと発展し、ひいては合意に至るまでは必ずや一定の時間が流れてしかるべきだ。
 「現代商船の対北送金」は、それ自体についてだけ見るとき大問題ではないと思う。2235億ウォンどころか、その10倍でも北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)に送ることができると思う。太陽政策にも力となり企業にとっても収支打算の合うことであれば、いったいどんな大問題になるというのだろう。深刻な問題は、その過程が非正常的だったということであり、さらに大きな問題は、この事件に関連した政府の態度だ。
 まず真相究明を回避しているキム大統領の立場に簡単に同意することはできない。現政府なりの裏事情はあるだろうけれども後ろ暗いところなく国民に真相を明らかにし理解を求めるのが正しいと思う。
 「超法規的統治行為」という言葉は、それ自体が拒否感を与える。そもそも大統領は法を破ってもよいとする主張の根拠は何なのか。法の上に存在する超法規的行為者は法制定の権限を有している主権者のほかにはありえない。かつての王朝時代には国王が超法規的統治権者だったとするなら、今日の民主主義の時代には国民だけが唯一の主権者であるだけだ。
 「太陽政策」は脱冷戦時代に韓(朝鮮)半島の平和定着のための画期的政策だ。理論的ルーツはドイツ統一の過程で検証された漸進的、機能主義的アプローチ理論で、「太陽」という名称が内包している自己中心性さえ克服できれば統一政策の根幹としてみなすに充分だ。
 どんなに良い政策でも法を破ってまで推進してはならない。国民はそのような権限まで大統領に付与しはしなかった。国家の非常事態時、大統領に制限的に超法規的権限を付与はしたものの、それもまた憲法に規定されており、事前・事後の手続きを踏まなければならない。
 対北送金事件において最も解決しがたい問題は、実定法違反をどう処理するのかの解法を求めることだ。現職大統領が自ら国家保安法に違反したとして自首した。さあ、どうやって解決すべきなのか。

充分な論争と政
治的合意が必要

 キム大統領をはじめ政府関係者を処罰する場合、太陽政策の基調が深刻に損なわれ、南北関係が冷却するおそれが高い。北韓の核問題で韓半島をめぐる緊張が高まっている状況にあって、南北関係さえも凍りつけば、わが民族の将来は一層不透明になる。反面、現政府の違法行為に目をつぶった場合、「超法規的統一行為」を認める結果になってしまう。
 ここでわれわれに必要なのは闘いと合意を実現していく政治過程だ。まず対北送金事件が意味するものが何なのか、全国民が充分に理解し判断できるように政治的闘いを忠実に進める必要がある。超法規的統治行為の危険性とともに太陽政策の必要性を国民が真剣に苦しみ悩むことができるように充分な論争が先行されてしかるべきだ。そうした後で、政治的合意が必要だ。
 国民が今回の事件を皮相的に理解するなら地域主義の壁は決して超えられない。反対にうんざりするほどに論争を繰り広げながらも政治的合意を導き出せないとなると、政治圏全体が無能な集団だという烙印を押されるだろう。充分に闘いを繰り広げてから合意の時点を正確に探し出すことこそが政治的知恵のカギだ。(「ハンギョレ21」第446号、03年2月20日付、「論壇」欄、キム・テヨン聖公会大、研究教授)

 ロトへの熱狂が広がっている中で2608億ウォンという数字が耳目を引いています。4週目に入った懸け金の累積が、政治の熱い焦点となった「2235億ウォン」を、ひょいと追い抜いたからです。ロトに投じられているカネと北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)がらみの2千億台のカネ。
 この2つの間に関連性がないが、国が潰れるほどではなく、われわれが十匙一飯(10人が力を合せれば1人の救済はできる、ということ)に集めることのできる金額ですが、宝くじを買う余力で北韓の同胞援助に、乗り出すことはできなかったのか。突然、すまない思いにとらわれます。カネにも威信があるのなら宝くじに流れ出たものよりは、それでも北に行った束の方がより品があるようです。
 2000年6月、南北首脳会談を前後して北に流れていったカネをめぐって、かまびすしいものがあります。しかし外信は、ソウルは驚くほどに平穏だと伝えています。戦争の準備だとか灯火管制まで行いつつ緊張感が漂っているピョンヤンとは余りにも違う、と伝えています。
 ソウルはピョンヤンに比べたらもちろんのこと、いつになく平穏です。決定的転換の契機は南北首脳会談だということを、だれであれ否定することはできません。われわれはこのように日常的であることはできないでしょう。首脳会談によって南と北は言葉が通じ合うことを体得しました。
 何よりも重要なことは、われわれが平和に対する自信感を持って一人立ちをし始めた、という点です。米国にしがみついて北韓を見ていたわれわれが50年目にして初めて米国と北韓の間で歩み始めたのです。カネで買ったと言われようが金(キン)で買ったと言われようが、これは色あせることのない首脳会談の歴史的成果です。
 南北関係の現実を見るとき、首脳会談に至る過程が「公開的かつ民主的で理にかなった通りに」進められるだろう、と期待するのは難しいことです。舞踏家イサドラ・ダンカンは自らの産みの過程を「そのとき私は血と汗と涙がないまぜになった状態だった」と記しました。南北が対決から和解へと進む大転換は崇高ではあるがごたまぜであり、慌しい出産の過程と変わりはないのです。創造というのは荒々しく激烈であり革命的だからです。
 だからと言って一切が免責され秘密主義が正しいというのではありません。ただ、初めての首脳会談の入り口に限っては目的が手段を正当化できると主張したいのです。手段が生命や自由を担保としない限りにおいて。特に自ら遺伝子を操作して親米反共を体質化した諸勢力が、手続き上の問題を手がかりとして首脳会談に至った成果や南韓(大韓民国)の一人立ちを必死になって揺さぶっている無重力的現実にあっては。
 いまが2000年5月でカネの問題が明らかになったとしても、「カジャ(行こう)!」と言うことでしょう。越えなければならない山は越えなければならないからです。したがって私はカネで買ったと言われようとも首脳会談については無罪の評決を下したいのです。ただ、その内訳は明らかにしなければならないでしょう。いつかは明らかになることを覚悟していたのでしょうから。もちろん、その過程においてビタ一文でも国内にリベートとして隠したと言うのであれば、その手には責任を問わなければなりませんが。(「ハンギョレ21」第446号、03年2月20日付、「ハンギョレ21」編集長チョン・ヨンム)


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