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「ホームレス」襲撃事件をめぐって          かけはし2003.2.17号より

「子どもたちと野宿者が出会うために」

弱い者いじめの連鎖を断つ

 【神奈川】二月一日、かながわ労働プラザで、『子どもたちと野宿者が出会うために〜「弱い者いじめの連鎖」を断つ〜』と題する講演会が行われた。講師はルポライターの北村年子さん。北村さんは九五年に起きた事件をルポした『大阪道頓堀川「ホームレス」襲撃事件“弱者いじめ”の連鎖を断つ』(太郎次郎社・九七年)を著すなど、子ども・女性・ジェンダーをはじめ、野宿者・被災者・婚外子の問題など、「社会的弱者」の視点から取材・執筆活動を続けている(主催者・講師略歴より)。

昨年1年で8件の野宿者襲撃事件

 昨年起きた野宿労働者襲撃事件は、新聞報道されただけで八件にのぼっている(主催者資料より)。神奈川においても、四月に茅ヶ崎の砂防林で少年らによるエアガンでの襲撃事件が起きた。その衝撃を受けて、七月には神奈川県で夜回り・パトロールを行っている仲間の呼びかけで集会が行われた。
 去る三十一日には、東村山で野宿労働者を死に追いやった十八歳の少年に対して東京地裁は最長五年(不定期)の実刑判決を言い渡した。
 北村さんは、釜ヶ崎や全国の寄せ場とのつながりを持ちながらも、加害者である少年たちを追及してきた。この講演会は、なんとしても子どもたちの野宿労働者襲撃を止めたい、子どもたちと野宿労働者が出会うにはとの思いから、日本キリスト教団神奈川教区寿地区センターが主催したものである。
 まず、最初に神奈川各地で夜回り・パトロールを行っている仲間たちが報告を行い、北村さんの講演を聞いた。
 なお、北村さんの著作「野宿者襲撃事件」は優れたルポである。ぜひ多くの人に読んでもらいたい。そして野宿者と真に出会い、子どもたちと向き合う中で、差別や偏見をなくしていくための努力の一助としてほしい。大阪で野宿者の夜回りに参加した子が、感想文に書いていたという。「おっちゃんの手は、暖かかった」。   (沢中仙)



北村年子さんの講演から

共感の回路を持てない子どもたちに向き合おう

 野宿者襲撃事件が起きるたびに、マスコミは子どもたちのストレスややり場のない怒りが、弱者に向かうという通り一遍の報道をする。私は事件が起きるたびに取材を続けていたが、砂漠に水をまくような徒労感を感じ、ここ数年襲撃事件を追うのがつらく、めげている。なぜなら、一人の子に関わって七年、現在でも更正していけるのか不安だからだ。
 大阪での襲撃事件の加害者の取材当初、襲う側の気持ちを理解しなければと取材を始めた。その中で被害者と加害者との間に引き裂かれていくことが何度もあった。「そんな子どもらの肩を持つ奴の話は聞きたくない」と。加害者の子(以下Z)は発作性の持病があり、小中学生の頃は、いじめっ子に迎合するしか自分を守ることができなかった。就職しても、病気を理由に解雇され、職を転々。まともに働けない自分の弱さを忌み嫌うようになった。事件が起きた大阪ミナミの戎橋は、歌を歌ったりたむろする子たちと、釜ケ崎のおっちゃんたち(野宿労働者)が共存するところ。Zもそこにたむろする子の一人だったが、「働きたくても職がない」「仕事がしたい」というところで、おっちゃんたちと通じるものがあった。
 当初橋に来たばかりの頃のZは、おっちゃんたちと将棋を指したり食べ物をおごったりしていた。しかし、橋にたむろしていた子たちが、一人ずつ「卒業」していく中で、自分だけいつまでも職が決まらず「取り残されている」と感じだした頃から、野宿者に対しての虐めがはじまった。Zはタイマン(一対一=同等)の喧嘩なら自分を止められるのに、寝ているおじさんを見ると、虐められている自分を見ているようで腹が立ったと言う。
 自己嫌悪・自己否定の念がわき、虐めることは自傷行為に近かった。Zは、現在刑を終え出所しているが、それで罪が終わったとは消して思わない。だが、映画「デッドマン・ウォーキング」(実話に基づいた米映画※注)のような癒しのボランティアが必要。いろいろな人が連携しながら、加害者のケアをしなければならない。誤解を恐れずにいえば、暴力の連鎖としてはZの事件は非常にわかりやすかった。だが、最近の子どもたちは、内面が見えづらくなっている。
 三年前に兵庫で起きた野宿者が、襲撃した少年の一人を殺してしまった事件で、襲撃した子どもたちに会いに行った時、消火器を野宿者に投げた一人の子は、なぜそんなものを投げたのかという問いに「びっくりして出てくると思った」と語った。動機が非常に幼い。差別意識は確かにあったと思う。その子に「親はなんて言ってる」と問うと「別に」という返事。共感力がない。共感の回路が持てない子どもたちに、向き合わなければ見えてこない。それを言葉でみなさんに伝えられない。みなさんで向き合ってほしい。
 最近起きた事件について子どもたちにインタビューをした時、中に、加害者に共感できるという子がいて「路上で寝ている人は腹が立つ。私はあんなとこで寝れないから、うらやましい」と言っていた。「もっと休みたい」「寝たい」「休息をとりたい」。野宿者は寒い路上で寝起きし酒を飲まざるをえない状況が、子どもたちには路上でのんびりしているように見える。子どもたちの満たされない欲求・願望があるのではないか。
 公教育に野宿者と出会って野宿者の人権を学ぶというプログラムが早急に必要。川崎では、それを実践している。しかし、学校というところは、野宿者の人権教育には敷居が高い。それは、野宿者が自分でしたこと、さぼったから、怠けたから、弱いから、頑張らないからという自業自得論が存在しているから。
 私は、働けない人とともに、働きたくない人の人権も同じように認めるべきだと思う。そうなると、勉強したくない子どもの権利も認めなければならなくなる。競争社会からはじかれる人の権利を認める社会が求められる。
 だが、野宿者に対するタブーは、少しずつ崩れ始めている。不景気、リストラ、高失業率、三万人の自殺者がでている現在の状況で、「お父さんも野宿者になるかも」という実感から、野宿者に対して共感できる社会に少しずつなってきている。(講演要旨、編集部責任)


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